(5−7)ニーナと秘密の終わり③
「へぇ、これが? この爺さんが? 俺のニーナより命の価値があるって?」
ハーフォードはすたすたと、大きな天蓋のベッドに歩み寄り、その中に寝かされている男を見る。
「冗談だろ。単なる死にかけのジジイじゃねぇか」
「皇帝陛下に向かってなんという暴言を!」
魔術のせいで体は動かず、声だけを荒げるその壮年の男性を見やって、ハーフォードは眉を寄せた。
「ああ、あんた、宰相か? 5年くらい前に、うちの師匠のところに、泣き付きに来てたよな。日照りで雨が降らないから、降水の魔導具を貸してほしいって。師匠はあんたじゃなくて、一緒に来てた農務担当の大臣を気に入って、貸し出していた。あの魔導具、どうなった? 帰りに回収していくな。そしてお前たちは、二度と魔術師ファラン・テナントの助力を得られることはない」
「なっ……」
「ちなみに、あんたのとこの副宰相は、ガイザーブル商会に、商会の職員には法律を守った扱いをする、ニーナにも手を出さないって約束してたらしいな。見返りに、皇帝が崩御した後、幼い皇太子の即位に力を貸すって商会から言われてたはずだし、資金も提供され始めてる。でも、ははっ。ここに揃ってるのは、第2皇子の派閥だな。ガイザーブルとの約束を反故にしてまで、皇帝陛下にまだ死なれたら困るって? へぇぇぇぇ。お前たちの国の食糧、何割をあの商会からの輸入に頼ってるか、知ってるんだな? ガイザーブルから見捨てられた今後を、乗り切る策はもうあるんだな? たかだか民間の商会だと舐めるのはいいが、あいつらは裏切られた相手には一切容赦しないって知っといた方がいい」
朗々と、底冷えのする声で告げられた内容に、宰相のそばにいた人々が一様に蒼白になる。
「そっ……その小娘の父親が、義務を放棄したからいけないのだ! 娘、さあ命を差し出せ!呪文を唱えろ!」
部屋の反対側から声が飛ぶ。
ハーフォードは、冷たい憤怒の微笑みを浮かべて、ゆったりと声の主を振り返る。その苛烈な眼差しをあびせられた瞬間、その周囲の人々もいっせいに血の気を失った。形のいい彼のくちびるが笑みの形を描き、ゆっくりと、いっそ楽しげに言う。
「今、それを言うのは蛮勇だな? わかるか? ああ、わからない残念な頭だから言ったのか。では、わかりやすく教えてやろう。お前たちが『鬼火の悪魔』と呼んでいた魔術師。不都合なものを一瞬にして灰にしてくれる、お前たちが大好きな能力。本当に彼女だけの力だと思うか? ファラン・テナントの一番弟子が、同じことをできないとでも? 俺を本気で怒らせたらな。ここにいるお前たちの血液は、一瞬にして蒸発する。一瞬だ。ほら」
そう告げた瞬間、窓にかけられていた堂々たる金糸のカーテンが、すべて灰に変わり、床に音もなく積もった。
声をのむ音や短い悲鳴があちこちから聞こえ、そして、部屋は水を打って静まり返る。
今、この場を支配しているのは、完全にハーフォードだった。人々の恐怖の視線を集めた彼は、まるで冷酷無比な魔王のように、大国の皇帝の部屋に君臨している。
先ほどの暴言を吐いた男に向かって、小首を傾げて、哀れみの眼差しで、たいそう優雅に微笑んでみせた。
「お前もこうなりたいんだろう? 苦しまないぞ? よかったな?」
「ひっ」
魔術で固められたままの体勢で、くずれ落ちもできず、男は気絶する。
ニーナはハーフォードの形の良い耳をツンツンと引っ張って、ささやきかけた。
「ディー、おろして。私にもやらせて」
「え?」
闘志に燃えた緑の目を見て、ハーフォードはとたんに魔王を引っ込めた。それどころか、完全に及び腰になった。小声でニーナにささやき返す。
「おい、なにするんだよ。突撃して殴りかかりそうな勢いだな。やめろ、俺の命がいくつあっても足りない」
「大丈夫!殴らない!こぶしでは!」
「こぶしでは、とは」
ますます不安の顔になるハーフォードを見て、ニーナは笑った。
「大丈夫。ついさっき、お師匠さんが来てくれたから」
「ええ?ああ?うん。ずっと、師匠の魔力の匂いがぷんぷんしてるよな。なるほど、お前の魔力、封印してくれてるな。そうか。うーん。……面白くねぇな」
「だから、今なら、私は何を話しても大丈夫なの。今こそ、言葉で、ぶん殴る!」
ニーナは問答無用でハーフォードの腕からおり、隣に並んだ。それからまっすぐに、居並ぶ人々の顔を見据えた。みな、高級そうな服を着て、身なりを整え、賢そうに見える。けれど、きっと中身は空っぽだ。自分たちのしようとしたことの意味を、疑おうともしていない。
「わかりました。お望みであれば、そんなに切望されている呪文を唱えます」
ニーナは背筋を伸ばした。胸を張った。大きな声で言い放つ。
「《メル・カルアリン・セル・マル・ニーナ》」
平然と、ニーナは再び言ってのける。
「《メル・カルアリン・セル・マル・ニーナ》」
凛とした声に横っ面を思い切り殴られたように、一様に人々はくちびるを震わせている。
ニーナは生きている。皇帝は死んだように生きている。彼らの望んだ奇跡は起こらない。たった、それだけのことで。
「ほら、何にも起こらない。あなたたちの信じていた世界はどこですか?」
