(5−5)ニーナと秘密の終わり①
かすかに、ハーフォードの声が聞こえた気がした。ニーナはゆっくりと目を開ける。
どのくらい、寝ていたのだろう。すごく長かったようにも思えるし、あっという間だったようにも感じる。
ほとんど意識のない中で、自分のベッドから乱暴に連れ去られたのは、なんとなく覚えている。あたたかいベッドの中から引き剥がされた不安が過ぎって、その後の記憶がない。
だんだん意識が覚醒してくると、部屋の様子もわかってくる。
ベッドに寝かされていて、頭上には、珍しい形のランプが吊り下げられている。細かいガラスを散りばめたモザイクで作られていた。あたたかみのあるオレンジと赤の菱形のガラスで描かれた幾何学模様。目が惹きつけられ、こんなときなのに、「作ってみたい」とぼんやり思う。
こういうランプの話を、ハーフォードから聞いたことがあった。
マルタ帝国の魔導具屋で働いていた時に、いろとりどりのガラスのランプが店の壁に隙間なくかけられていて、夜に一つひとつ灯すのだ、と。それがとても幻想的で好きだった、と。話してくれた。
——きっと、ここは、マルタ帝国。
ハーフォードは、さぞかし心配していることだろう。
早く、帰らないと。
少し、喉が渇いている。枕元に置いてある水さしの水を飲みたいけれど、何が入っているのか、わからない。
諦めて、身を起こし、置いてあるコップだけを、手を伸ばして取った。
ガラスのグラスに、ランプと同じような幾何学模様が、金箔と赤で描かれている。顔料が気になって、まじまじと眺めてしまう。ベースのガラスには、少し気泡がまじっていた。それがまた味わいになっている。こんな時でなければ、この国のガラスをもっと見てみたいのに。
「お気に召しましたか」
ドアがガチャリと開いて、入ってきた男が言った。
見知らぬ男だった。灰色のローブをまとっていて、黒い髪に白髪が混じっている。身構えるニーナを見て、にんまりと口角が上がる。あの、ヘビみたいだった魔術師と、同族の気配がする。
「ニーナ・ヴィドロさん。ようこそ、あなたの父が暮らしていた城へ」
ニーナは面くらって、小首を傾げてしまう。まったく聞き覚えのない名前だった。
「……人違いです。私は、ニーナ・カワードです」
「あなたの父親のニコラスは、大変貴重な能力を持った、魔術師でした。そして、あなたにも同じ能力がある」
「私は、ニック・カワードの娘です。ガラス職人の子どもです。魔法など使えません」
「あなたにしか使えない魔法がある。それを、これから使ってもらいます」
ニーナは本当に怖くなった。この人は、言葉が通じない。こちらを凝視しながら、ニーナではない何かを見ている。ニーナには見えない、どこか違う世界に生きてる。
「ニコラスは自分の素晴らしい能力から逃げ出し、あなたの母親と駆け落ちした。彼は、大変残念な男だった。せっかく我々が捕まえて使命を与えたのに、義務を果たす前に、貴重な力をどうでもいいことに使ったのです。聞いていないのですか? ハーフォード・テナントから」
「……何を、ですか」
だめだ。この人と、会話してはいけない。同じ世界に、入ったらいけない。そう思うのに、ハーフォードの名前を聞いた瞬間、ニーナの口が、反射的に動いた。
ニヤリ、と、獲物をとらえた目が嗤う。
「白い小鬼のような魔術師の娘がいましてね。ちょうど、あなたと同じ年頃で、我々は鬼火の悪魔と呼んでいました。道具として便利でしてね。あっという間に、人でも物でも焼き払えますので。目障りなものを掃除するのにうってつけの道具でした」
ニーナは、耳を疑った。心が凍りつく。
この人は、何を言っているのだろう。まるで、便利な掃除用具を自慢するような口ぶりで。
「ニコラスは、たいそう可愛がっていました。自分の娘と同じ年頃というだけで」
父が出かけたまま、姿を消したのは、ニーナが3歳の時だった。それでは、
「……あなたは、幼い女の子に、そんな……そんな、酷いことを、させたのですか」
「便利な道具は、使うものでしょう。まぁ、それでもニコラスがまめに世話をしましてね。とうとう、つまらない、普通の人間に育ちましたよ。命令のたびに逆らうようになり、たいそう扱いが手間だった」
ハーフォードが黙って、何も教えてくれなかった意味が、わかった。本当はずっと、父のことを聞きたくて、でも彼が話さないのには、理由があるのだと感じていた。いつか話してくれるのを待っていた。でも、彼は、これをきっと一生語らない。
「ニコラスは、そのつまらない小鬼を、逃がそうとしたのです。ディーと名乗る下っ端の兵士と手を組んで。年々、鬼火の力が弱まってきた頃でしたのでね。ちょうどいいタイミングではありました。我々は、小鬼を処分した。なのに、息を吹き返したのです。ニコラスが、自分の命を与えたから」
「……いのち」
「あなたの一族の力です。自分の命と引き換えに、人の命を蘇らせる。なんとくだらないことに使ったのか。我が主君の一族のために使うべき能力だというのに」
嘆かわしげに、男は首を振る。ニーナは突然投げつけられた不条理を受け止められず、顔を背けた。この男を視界に入れることすら恐ろしい。
「……そんなの、人間の所業じゃない」
「いえ、私は人間ですよ。少なくとも帝国では。そして、あなたは道具です。『メル・カルアリン・セル・マル・ニーナ』。この言葉を覚えてください。そして、我が主君の臨終の床で、唱えてください。それだけであなたの義務は果たされる。1カ月以内に、機会が訪れることでしょう。それにしても、あなたの周りはなかなか守りが固かった。これだけ運び出すタイミングをうかがうのに苦労したのです。せいぜい、手間に見合うだけの働きをしてくれなくては」
言うだけ言うと、男は満足したように、さっさと部屋を出て行った。
ニーナは……放心した。
しばらくぼんやりして、それから、少しずつ、心が、動き出す。
きっと、これまで、ハーフォードが、全部、守ってくれていた。
カンティフラスの王都への旅も、毎日の送り迎えも、守護の魔術に守られた師匠のお家に一緒に住んでくれたことも、みんなみんな。
その手から少し離れただけで、世界は、こんなに歪んでいて、こんなに色を失っていく。
直感してしまう。ハーフォードが生きてきた魔術師の世界では、こんな残酷なこと、もしかしたら、そんなに珍しいことでは、ないのかも、しれない。
ハーフォードの顔を思い起こす。あの、美しい銀色と青色を、思い出す。体に染み付いてしまったぬくもりを、思い出す。世界一安心する腕の中。帰りたい。
——帰らなきゃ!
