(5−3)ハーフォードは走る①
ニーナが、床に、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「ニーナ! おい、ニーナ!」
ハーフォードが抱きしめて、いくら呼んでも動かない。
血の気のひいた顔。額に浮かんだ大粒の汗。荒い呼吸。彼女の体に異変が起きているのは明白だった。
「おい、目を開けてくれ!頼むから」
すがりつくように、腕輪から魔力を引き出し、彼女に治癒魔法をかける。
何も起こらない。何も。
——彼女の、体に、悪いところは、ない。
だったら、だったら何だ。なんで、こんなことになっている。
ハーフォードはとっさに、テーブルの上の花瓶を見た。
床に落ちるはずだったはずの、花瓶を。
「まさか」
腕輪の魔力で、彼女の内側を探る。いつもだったら、たやすく感じ取れるはずなのに、水の層に包まれたような、鈍い感触が伝わってきた。自分の魔力でないからか。苛立って、舌打ちが漏れる。焦る気持ちを押し殺して、じわじわと潜っていって、
「見つけた」
ハーフォードは、目を見開いた。
彼女の体の奥底から、魔力が、漏れている。
以前、ニーナが森で小石をヘビに投げつけた時。たしかに彼女は魔力を無意識に使っていた。体から一瞬小さくこぼれ出すような、ほんの少しの魔力を。石を遠く、速く飛ばせるように。
それから、王都に来たばかりの頃。ニーナが師匠の目の前でとんぼ玉を作っていたとき。あの時は、本当にわずかな魔力が、彼女の体の中から漏れ出して、それから、ぴたり、と魔力の入り口が閉ざされたようだった。ニーナの内側の力を、大切に覆い隠すように。
その、奥深く施された守りの封印が、いつの間にか、大きくほころびている。
ほころびて、コントロールを知らない彼女の無意識の願いに従って、必要以上に強烈に吹き出して。そして魔力が欠乏した彼女の体を苦しめる。
師匠に連れてこられたばかりのフィリアスがそうだった。コントロールできず、無意識に魔力を過剰に使いすぎ、何日も寝込む。
今のニーナの様子とそっくりだった。これを繰り返すと、体が衰弱し、魔力を支えきれなくなり、最悪の場合は、力の暴走を招いて、——死ぬ。
「いつからだ。いつから、こうなった」
わからない。こんなに彼女の近くにいたのに。毎日、手をつないで、寄り添って、その幸せの壁の向こうに、自分は何を見落としていた。
後悔が、喉を焼く。息を止めるようにして、ハーフォードはそれを受け止める。
自分が、逃げていたからだ。
普通の人間に擬態して。中途半端に借り物の魔力を使って、いい気になって。
この4カ月、だんだん、魔力を使う時間が少なくなった。魔力を使う独特の感覚から、遠ざかっていくのが、心地よかった。五感を研ぎ澄まさなくても生きていける生活に、有頂天になった。
このまま、あいまいな場所で、一生ぬくぬくと暮らせるんじゃないかなんて。そんな甘えたことを考えたからだ。
本来の魔力を取り戻していたら、ニーナの異変に、すぐに気づけていただろう。自分の感覚の鋭さは、良くも悪くも魔術師の中でも抜きん出ている。
元々、ニーナの状況は、普通ではなかったのに。魔力を封印されているなど、異常だ。魔力を完全に封印しておくことなど、普通はあり得ない。ハーフォードだって、今は自分の力を外側に取り出せないだけで、腕輪の作用で休眠させられている魔力が、ゆるやかに体内を循環している。動いている心臓や血液を止められないのと同じことだ。
なのに、どうして、彼女の封印だけが完璧で、永遠に続くように思った。単に、自分がそう思い込みたかっただけだろう。
すべてから目を逸らして、真綿にくるまれたような、ぼんやりとあたたかい生活を望んだ自分のせいで、ニーナが今、苦しんでいる。
彼女の体を抱き寄せた手が、いつの間にか小刻みに震えている。何をしている。震えている暇なんかない。考えろ。考えないと、失ってしまう。思ったとたん、呼吸ができなくなる。違う。そうじゃない。考えろ。考えろ。考えろ。お前が冷静にならなければ——本当に、すべてを失う。そうなった世界に、生きている意味など、まるでない。
きっとニーナの両親は、彼女が生まれてまもなく、まだ魔力が芽吹かない種の状態で、その力を封印した。そして、毎年、封印の魔術を上書きしていたのだろう。それでも封印の内側で、種はそっと芽吹き、なかば眠りながら、ゆっくりと力を蓄えた。今、ニーナの母親が亡くなって時間が経ち、ほころびた封印の隙間を突き破るように、魔力が溢れ出し始めている。
一度動き出した魔力の源を、閉じ込めるのは容易なことではない。脈動してしまった魔力の心臓を、眠らせるための技術と力が必要だった。そんな大技、一度も試したこともない。
中途半端で、無力すぎる。
だが、借り物の魔力では弱すぎて、どのみち今のニーナを治せない。
やるべきことは、分かっている。
——今すぐ、魔力を取り戻す。
ニーナを助ける。絶対に、手放さない。自分の生きる、たった一つの理由を。それ以外のことは、どうでもいい。
ハーフォードはまっすぐに前を向いた。
「冬至祭りの夜に、死に物狂いの伝令鳥が飛んでくるから、何事かと思ったよ」
「すみません」
ハーフォードは深々と頭を下げる。
「いいよいいよ。ファランからも、お前がそのうち来ると聞いていた。これから妻とケーキを食べるところなんだ。お前も食べるかい」
