(1−2)ニーナはかくまう
「ニーナ!……ニーナ?」
遠慮なくガンガンと家のドアを叩く音がして、ニーナはびくんと震えた。急激に世界に色と温度が戻ってくる。指先が冷たい。
そうだ、もう、市に向かわないといけない時間だ。でも、この人を置いて?
「おーい、起きてんのかよ、ニーナ!!」
家先から遠慮なく呼ぶ大声がする。幼なじみのロイだった。実家の牧場で働く彼は、毎月、市の立つ日にニーナを迎えに来て、いつも荷馬車で町中まで連れて行ってくれる。
「ごめん、顔洗ってた。すぐいく!」
とっさに大声で返事をする。いつも通りの声が出せたことに感謝する。つむじ風のように家の中を駆け抜けて、玄関のポーチに飛び出すと、目の前にロイがいた。
とっさに後ろ手にドアを閉める。
ぜったいにここから先に踏み込んでほしくない、というニーナの無意識のポーズに気付くことなく、ロイは目を輝かせ、興奮しながら一気に告げる。
「今日の市、中止だってよ。罪人がこのあたりに逃げ込んだかもしれないって。なるべく家で過ごすようにって、町長からのお達しだ。俺も自警団で呼ばれたから、しばらく広場の詰め所にいるわ」
「へ……?」
一瞬、家の後ろに転がっている青年の、生気の抜けた青白い横顔が脳裏によぎった。絶対に誰にも話しちゃだめだ。何の根拠もないけれど、ニーナはとっさにそう思う。
身を固くして凍り付く彼女の緊張を、ロイは良いほうに受け取ったようだった。そばかすの浮かんだ鼻にしわを寄せるようにして、にっかと陽気に笑いかける。
「大丈夫だって。町のあちこちで、兵隊がうろうろしてたぜ。逃げた奴なんて、あっという間にとっつかまる。俺もいるし、安心しな。そんでな、市が中止になると、売り物がそのまま宙に浮いちまうだろ」
ずかずかと大股で後ろの荷馬車に引き返したロイは、栗毛色の頭を揺らしながら、大きな麻袋をよいしょっと持ってきて、ニーナの足元に置いた。子ども一人くらいなら優に入れそうな大きさだ。
「売るつもりだったチーズ、他のやつらの売りものと物々交換してきた。ちょっとわけてやるよ」
袋の口を緩めて中をのぞいてみると、そこにぎっしりと詰められていたのは、色とりどりの野菜に果物、パンや腸詰、ベーコン。まるで祭りのごちそうだった。
なのに、ニーナは家の裏が気になって気になってしかたない。上の空になりかける気持ちを、何とかぐっと目の前に引き寄せる。
「ありがとう! すごく助かる。でも、こんなにたくさんもらえないよ」
「まだまだ! うちの特製チーズとバター、卵もおまけだ」
ロイは、ひゃっひゃっひゃと満足そうに笑いながら、さらに袋をニーナに押し付けた。
「これ食ってしばらく家にじっとしてろ。女の一人暮らしだからな、ほんと用心しろよ」
ニーナの肩に右手を置いて、ロイは少し身をかがめて覗き込む。髪の毛と同じ色の茶色の瞳が、じいっとこちらを見た。
「なんだったら、今日は俺が泊まってやろうか」
「ばっかじゃないの! 間に合ってます」
ニーナは1歩後ろに下がり、軽くこぶしを握る。殴る構えをしてみせると、うはっと声を立てながら、ロイはがっしりした肩をのけぞらせてきびすを返した。
「だよな、お前、強えもんな。むしろ、なんかあったら自警団を助けてくれ」
ロイは馬車に乗り込みながら、にやりと笑って肩をすくめる。ニーナは思いっきりベーっと舌を出して見せてから、笑った。
「いつでも呼んで! でも、これ、ほんとありがとうねー」
にこにこと眉を下げたロイは、またな、と片手を上げ、馬をゆっくり走らせはじめる。荷台に積まれたたくさんの戦利品とともに去っていく彼を見送る。
後ろめたさを一瞬心によぎらせつつも、ふう、とニーナは安堵のため息をついた。
ロイが自分に向ける好意には、ずっと前から気づいている。でも、ニーナには、どうしても町を出て行きたい理由があった。なんとか友だちの距離を保とうとしながら、今までやってきているけれど、そろそろ限界かもしれなかった。いずれ2人が結婚するといい、と、町のおじさんおばさんたちからあたたかく見守られていることも知っている。この小さな町は大好きだ。けれど時々、どうしようもなく息が詰まる。
もらった大量の食料品を居間に引きずりこみ、もういちど、裏の勝手口から工房の方に回り込む。
男は、まったく同じ体勢で、地面に転がっている。
罪人が逃げている、とロイは言った。町なかで兵隊が探し回っている、とも。この人なんだろうか?