ニーナは急に、我に返った。悪夢のような世界がみるみる遠のいて、がばりとベッドの布団をめくり投げる。そのままの勢いで立ち上がる。気力が急に湧き上がってくる。頭が猛スピードで動き出す。こんなところで、弱っている暇はない。自分がいるのは、ハーフォードのいる世界だ。あんなヘビみたいな男の世界にいてたまるか。早く、彼のところに帰らないと。ニーナが傷ついたら、きっと、あの人は、もっともっと、傷ついてしまう。
ハーフォードは、ニーナがここにいることに気づいてくれるだろうか。もっと早く、誰かとなんとかして連絡をとる方法は——?
はっと思い出して、スカートのポケットを探る。毎日、持ち歩いていたお守りがある。
——お師匠さんがくれた、あの、キラキラした銀色のコイン!!
『俺は、あんたの味方になろう。これを空中に放り投げて俺を呼べ』
確かに師匠はそう言った。ハーフォードのお師匠さんだ。絶対に、相談に乗ってくれる。
ためらわず、勢いよくコインを上に放り投げた。ふわりと青白い光が広がって、
「お師匠さん!」
ニーナは飛び上がって、目の前の人に抱きつこうとして……その腕が宙をかいた。
『なんだよ、ようやく呼んでくれたと思ったら、大変なことになってんな』
のんびりした口調で現れたのは、間違いなくハーフォードとフィリアスの師匠で、しかしその小柄な体は、壁に透けている。
『すまんな。急いできたから、体は置いてきた。せっかく抱きついてもらえるチャンスだったのに、惜しいなぁ。で、なんでマルタ帝国の貴族用の牢屋なんかに閉じ込められてるんだよ』
「あの、自分でもよくわかってないんです。私のお父さんが、ニコラス・ヴィドロって人だって言われて……」
『ああーーーーー。ヴィドロ。なるほど。そりゃまた、災難だな。他になんか言われたか?』
「変な呪文を教えられて、主君のお亡くなりになりそうな時に、唱えろって。……そしたら、たぶん、私の命と引き換えに、その人が……生き返る」
『はっはっはっ、清々しいまでに外道だな! で、どうしたいんだ? 言われた通りにするのか?』
「いやです! ディーのところに帰ります!」
『どうして? 他のところに逃げた方がいいんじゃないのか? ハーフォードのところにいたら、あんたの素性を嗅ぎつけた奴らに、また襲われるかもしれない。誰も知らないところで、完全に別人として生きていった方が、楽かもしれないぜ?』
ニーナは激しく首を振った。ひょうひょうと楽しそうに、とんでもないことを言い出す師匠を思い切り睨みつける。
「絶対に嫌! そんなの、無理です。ディーのところに帰ります。何があったって、あの人のそばが、私の居場所。いつの間にか、そうなっていて、もう、どうしようもないんです。ディーのところに、どうしても、帰りたい!!」
『そうか』
師匠は、とてもやさしい顔で、ニーナを見た。
『そうか』
「あの、ディーに、私がここにいるって、伝えてもらえますか。すごく心配していると思うから」
『ああ、あいつ、死にそうな顔してたな』
「え?!」
『ついさっき、来たよ。死にそうな顔して、俺のところに詰め寄ってきた。腕輪を外せ、魔力を返せ、ニーナを迎えにいく、って。あいつ、あんたがいないともう生きていけない勢いだな。重くて悪いが、まぁ、よろしく頼むわ。不肖の息子ですまん』
軽やかに笑うと、師匠は、半透明の腕を伸ばして、ニーナの頭の上に手を置いた。
とたんに、自分の体の中の、なにかがすとん、と、落ち着いた。
『あんた、自分が魔力持ちだって気づいてないみたいだがな。持ってるぜ。しかも、その力が漏れて暴れ始めてる。とりあえず、仮にぴったり封印しといた。2カ月くらいは持つんじゃねぇかな。その間は、魔力のない、普通の人間と同じだ。教えられた変な呪文、唱えたところで何も起こらねぇ。2カ月すぎたら、あとはディーになんとかしてもらえ。手こずるかもしれないがな。あいつもこれくらいのこと、自分でやれるようにならねぇと』
「ありがとうございます!」
師匠はニーナの頭を撫でた。実体のない、幽霊のような透き通った体のはずなのに、とてもあたたかい、やさしい気配がする。
『それから、ここの守護魔術、ちょいと弱めておいたから。もうすぐ殴り込んでくると思うぜ。おっと、俺があいつの嫁とこんなにイチャイチャしてたって、バレたら絶対殺される。じゃぁな。上手いこと、あいつの手綱をずっと握っといてくれ』
師匠はパッとニーナの頭から手を離し、両手をあげてみせる。ニヤリと笑うと、その姿がかき消えた。
続きはまた明日!