そう言って、気さくに家の中に招き入れようとする男の顔を見て、ハーフォードは驚いた。なるほど、きっと彼が卒業試験で会うべき第2の魔術師だ。師匠のところに移動魔術で飛ぶためには大量の魔力が要る。それを融通してもらおうと押しかけたつもりで、まさかこの人に会うとは。
ハーフォードが、その男のことを知ったのは、実は4カ月も前のことだった。
王都での生活を始めてから、すぐ後のこと。ガイザーブル商会のダリルが、言ったのだ。
「あなたの探している人物かは分かりませんが、この国で一番の魔術師といえば、王宮魔術師団の第1魔術師団長、ガブリエル・ラミ閣下ですね。数少ない特級魔術師の中でも、ずば抜けた能力をお持ちです。大魔術師の呼び名に相応しい方だと思いますよ。人脈も広い方ですから、あなたの知りたいことをご存知かもしれません」
「へぇ、ずいぶん偉い人なんだな」
と、その時のハーフォードは笑った。そしてそのまま、何もしなかった。
卒業試験だと師匠にいきなり言われ、追い出されてから、ほとんど1年が経っている。ようやくやってきたハーフォードを怒りもせず、悠然とガブリエルは応接間に座る。
「ハーフォード、ずいぶん大人の顔つきになったな」
まるで、親戚のおじさんのように、顔をゆるめてこちらを見た。
「ご無沙汰しています。ハーフォード・テナントです」
ハーフォードはまた、深々と頭を下げた。目の前にいるのは、たまに師匠のところにふらりと遊びにくる男だった。自分が子どもの頃から、知っている。呼び名はリエル。まさか、ガブリエル・ラミ閣下だったなんて、誰が思うものか。
「お前から畏って敬語を使われるなんて、自分がとんでもない爺さんになった気分だよ。言っておくけれど、僕はまだ50歳だからな。ジジイ扱いはやめてくれ」
師匠と似たような灰褐色の髪を、師匠と比べられないくらいきちんと短く整えた男が笑う。
「で、ファランの気まぐれに付き合ってやってるんだって? お前も大変だな。うちの師匠の弟子は、ファランとカーラと僕だけだからさ。若い頃は一緒にいろいろ無茶をやったけどね。結局、ファラン兄さんがいちばん気ままな風のように生きている。ある意味うらやましいね」
最初に会ったカーラ・テナントと同じようなことを、ガブリエルも口にした。なるほど、きょうだいで言うことも似てくるものなのだろうか。だからこそ、ハーフォードは疑問に思ったことを口に出した。
「リエル、ファミリーネームはテナントじゃないんだな」
「テナントだったさ。結婚するときに、妻のファミリーネームに変えた。だって、彼女に一生縛りつけられるなんて、ゾクゾクするだろう」
せっかく見た目は紳士なのに、少し残念なことを口走って平然とするあたり、確かに彼は師匠ともきょうだいだ。
「これを、外したい」
腕輪を見せて、簡潔に告げる。
「いいよ。ファランから聞いている。僕の分のノルマの魔力をそこに入れてあげよう。ただし、条件がある」
ハーフォードはその条件を聞いて、迷うことなくうなずいた。
「なんだ。ずいぶんあっさり受け入れるね。これで君の人生、縛りつけられたようなものなのに」
言いながら、ガブリエルの手から青い魔力の帯が浮かび、きれいに腕輪に注がれていく。
「俺の魔力を解放して、すぐに助けたい人がいる。彼女のためだったら、俺は何をしてもかまわない」
「へぇ、そうか。本当に大人になったんだな」
ハーフォードは立ち上がって、嬉しそうなガブリエルに向かって、また深々と頭を下げた。
第1区にあるガブリエルの家を後にし、全力で走って家に戻る。
「ニーナ、戻ったぞ」
1階の階段の下から大声をあげる。3階の彼女の寝室に届くように力をこめて。家を出てから、1時間も経っていない。容体が悪くなっていないといい、目を覚ましているといい。もしかして、ガブリエルの良質な魔力を全て使ったら、なんとかなるかもしれない。そんなことを願いながら、階段を駆け上がる。
彼女の寝室をノックして、開ける。
「ニーナ?」
そこに寝かせていたはずの彼女の姿が、なかった。
ベッドはもぬけの殻で、ニーナが棚の上に大事に飾っていた、小さなガラス細工の動物たちが、床にぶちまけられている。
ベッドに触れると、あたたかい。ついさっきまで、ニーナがそこにいたように。
「くそっ!」
身を翻して、2階に降りる。閉めていたはずの窓が開け放たれていて、カーテンが冬の風に身を震わせている。ハーフォードの初めての『家』は無惨に踏み荒らされて、そこにあるのは氷のように冷たい静けさだけだった。
床に落ち、踏みつけられ潰れた雪の結晶のオーナメントを拾い上げる。鈍った感覚でもすぐわかる。誰かの魔力の痕跡がある。それも1人ではない。最低でも、3人。
——そんなはず、あるわけがない。
師匠の家は、鉄壁だ。
師匠の守護と防御の魔術がかけられている。この術は、魔術師本人の感覚と直につながっていて、何かあったらすぐに師匠が対応するはずだ。たかだか3人程度の魔術師に、こんなに簡単に打ち破られるはずがない。魔術が破られるとしたら、それは、
「まさか」
——師匠に、何か、あったのか?
ハーフォードは、腕輪を握りしめた。
ガブリエルに満量注いでもらったばかりの魔力が満ちている。これさえあれば、どこにでも行ける。
迷いなく、移動魔術を発動する。飛んだら、魔力を3分の1は消費してしまうだろう。そんな不十分な状態で、ニーナを取り戻しにいけない。間違えるな。今、自分がすべきことは、まず、自分自身の魔力を取り戻すことだ。
あっという間に、ハーフォードは飛んだ。
もう1話、続けて投稿します。よろしくお願いします。




