(1−1)ニーナとはじまりの朝
それは、夢のような眺めだった。
青、赤、黄金、白——複雑にまじりあった紋様が、透き通ったガラス球に封じ込められていて、ニーナはそこから目が離せない。
3歳を過ぎた娘が、呼吸を忘れたように自分の作品に見とれているのを眺めて、父はくすぐったそうに笑った。その手の中に収まった、美しい球がかすかに揺れる。
「さすが俺の娘だなあ。ガラス職人の血がうずくかな?」
見開かれたニーナの緑色の目を覗き込むようにして、父はそっと、卵ほどの大きさのガラス球を目の前に差し出してくれる。
ぺたり、と思わずそれに手を触れて、冷たさにあわててぴょんと後ろにさがる。背中に何かが当たって思わず見上げると母がいて、微笑みながらニーナのふっくらとしたほほを撫でた。
父は丁寧にガラス球を布に包み、袋に入れて、母に手渡す。
「もう少し大きくなったら、ガラスの扱い方を教えてやろうな。俺もそうやって師匠から叩き込まれた」
大きな手のひらが、ニーナの柔らかな赤毛の頭をぐりぐりとなでる。自分によく似たその緑色の父の瞳が、とても柔らかく、優しかったのを覚えている。
それが、父との最後の記憶だ。
***
「今日は何色にしよう?」
夜明け。薄明が窓からさしこみ、ベッドの形を浮かび上がらせる頃。
ニーナは薄い夜具のなかで大きくのびをして、はふ、とあくびを漏らしてから、ひとりごちた。
自分の声で、一気に目が覚める。
飛び起きた勢いが良すぎて、ととと、と前のめりにたたらを踏む。どうにか倒れ込む直前に止まって、そのまま壁に貼られた暦をパッと見た。
今日は20日。町の広場に市の立つ日だ。
作るガラスの色を考えている場合じゃなかった。準備しないと!
自分の作ったガラス細工を売って、今までコツコツお金を貯めてきた。今日、稼いだら、そろそろ旅立ってもいいかもしれない。そのためにも、とにかく、売らないと!!
壁ぎわの質素な書き物机へすっ飛んでいく。机の上に用意しておいた半袖のシャツとワンピースを手早く身に着け、置かれた細長い木箱をあけて、一にらみ。
「今日は、これにしよう」
細長いガラスのかんざしを1本取り出すと、明け方の窓際の淡い光にかざした。
かんざしは、はるか東の国からやってきたものらしい。棒1本で髪を束ねられる手軽さが受けて、数年前から国の女性たちの間で流行し始めた。最初は大きな街で起こった人気が、今やこんな小さな町にまで広がっている。ニーナの作るガラス細工の中でも、大人気の商品だ。
今日のかんざしは、透明なガラスの棒のなかに、深い紺色がゆらゆらと儚く帯状に封じ込められ、あちこちに銀のかけらが散りばめられている。まるで夜空のようで、
「われながら、よい出来!」
にっこりと花開くその笑顔は、母に似てきたとよく言われる。
同じく母親譲りの長くつややかな赤毛を器用にガラスの棒に絡めて、頭の後ろでひとつにまとめる。すっかり慣れた手つきに無駄はない。
居間に向かう階段を一気に駆け降り、ガラスの水差しをひっつかんで台所の勝手口から外にでると、むん、と初夏の草の匂いが身を包む。
井戸にするすると桶を降ろし、新鮮な水をくみ上げる。
そのまま顔を洗い、口をゆすぎ、傍らにつるしてある布で顔のしずくを吹く。軽く布を洗ってから同じところにつるして干し、庭の片隅にこんもりと生えているミントを1本手折って洗い、水差しの中に落としてから、水を注ぐ。
青く薫る早朝の風が、ニーナのうなじを心地よく揺らし、ふう、と一息ついた彼女は眼を細めながら空を見上げた。
「わあ、朝焼け」
こんな美しい夏の空、今日はなにかいいことがありそうな気がする。
あの色をガラスにするには、どの粉を使えばいいんだろう。マゼン粉、カルミ粉、それから蝋岩石を少し混ぜて——
……かすかに、何か、物音がした。
家の裏手、工房にしている小屋のあたりだろうか。
反射的に振り返り、はずみで水差しから水がこぼれる。布の靴に冷たさがしみこんでいくのを感じながら、そっと水差しを井戸の縁に置き、息を詰めて気配を探る。
確かに、なにか、音がする。獣のうなるような……?
