(4−2)ニーナと動物園
翌日は、突き抜けるような晴天だった。
「カンティフラスへの移動は夕方を予定しているので、それまでゆっくり遊んできてくださいね」
この上なくニコニコしたダリルに見送られ、やはり手を絡めるようにして動物園まで歩く。
「あの、手をつながないという選択肢は……?」
「一切認められない。どうしても拒否するというなら……こうだ!」
重々しい口調で宣言され……急にパッと手を解放されたかと思うと、ぎゅっと腰を引き寄せられる。今日は一日動きやすいようにワンピースではなくズボン姿で出てきたので、太ももの方までぴたりとくっついてしまう。
一気にハーフォードの体温が近くなって、ニーナの頭は弾けて飛んだ。
「おお、これはいいな。俺はこれがとても好きだ! 非常に満足している!」
一転、浮かれた口調で宣言されたので、ますますニーナの頭は弾けて飛び去る。
すでに羞恥で心がほとんど死んでいるのに、これ以上、腰を抱かれ続けたら……完全に死ぬ。なんとか手つなぎに戻してほしい。
もぞもぞと手を動かして、腰を抱え込むハーフォードの指を引き剥がそうとしたら、パッと上から手を押さえつけられて、そのまま指の間に彼の指をかぶせるように差し込まれる。
腰を抱かれたまま、手も絡められて歩く、という構図が爆誕してしまった。もうだめだ。
「か、かんてぃふらすにつくまえに、しんでしまう……」
息も絶え絶えにつぶやく。
「死ぬの? それは困るな。本当に?」
立ち止まって、この上なく嬉しそうに顔を覗き込まれ、空いている手で頬をムニムニと摘まれた。「うん、大丈夫。元気だ。死なねぇよ」と笑われて、ゆるりと腰が解放され、手つなぎに戻される。
よ、よかった……これで、なんとか、元通り……と、あえぐように思った瞬間、絡めたままのハーフォードの親指が、ニーナの手の甲を、すりすりっ、とやさしく大切そうにこすったから——もう、ほんとうに、しにました。
我に返ったら、動物園の中だった。
椅子に腰掛けて、膝に茶色いウサギが載っていて、一心不乱にニンジンを食べている。動物と触れ合えるコーナーらしい。田舎育ちのニーナには、ウサギは珍しいものではないけれど、ここまで人間に懐いているウサギは初めて見た。思わずその体を撫でて、「やわらかーい!」と感動してしまう。
「かわいいな」
ハーフォードは、とろけそうな顔でそれを眺めている。そんなにウサギが好きだったんだろうか。あの、母が作ったウサギのガラスの置物、あげたら喜んでくれるかな。
「いや、お前な。ウサギもかわいいけど」
内心を見透かされたようにさらりと言われ、それからハーフォードは、「この光景を残すにはどうしたらいいか……」とボソボソつぶやきながら、腕を組んで何かを考え込みはじめてしまう。
とうとう深く考えるのをやめたニーナは、ウサギを持ち上げて、よいしょっと、ハーフォードの腕の中に置いた。
「うぉ、なんだ、このウサギの体、すげぇモチモチしてるな。なんだよ、鼻をひこひこさせて。はぁー、美味そう」
「いや、食べないで!」
「だって、美味いだろ、ウサギ」
「そりゃ美味しいけれども」
顔を見合わせて、くすくす笑ってしまう。それからまた、手をつないで、いろいろな動物を見てまわった。
ニーナも、動物園に来るのは初めてだ。なんでも、50年くらい前に、カンティフラスの王都に初めてできた施設だそうで、そこから評判が評判を呼んで、お金のある都市にポツポツ作られ始めているらしい。
ここは、高級リゾート地の中に作られた動物園だからか、建物のデザインが気品があって優美だ。動物が住んでいるスペースも、例外ではない。華美な唐草模様の曲線を組み合わせた柵で区切られ、立派な大理石で作られた椅子が、飼育場の中に置いてあったりする。その上で、アライグマが満足そうにお腹を出して寝ているのを見た時は、ちょっと笑ってしまった。