ニーナは昂然と、周囲を睨みつける。
「私はガラス屋です。魔術師なんかじゃない。あなたたちは、自分に都合のいいことばかりを望む。それを傲慢に人に押し付け、自分の正義を少しも疑わない。だけど、私は、ニック・カワードとイリーナ・カワードの娘です。ガラス屋です。そのうちこの人の嫁になります。世界一幸せになります。それを邪魔する権利なんて、私の未来を奪う権利なんて、あなたたちには一つもない!!!」
「………………今、俺、公開プロポーズされた? マルタ帝国の大宮殿で? 皇帝と大臣たちの前で? うわぁ、俺の嫁が男前すぎる……」
ぼうぜんとハーフォードの手が腰に伸びてきて、体を引き寄せられる。ニーナの耳に直接流し込むように、どろりとささやく。
「だめだー、今すぐキスしたいー押し倒したいー」
「却下。そういうのは嫁になってから」
「えぇー?キスならいい?キスしていい?」
「そういうのは家に帰ってから」
「えぇー?!」
すばやく耳に口付け一つ落として、ハーフォードは顔を上げた。
「と言うわけだ。諸君。残念だったな。俺の嫁は幸せになるのに忙しい。お前たちに付き合ってる暇はない。だがな、俺は今、世界一気分がいいからな。お前たちに温情を与えてやってもいい」
ちらり、と、背後に寝ている皇帝を眺めやる。
「おい、宮廷医の目は節穴か。皇帝が目覚めないのは、毒を盛られてるからだ。特級レベルの魔術師に見せれば、一発でわかる。ああ、この国には特級魔術師はいないんだったか。ガイザーブル商会に仲介を頼み込む大金と手間とをケチったか。俺を4カ月もつけ回してる暇があったら、特級魔術師を正攻法で口説き落とせよ。まぁ、変人ばっかで骨が折れるがな」
「毒……!そのような屈辱的なことを言われるとは……!」
「あんたが主治医か。この毒に本気で気づいてないなら医者やめろ。ああ、なるほど。あんたと大臣の誰かが結託して盛ってたか? 俺が感じるだけでも、シトールの根、タミンの茎、リコルの葉、アシンのめしべ、ロリン岩。遅効性で珍しい毒のオンパレードだ。誰か、こいつの持ち物の中、調べてみろよ。ちょうど今も持ち歩いてるみたいだぜ」
ちらり、と男の足元のカバンを見て、ハーフォードはせせら笑った。
「だが、今、俺は本当に機嫌がいい。特別に、一度だけ、この爺さんを治してやろう。解毒をするには、毒を吸い上げて移すため依代がいるな……ああ、ちょうどいい。そこの主治医。お前が自らの体で毒を受け止めろ」
「め、め、め、滅相もない!」
泡を吹くように、狂ったように医者が首を振る。
「へぇ、皇帝の体に毒があることを認めたな? では、他に立候補する奴はいるか? 吸い上げた毒を、たっぷり味わわせてやろう。へぇ? いないのか? ニーナの命は犠牲にしようとしたくせに? 自分の命を差し出すものはいないって? 偽善者ばかりですばらしいな」
鼻で笑うと、ハーフォードは、自分の髪からかんざしを引き抜いた。
「ニーナ、ごめんな。これ、預かっててくれるか」
そっと、ニーナの手のひらに大事に置いて、自分の銀の髪を下ろす。
「仕方がないから、俺が身代わりになってやろう。魔術師の髪は、魔力のかたまり。魔術師の髪は、魔術師自身。ほら、偉大なる皇帝陛下に、献上するよ」
左手で後ろの髪の毛をまとめてつかんだ瞬間、さくり、と首のあたりで自然と切れた。
放たれた髪が宙に浮きながら、捻り集まって、目まぐるしく一つの組み紐を成していく。ベッドに寝そべる男に向かって漂って、腹の少し上で、ぴたりと止まった。
「《解毒》《吸収》」
痩せほそった皇帝の体から、紫がかった黒いもやが立ちのぼる。腹の上に待ち構える銀色の紐に向かって吸い寄せられていく。みるみる間に、黒く侵食され、周囲に何か腐敗しているような強烈な臭気が漂った。
すべてのもやを出し切ったとたん、
「《浄化》」
すっかり黒ずんだ紐が、一瞬光を放ち、次の瞬間、あとかたもなく消滅する。
「ほい。終了。ついでに特上の治癒魔法もサービスしてやる」
ハーフォードの手に大きな青白い魔法陣が浮かび、男の体に吸い込まれていく。
「5分もしないで目を覚ます。あんたたちの拘束も、そのくらいになったら解除されるようにしておいてやる。それまで、このくさーい残り香をじっと堪能していてくれ。あんたたちの皇帝の命の香りだ。すてきだろ?」
ニーナを後ろから抱きしめながら、ハーフォードは笑う。そして、怖いくらいにがらりと陽気な調子で叫んだ。
「じゃぁ、俺ら、帰るわ! 宮殿の守護魔法、移動に邪魔だから、ちょいと壊して帰るから。適当に修理しといてくれ。忠告するけど、特級魔術師でないと、1年くらい修理にかかるぞ、たぶん」
ふわりと、ふたりの体が浮き上がる。「ああ、そういえば」とハーフォードが言いながら、とどめの氷点下の微笑みを人々に振りまいた。
「他国の一般人を拉致した罪は、どう裁かれるのかな? それから俺、春からカンティフラス王宮魔術師団の団長補佐だから。そんな地位の魔術師の嫁に手を出したら、国際問題だって知ってる? しかも俺、皇帝陛下の命の恩人。はは。よろしくな!」
続きは明朝投稿します!