このあいだ、森の入口近くまで熊が出たと聞いていた。だが、森から町の一番はずれのニーナの家まで、見通しのよい草っぱらがひろがっている。今まで17年生きてきて、熊がここまでやってきたことなど一度もない。
体を緊張させながら、家の中に引き返そうかと考える。だが、いつまでたっても、獣の息遣いがそこから動く様子はない。
いずれにしろ、今日の市で売るはずのガラス細工の髪飾りやトンボ玉は、工房の中に置いてあるのだ。取りに行かないわけにはいかなかった。
ニーナはごくりとつばを飲み、覚悟を決める。
家の壁に立てかけてあったほうきをそっとつかんで、うなり声のする方ににじり寄った。家の角に身をひそめるようにして、顔を半分だけ出して、きょろりとそちらを見た。
——人?!
大きな茶色のかたまりが、地面に横たわっている。かたまりは、上下に荒く動き、乱れた呼吸の音がする。
その茶色からはみ出したところに、黒いブーツのつま先が見えた。うそでしょう?人が倒れてるの?!
ニーナは家の陰から、思わず飛び出した。茶色いマントにくるまって、おそらく横倒しで体を丸めるその人に駆け寄った。
ほんの少しだけ、おそらく肩口だと思われるあたりをつついてみる。何の反応もない。慎重に近づき、そっと手をのばして、頭を隠しているフードを上げた。
息を飲むほど美しい銀髪がこぼれ出る。伸びきった髪で横顔がほぼ隠れていて、よくわからない。
髪の隙間から見える肌は、少し日焼けして、荒れている。細く乱れた呼吸とともに動く喉元が、男であることを告げていた。錆びついたような、不快な臭いが鼻を刺す。
荒事には縁のないニーナにだってわかる。それは、血の匂いだった。
おそるおそるしゃがみこむ。男の髪をおずおずと指でかき分けると、ほほに赤黒く血がこびりついている。額に手のひらを当てる。熱い。燃えるようだ。
「う……ん」
額に置かれた手の感触に驚いたのか、突然、男が低く小さな声をこぼす。薄く目を開き、わずかにこちらを見上げた。
若い男だった。たぶん、それほど歳も変わらない。覗き込むニーナの緑色の瞳と、目が合った。そのとたん、ニーナは意識のすべてを奪われる。
美しい、宝石のような、瑠璃色だった。
紫みを帯びた深い深い青の色に、吸い込まれそうになる。その目が感情を宿さないまま、ぼんやりと緩慢に瞬きをした。
「ニック……」
ふいにこぼれた名前に、ニーナは弾かれたように我に返る。震える声を、なんとか絞り出すことしかできない。
「なんで……父さんの名前……?」
それは、長い旅に出たまま帰ってこない、父の名前だった。
男の青の目がほんのわずかに見開かれ、今度ははっきりとこちらを見た。感情の読めない透明で張り詰めたまなざしのまま、彼女の顔をただ見つめ——やがて、その目じりからふっと力が抜けた。柔らかい笑みが漂い、そっとかすかな吐息のように言葉が落ちた。
「あんた……ニーナか」
ニーナは完全に息を止めた。この人に、一度も会ったことはない。なのに、どうして、自分の名前を呼ぶのだろう。まるで何か、とても大切な言葉のように。
そのまま目を閉じた男は、片手をのろのろと、おのれの首元にやる。
首にかけていた皮ひもをゆっくり引きずり出すと、その先にくくられていたものが胸元から零れ落ちた。
小さな、楕円型のペンダントトップ。
透き通ったガラスでできていて、その内側に閉じ込められているのは、青、赤、黄金、白——複雑にまじりあった紋様。
腕利きのガラス職人だった父が、最後に作り、家族に残したガラス球と同じ、美しい模様だった。
男は、それきり身動きを止めた。気を失ったようだった。
荒い呼吸の音をかすかに聞きながら、ニーナは、動けない。世界が時を止め、全身から視覚以外のすべての感覚が抜け落ちる。
ただ、目の前のガラスのペンダントトップだけが、美しく、朝日を帯びて光っている。