一番驚いたのはキリンという動物で、この動物園の目玉らしい。あまりの首の長さと、茶色をベースとした体のシマ模様の神秘的な美しさに見惚れてしまう。
木陰のベンチに座りながら、飽きずに眺める。
「この子、ガラスで作れるかな……」
「おう、しっかり見とけ。作ったら、一番最初に俺にくれ」
やわらかい声で応えながら、ハーフォードはのんびりとキリンを眺めている。気のゆるんだ横顔は、どこにでもいそうな普通の男の子のものに見えた。
「こういうのも、いいな」
ぼんやりとしたつぶやきの後に、ふわぁぁと彼の口からあくびが漏れる。
「ニーナ、もうちょっと見てるか?」
「うん。見たい」
「わかった。俺、寝る。膝貸せ」
言うなり、ごろんと横になる。ニーナの太ももに、頭を預けた。そのままぴたりと動かなくなる。
ニーナは固まった。それから、そろり、と膝の上の顔を見下ろした。閉じたまぶたの長いまつ毛に意識を吸い寄せられて、すっかり目を離せなくなってしまう。
「ディー?」
小さく呼びかけても、返事がない。
そっと頭を撫でてみる。お互いに触れたところから、穏やかで深い呼吸とぬくもりが伝わってきた。さらさらで少し硬い髪の毛の感触が、やみつきになりそうだった。甘くやわらかい何かが、胸を満たしていく。
「そうだね。こういうのも、いいね」
つぶやきながら、ニーナは、キリンを眺め続けた。絶対に、この子を、ガラスに残そう。見るたびに、きっと、幸せになれる。ハーフォードもきっと、一緒に笑顔になってくれる。そうやって、思い出をたくさん棚に飾っていけたら、いいな。
ふと、家の工房に並べてあった、両親のガラスを思い出す。ウサギ、キツネ、お花、くだもの。
ニーナは笑った。——そうなんだね。こういう気持ちで、父さんも、母さんも、ふたりの思い出をガラスにしていたんだね。
誰かのために作るということを、初めてちゃんと知った気がした。ハーフォードのためのキリンを、早く作りたい。
ざわりと木々が鳴った。ぱちり、と、ハーフォードの青色の目が開いた。
「俺、どのくらい寝てた?」
体を倒したままの姿勢で尋ねられる。
「1時間くらいかな?」
「そうか。嫌だな、起きたくねぇな」
うなるようにぶつぶつこぼすその顔が、しかし、鋭く引き締まって見える。油断のない眼差しが、まっすぐに前を見ている。
「……どうかした?」
「入り口の結界が破られた」
「え?」
「ここの動物園、大量の魔術結界が張られている。今の俺が感じられる限りでも、まず、全体に魔術無効の守護結界。入り口に、不審者対策の捕縛結界。動物のスペースごとに、逃走防止の結界と、空調の結界。だから安心して寝てたんだけどなぁ。……あ、魔術無効の結界も壊されたな、今」
寝たまま右手を指折り数えていたハーフォードが、そのまま左手の腕輪に右手をぽんと置いた。青白い魔力の光が、握ったこぶしにじわりとまとわりつく。
「とりあえず、低級魔法2回分な。このままお前抱えて飛ぶから、大人しくしてろよ。俺の首にしっかり両腕を回せ」
「わかった」
ニーナはすぐにうなずいた。状況が全然わからない。今、わかるのは、とにかくハーフォードを信頼するということだけだった。
「いい子だ」
顔を動かさず、横目でニーナを見上げて笑う。
「……いくぞ」
するりと体を起こすと、片腕でニーナの腰を抱きながら、ハーフォードは短く魔術を紡いだ。
「《上昇》《浮遊》」
一気に気流に乗って、上空に舞いあがる。速い!!!そして……寒い!
