(6−1)ハーフォードと卒業試験の終わり①
家にたどり着いた途端、ふたりして居間のソファーに沈み込んでしまった。
「帰ってきたーー」
うめくように言いながら、ハーフォードがパチリと指を鳴らす。それだけで、踏み荒らされていたリビングは、掃除され、ゴミが捨てられ、あっという間に片付いた。
魔術をそんなふうに家事代わりに使っちゃう?!とニーナは目を剥いた。が、ハーフォードは平然としていて、これが彼の本当の日常なのだと初めて知る。
家の外から、ザワザワと人が話したり、歌ったりする声がかすかに聞こえてくる。遠くで、音楽も聴こえる。
「楽しそうだね。夜中の冬至祭りも。スノースター、無事でよかった」
無惨に荒らされていた部屋の中、スノースターの花瓶は、机の上で無事だった。可憐な白い花束を見た瞬間、ほっとしてしまって、少しだけ、涙が出た。幸せが、壊れずにすんだような気がして。
ハーフォードも、ぐったりしながら、うなずいた。
「花に保存の魔法をかけて、マジックボックスにしまっておこうかな。幸運の女神に思える。……お前が無事で、本当によかった」
言いながら、膝にニーナを乗せて、隙あらば、顔や首や手、とにかくいろんなところに口付けようとする。
しばらくしたいようにしてから、ハーフォードは、ひとつ、深いため息をついた。
「……ごめんな」
「何が? 助けに来てくれたでしょ。本当にありがとう」
「でも……ごめんな」
「何が? 変なの」
「いろいろ。……お前の父親のことも。その感じだと、あいつらから聞いたんだろ。ニックのこと」
「……そうだね。でも、ディーが謝ることは、何にもないよ」
「いや。あの時、俺が自分の魔力を使えていたら、ニックを救えていたかもしれない……って、ごめんな、こんな話。辛いだろ」
「ううん、父さんの決めたことだから。ディーが気に病むことは何もない。ただね……これからは、父さんの思い出、いろいろ知りたい。私、ほとんど覚えてないから。ディーの中に父さんが生きているんだったら、とても嬉しい」
「……あーー。どんどん、後悔が噴き出してくる」
ニーナの首筋に、ぐりぐりと額を擦り付けて、ハーフォードはうめく。肩より短くなった髪の毛が、はらりと彼の顔を隠して、表情が見えないのがもどかしかった。
「俺、後悔したことないんだ。する意味もわからなかった。でも、さっきからいろんな後悔が押し寄せてきて……どうしていいのか、わからない」
「なんだ、そんなの簡単だよ」
ニーナは笑って、ハーフォードの中途半端に短くなった髪をツンツン引っ張った。
「寝ちゃおう。とにかく眠ろう。よく寝て、すっきりして、美味しいご飯食べて、それから順番に一緒に考えよう。私も、いろいろ聞きたいことはあるけど。とにかく寝よう。もう、明け方だよ」
「……ひと眠りして、起きたら……師匠とフィーのところに行ってもいいか。お前さえ良ければ……しばらく、4人で暮らしたい」
「もちろん!良いに決まってる。私もちゃんと会って直接お礼を言いたい。今日、すごく助けてもらって」
「うん……うん」
ぎゅうとニーナの体を抱きしめなおして、ハーフォードが、顔を伏せたまま、小さく尋ねる。
「なんもしないから、一緒に寝ていいか? このままだと、うまく眠れる自信がない。こんなの初めてだ」
「本当に? 何にもしない?」
「そんな気力、もうねぇよ。さすがに疲れた」
ハーフォードは、ようやっと顔をあげた。眉を下げて笑う。
「それに、お前の体の中から、師匠の魔力の気配がぷんぷんしててさ。変なことしたら師匠が飛んできて殺されそう。絶対無理」
ニーナは軽く吹き出した。
「わかった。一緒に寝よ」
ハーフォードは「ぴゅう」と口笛で喜びの音色を吹くと、ヒョイっとニーナを抱えて立ち上がった。
長かった冬至の、夜がようやく明ける。
起きたら、もう昼過ぎだった。魔力を取り戻したハーフォードの食欲は凄まじく、ランチは昨日の残りものだけでは全然足りなかった。急いで追加のパンと惣菜を山ほど買い込んで、山ほど食べた。
食べながら、ニーナを迎えにくるまでのハーフォードのことを聞き、ニーナは攫われてからのことを話す。