そうとしか思えないタイミングだった。でも、父のガラス細工を、とても大切そうに持ってきたこの男を、いきなり軍に突き出す気になれなかった。
この人は、父の名前を知っていた。なぜか、ニーナの名前まで呼んだ。きっと父のことを何か知っているのだ。ニーナが知らない、何かを。
とりあえず、かくまおう。
そう心に決めた。
なるべく見つからないよう、奥の工房で寝かせたほうがいい。工房には長椅子がある。父が引きこもって作業するときに、ベッド代わりに使っていたものだった。それに、いざというときは、納戸も、地下室もある。
素早く頭のなかで算段をつけてから、男のマントをはずす。肩をささえて、上半身をゆっくりと起こしてやる。
シャツの左の腹が破けていて、そこからえぐれたような赤黒い傷が見えた。かろうじて血は止まっているようだった。体を動かされたときの傷の痛みで、意識が覚醒したらしい。男はうめいて、目を開けた。
「ごめんね。立てる? あなたをその建物の中で寝かせたい」
あごで指し示すと、男はかすかに首を横に振った。
「俺のことは、いい」
絞り出すような声が言う。
「これを渡したら、消える」
「事情は後で聞く」
きっぱりと、ニーナは言い切った。じわじわと、お腹の底から自分でもよくわからない怒りがふつふつと湧き上がってくる。
「ここであなたを放っておいたら、夢見が悪すぎるでしょ! 勝手に人のうちに入り込んできたんだから、諦めて私に捕まっておいて」
男は面くらったように、わずかに口を開けた。とたんに、顔に少年のような無防備さがちらりとのぞく。
「……あんた、完全にニックの娘だな」
つぶやきながら腹筋を笑いの衝動で震わせ、「痛っ!」と小さく顔を歪ませる。荒い息のなかから、精一杯の明るさを浮かべた言葉が、とぎれとぎれに返ってくる。
「すまん……そのかっこいい言葉に甘えて……少し…世話になってもいいか。気ぃ…失うとか……かっこ悪ぃな」
ニーナに支えられながら、なんとかふらふらと立ち上がった。長椅子のところまで足を引きずりながらたどり着き、どうっと崩れて座り込む。
工房に常備してある薬箱の中から、消毒液の大瓶と軟膏、清潔な布を取り出し、応急の手当てをする。ガラス作りに、怪我はつきものだ。この軟膏は森に住む薬師からわけてもらったものだった。いつもは火傷や切り傷にとてもよく効くけれど、ここまで酷い傷に効果があるのか。縫った方がいい気がする。
本当は医者か薬師に直接見せたい。男の熱が高い。傷口から悪いものが入っていないこと、血が腐り始めていないことを祈るしかない。
薬師のマーサはいつも、市の日に町にやってきて、宿屋に一泊してから森に帰っていく。決めた。すぐに宿屋に会いに行こう。彼女はとても変わり者だけれど、昔からニーナをかわいがってくれていた。あの人なら、信頼できる。
ひとまず包帯を巻きつけ、シャツを着せた。工房の片隅で、ずっと出番なく眠っていた父の着替えがあってよかった。
男は熱で朦朧とした眼差しで、くるくる働くニーナをずっと眺めている。
痛み止めの丸薬を口に押し込み、水でなんとか飲み下してもらう。ブーツを脱がして横にさせる。
「あなた、名前は?」
自分にできることはすべてやり終えたニーナは、ようやく手を止めて尋ねた。
喉からなんとか押し出すような、かすれた声が聞こえる。
「ハーフォード……。ニックからは……ディーって呼ばれてたよ」
「……え?」
また男の口から、父の名前がこぼれる。聞き返した時には、すでに気絶するように眠っていた。
とにかくこの隙に、と、ニーナは家を飛び出した。
路上を見慣れない制服を着た兵士たちがうろうろと歩き回っている。いつもはのどかな町に、ぴりぴりと痛いような緊張感が漂っていた。そんななか、あえていつもの手製バッグを肩から斜めに下げ、いつものように胸を張って歩いていく。
「よぉ、ニーナちゃん、どこいくんだい。今は家にいた方がいいぜ」
町の人々に声をかけられるたびに、ニーナは手に巻いた包帯を見せて笑ってみせた。
「これ、ガラス作ってたら、火傷しちゃって。薬師のマーサさんのお薬がどうしても欲しくって。結構痛いんだよね。今日を逃すと、また森に帰っちゃうでしょ」
「それは大変だ!お大事にな。ほら、この飴食べて元気だしな」
みんな口々に言いながら、お菓子だなんだとお裾分けしてくれる。笑顔でお礼を言いながら、宿屋に到着するやいなや、薬師の部屋に駆け込んだ。
マーサは、ぐるぐると大げさに巻かれた手の包帯を解いてくれる。そして眉間にシワを寄せ、ニーナのおでこを指で小突いた。
「こら、何の火傷もしてないじゃないか。心配させるんじゃないよ」
その手をぎゅっと両手で握りしめ、身を思いきり乗りだして訴える。