しっかり首にしがみついたニーナにちらりと目を走らせてから、ハーフォードは上空の気流を受け流し、そのまま下を見てぼやいた。
「最悪だ。動物の結界まで、破りやがった。オオカミのとこだな。あれが犯人の魔術師か……って、ヘビを使い魔にしてた奴じゃねぇか! 動物大好きかよ。……おっと」
わずかに身をよじる。目と鼻の先をかすめるようにして空気の刃が鋭く鳴った。下から放たれた勢いそのままに、上空まで上りつめ、音だけ残して散っていく。
「魔力の無駄遣いだろ。こんな離れた距離で、地上からの攻撃魔法が当たると信じてる時点で見通しが甘すぎる」
ハーフォードは毒づきながら、ニーナの体をより強くキュッと抱き寄せる。彼の顔はこの上なく平然としていて、腕の中はあたたかい。ニーナは一瞬、下の世界を見晴らした。目に飛び込んでくる動物園の全景も、周りの風景も、遠く小さく、誰かの作った壮大な箱庭のようだ。恐怖の心まで地上に置いてきてしまったように、全然怖くなかった。驚かないといけない急襲撃のはずなのに、ひどく落ち着いている自分に、一番驚く。むしろ何より安心できる場所にいるように思えてしまって、ハーフォードの首に回した腕に、より力を込めてみる。ほら、ますます、怖くない。
ハーフォードはそんなニーナの様子に気付いて小さく笑い、油断なく下を見つめたまま、自分の顔をすりっと赤毛の頭に擦り寄せた。
「このまま逃げようかと思ったんだけどなぁ……あいつに操られるオオカミは気の毒だよな。ニーナ、オオカミ好きか? そうか。じゃぁ、しょうがない。助けるか」
とっさにコクコクうなずくニーナを見て、軽く言い放ちながら、ひらりひらりと身をかわす。そのたびに、鋭く研がれた空気が虚しく逸れていく。
「これ以上、動物の結界を破られたら厄介だな。ああ、もう、めんどくせぇ。捕まえよう」
腕輪から引き出した魔力で、青白く光を帯びる魔法陣をふたつ、立ち上げる。無造作に手のひらを下に向けると——
「ニーナ、下に降りるからしっかりつかまれよ……行くぞ!」
——急下降した! 落下の感覚に息を止めるニーナの耳に、淡々と命令を繰り出すハーフォードの声が届く。
「《展開》《始動》」
声に連動して素早く魔法陣が光り、長く鋭い矢が生まれる。豪速の矢羽が空気を切り裂く。魔術師が張った防護結界をたやすく突き抜けたとたん、網に転じて大きく広がり、魔術師の体を突き倒して勢いよく絡みついた。
——次の瞬間、すべての決着がついていた。
地面に転がされているのは、見覚えのない初老の男。
ハーフォードは、降り立ちながら、呆れて首を振った。
「対応速度も詠唱も遅い。なりふり構わないにも程があるだろ。俺たちがカンティフラスに入る前になんとかしようと焦ったか」
身動きの取れない魔術師は、ハーフォードには目もくれず、食い入るようにニーナを見た。にんまりと、ヘビのような笑みが浮かぶ。ニーナにもわかった。これは、森でロイの体を乗っ取った男だ。
そして、不思議な響きの言葉を放つ。
「メル・カルアリン・セル・マル・ニーナ」
「……っ、この野郎!」
とたんにハーフォードが激昂した。指を鳴らす。ぴたりと男の口が閉じられた。男がいくら喉の奥でうめいても、いっこうに言葉が出てこなくなった。捕縛の網が、その体をいっそうきつく締め上げる。苛立つハーフォードの指が、重ねて非情に鳴る。ますます網がギリギリと音を立てて動いた。
「……詠唱しなきゃ何にもできない三流野郎が。一生そのまま口閉じてろ」
氷点下の冷たさで、ハーフォードが吐き捨てる。
初めてハーフォードの激怒の表情を見てびっくりしすぎたニーナは、魔術師の謎の言葉に全身がぞわりと震えたことなど、すっかり忘れてしまった。とにかく最優先ですべきことを、何とか口にする。
「ディー、あの……」
「ん?」
「オオカミたちの、壊れた結界」
「ああ、こいつ捕まえた時に、同時に直しといたから大丈夫だ」
「よかった!」
ハーフォードは一瞬、きつくニーナの体を抱きしめてから、そっと離した。
「急に下に降りてごめんな。怖かっただろ」