「たったひと晩で、人生が変わることって、あるんだな」
青い目が、穏やかに笑っている。ニーナを抱き込むように熟睡して、目が覚めてから、ハーフォードはずっとそんな顔をしている。
ニーナは年内最後の出勤日は休むことにして、長めに滞在できるように、旅行の準備を整えた。
「今、師匠がいる家、南だからな。夏服を持っていけば十分だ」
「年末年始に夏の服って、すごく不思議な感じだね?!」
わくわくしているニーナが愛らしくて、目尻を下げてから、ハーフォードは、師匠の部屋に向かった。立ち入り禁止、と言われつつ、ハーフォードは何度も勝手に入ったことがある。師匠がまったく自分で掃除をしなかったから仕方なく、だ。
今日、師匠に会ったら、ニーナの封印について、やり方を相談したい。参考になりそうな本が本棚にあることは知っていた。
ハーフォードは、いつもどおり、ドアを引き開けて——しばらく動きを止めた。
「……なんだよこれ……ふざけるな」
自分の声がやけに響く。
部屋は、空っぽだった。雑然と積み上げられていた魔導具の試作品も、テーブルに所狭しと並んでいた道具も、本棚から溢れ出す本も、壁に貼られていた師匠お気に入りの古い画家の絵も。
ぽっかりと、何もない。ただ、うっすらと床に埃が積もっていた。
まるで、ここに、最初から魔術師なんて住んでいなかった、とでも言うように。
だだっ広い、見慣れない空間が、寒々として目の前に転がっている。
ただひとつ、窓際の小さな書物机だけは残されていた。引き寄せられるように歩み寄った。
封筒が置いてある。魔術で施された封を切り、中をのぞくと、紙が入っていた。
家と土地の、権利書だった。
持ち主のところに書かれていた名前は、「ハーフォード・テナント」。
このカンティフラスの家が、ハーフォードの持ち物になっていた。勝手に。何の相談もなしに。権利書の作成日には、1年以上も前の日付が書き込まれている。
ハーフォードは、悟った。
師匠は、昔から決めて、長い時間をかけて準備していたのだ。一番弟子を、卒業試験だと言って放り出す前から。ハーフォードは、器用すぎて、なんでもそつなくこなし、魔術にも何にも執着を持たなかった。たまたま子どもの頃に師匠に拾われて、成り行きでくっついていただけだ。そんな弟子を、魔術師の道に無理やり縛り付けないように。彼が、もし魔術師にならなくても、住むところに困らないように。普通の職が山ほどある、この大都会の、大きな家を譲る、と。
他の道をいってもかまわない、魔術を忘れてもいい、自由になれと、だだっ広い師匠の部屋がいう。
だが、もう、ハーフォードは、ニーナのガラスを知っていた。彼女の親が練り上げた道を、ニーナの才能が受け継いで、その先の道を、のびのびと駆けていく。
さんざん逃げ回ってきたハーフォードも、覚悟を決めれば、できるはずだ。
ずっと、師匠を見て、育ってきた。いい加減で、ずぼらで、悪いところを、たくさん知っている。でも、良いところも、知っている。
師匠が作る魔導具は無駄がなく、緻密で、しかし、使う人を選んだ。師匠が信頼に足ると見極めた人にしか、決して動かせない。そんな魔術が組み込まれていた。そして、師匠の人を見る目は、いつも不思議と確かだった。それこそ、魔術以外の魔法が働いているかのように。
師匠の審美眼が、ハーフォードには不思議だった。だから、師匠と同じように、物を見ようと真似をした。同じように、魔導具を作ってみようとした。そしてだんだん、師匠の見ている世界を自分も感じられるようになっていき、道理の筋道を楽に見つけられるようになってきた。生きていくのが、だんだん楽になって、風のように気楽に生きはじめた。
結局、ハーフォードはこれまで、師匠の道を追ってきただけなのだ。
——そんな俺に、魔術師以外の、何になれって言うんだよ。
さんざん迷った自分を棚に上げて、そんな思いが湧いて出る。
ハーフォードは、とうとう自分の奥底に沈めていた本心を、認めざるを得なかった。ぼそり、とつぶやく声が、苛立ちを帯びて響いた。
「だって、俺はあんたの息子だろ。自分の跡を継がせないつもりかよ」
続きは明日投稿します。