「あのね、マーサさん、こっそり診てほしい人がいるの。すごい怪我してるの。うちから動かせなくて」
「すごい怪我? あんたの友だちか?」
マーサは怪訝そうに眉を上げた。両親の友だちでもある彼女は、ニーナが一人暮らしをしていることも、よく見知った人でないと家に上げないことも知っている。
「ううん、私の友だちじゃなくて……お父さんの知り合いみたい。お父さんの作ったガラス玉を持ってて」
「ニックの?」
ますますうろんそうにつぶやいてから、マーサはニーナの手に、再び包帯を巻き始めた。
「わかった。仕方がないから、あんたの火傷が酷いことにしてやろう。早く薬を調合して手当した方がいいから、これからあんたの家にいく、ってことで」
「ありがとう!」
「こら、急に飛びつかないの。包帯がまけないだろ。そういう元気が有り余ってるところ、本当にあんたのお母さんそっくりだよね」
怒ったような口調とうらはらに、優しく細められた目が、ニーナに向けられる。母が生きていたら、マーサと同じ歳。こういうとき、母もいてくれたら、どんなに良いだろう。かすかに感じた心細さを振り払って、ニーナは元気よく立ち上がった。
マーサは、すぐに一緒に来てくれた。背をしゃんと伸ばし、おかっぱの黒髪を揺らしながら凛と歩く薬師は、町の有名人だ。彼女がいつも下げている大きなカバンの中の薬が、町の多くの人の健康を守っている。
だが、今日は、後ろを歩く包帯姿のニーナの方が目を引いた。帰り道でも、何度も町の人から心配の声をかけられる。冷や汗が流れた。けれどこれだけ目立ったら、しばらく薬師がニーナの家を出入りしても、不自然には思われないはず!
家について、男の脇腹の傷を見るなり、マーサは眉を思い切りひそめた。湯を沸かすように告げた後、いくつかの軟膏と薬瓶を取り出し、てきぱきと処置をしてくれた。
湯で体を拭き、手や腕、足にある小さな無数の傷も手当てする。流れるような動きを見せていたマーサは、ふいにぴたり、と止まった。左手首につけられた、銀色の腕輪をじっと見ている。
「ああ、これは……なるほどね」
低い声が漏れる。それ以上のことは何も言わず、処置を終え、最後に首から下げられたガラスのペンダントを見て、再びほんの一瞬だけ動きを止め、そっとその上にシャツを合わせて隠し、ボタンを閉じた。
薬師は腕組みをして男を眺め、それからニーナの顔を見る。急に疲れた顔をして、深くため息をついた。
「ほんとはうちに連れ帰って面倒をみたいけど、今は動かさないほうがいい。心配だけど……何かあったらすぐに呼びに来て」
そのままニーナをじろりと横目で見る。
「あんた……今日、市が中止になった理由、知ってる? お尋ね者の人相書き、見た? それでも助ける?」
ニーナは黙ってうなずいた。町中のあちこちに貼られていて、見ないわけにはいかなかった。銀髪、長身、青い目、若い男——すべて、当てはまる。
「そう」
マーサはそれ以上なにも聞かず、
「そういう一度決めたら引かないところ、やっぱり、あんたの母さんにそっくりよね」
またため息をつく。かばんの中をあさると、中くらいの黒い瓶をニーナに手渡した。
「目を覚ましたら、この煎じ薬を少しずつ飲ませてやりな。だんだん喉が慣れてきたら、スープも飲ませてやるといい。あんたのミルクスープは絶品だから。3日後にもう一度くる」
そしてニーナをぎゅっと抱きしめた彼女は、約束通り、3日後にまた来てくれた。
その頃には、男の熱は次第に下がり始め、ぼんやりとしながらも目を覚ましている時間が増えていた。ニーナ特製のスープも、どうにか男の腹に収まった。ハーフォードと名乗った男は、毎日、礼の言葉は口にするものの、それ以上のことを話そうとしない。いろいろ聞きたい気持ちを押さえ、ニーナは看病に徹していた。男の脇腹の傷は、驚くべき順調さで治りつつあるように見えた。どう見ても、常人ではない回復スピードで。
一度、ニーナの火傷のことを聞きつけて、ロイが来た。家の前で、少し立ち話をする。相変わらず捜索の兵士たちが滞在していて、町の中心部は浮き足だった雰囲気が続いていると教えてくれた。ニーナは内心の緊張をぐっとこらえ、「早く落ち着くといいね」と明るくうなずいた。
そうして、息を殺すような3日間が過ぎた。再びやってきたマーサは、別れた時と同じようにぎゅっと抱きしめてくれて、「よく頑張ったね」と笑った。そして、男の傷をチェックし、その治りの異様な速さに軽く目を見開いた。何かを理解したような表情で、ため息をつく。
「もう心配ない。あとはどんどん治るのみ。また時間を見つけて、見に来るけど」
そう太鼓判をおした薬師は、射るように男をにらんだ。
「で? あんた、魔術師なんだろ。なんで魔力封じの腕輪なんてはめられてるの」