「大丈夫。足元がすとんと抜けて、内臓がぞわって浮き上がる感じが、意外と楽しかった」
ハーフォードは、まじまじとニーナの顔を見る。こわばっていた彼の顔が、ようやくふわりとほころんだ。
「……お前、こういう時には肝が座ってんのな。最高だわ。ああ、魔術警備の担当がきたな。さっさとこいつを引き渡して帰ろうぜ」
見回すと、そこは動物園の中心にある広場だった。ざわざわとささやき合う客に遠巻きにされる中、警備の制服を着込んだ担当者たちが、4人ばらばらとこちらに向かって走ってくる。
合流した彼らに、魔術師が結界を破ったこと。その場でとらえた旨だけを簡潔に説明する。がんじがらめで転がされた男と、目の前の銀髪碧眼の青年を交互に見ながら困惑する警備員たちに、ハーフォードが何かを取り出して見せた。そこから紙切れを1枚ちぎって手渡すと、全員の顔色が変わった。背筋を伸ばし、いっせいに敬礼する。リーダーと思われるひとりが、きびきびと声を出した。
「かしこまりました。後のことは、ガイザーブル商会にて承ります」
「よろしく。そいつ、本気で一生口きけないようにしてあるから。飯は食えるけど、しゃべれはしない。あとはガイザーブル本部の判断に任せる。指示に従ってくれ」
さっさというと、ニーナの腰を抱きかかえ、再びふわりとハーフォードは浮かび上がった。
「とっとと飛んで帰ろうぜ」
「ねぇ、さっきの紙、何?」
「ダリルからもらった身分証明証というか、まぁ、とっておきの万能証みたいなもんだな」
まっしぐらにガイザーブル商会を目指し、建物の屋上を伝って飛びながら、ハーフォードが説明してくれる。
「ここの警備、ガイザーブル商会が請け負ってたからな。あの手帳は商会の特別関係者だっていう証明で、紙を渡すと、あとは商会に直接聞いてくれ、ってことなんだと。本当かよ、って思ってたけど、本当だったな。興味深い体験もできたことだし、もう十分楽しんだ。帰ったらすぐにカンティフラスに飛ぼうぜ」
ところが商会に着いてみると、中がバタバタと騒がしい。慌ただしく案内されたのは、移動魔法陣が設置されている部屋で、見たとたん、ニーナは息を飲み、ハーフォードは苦笑した。
「メチャクチャに壊されてんな。移動魔法陣も、動力源の装置も」
「申し訳ありません。警備の隙をつかれてしまい、お詫びのしようもございません」
青ざめたダリルが、硬い口調でいう。
「はは。俺たちは別に何の被害も被ってねぇよ。むしろお前の方が、ご主人様からきつーいお仕置きが待ってるんじゃねぇの」
「それはよろしいのです」
「よろしいのか」
「はい、むしろよろしいのです」
きっぱり言い切られ、ハーフォードは珍しく、鼻白んで沈黙した。無意識のままニーナの腰に手が伸び、引き寄せて、すうっとつむじの匂いを嗅ぐ。
「ああ、落ち着いた」
ぼんやり小さくつぶやかれて、ニーナは軽く機能停止した。
「申し訳ありません。移動魔法陣を再び組み直して稼働できるようになるまで、できれば1週間はいただければと」
「1週間は、長いな」
顔をしかめながら、ハーフォードはニーナを小脇に抱えたまま、破壊された魔法陣をつぶさに観察する。
「魔力の痕跡が残ってる。さっき攻撃してきた魔術師の仕業だ。でも、あいつの能力だけじゃ、ここまで見事に壊せない。何人か関係者がいる。1週間もあれば、他の奴らが襲ってくるかもしれない」
きびきびとした口調で、確かめるように事実を並べていく。
「動物園でも襲われた。その時の様子はこれから伝える。その後、俺たちは安全な場所に逃げる。あとは任せていいか。俺たち目当ての犯行だから、いなくなったらここは襲われない」
「逃げる、とおっしゃいますが、どちらに行かれるのですか?」
ハーフォードは腕輪を掲げて、涼しげに言い切った。
「秘密だ。今、まだそこそこ魔力が入っているからな。ふたりだけだったら、あんたたちの魔法陣がなくても、俺の力でカンティフラスの王都まで飛べる。安心しろ。ガイザーブル商会の建物より100倍くらいは安全なところにいく。指定された期日までに、商会本部に顔を出す」
続きは、明日午前中に投稿します!




