暗殺と奸計 1
1407年11月、イザボウは12人目の子供となる王子を出産する。
この子供は死産で、シャルル6世の子であるか大いに噂の的になったが、実際のところ、この時期にも王の側近達は、機会があれば見逃さずにイザボウを王の寝室へ送り込んだため、王の子ではないと断言できる者はいなかった。しかし、また、オルレアン公ルイはイザボウを慰めるため、死産直後の彼女を見舞ったため、オルレアン公の子であるという噂の信憑性が増し、二人とも噂に対しては沈黙を守ったため、更に疑惑は深まった。
そしてその翌日、センセーショナルな事件がパリの街を駆け巡る。
オルレアン公ルイ暗殺。
彼は、王妃を見舞ったあと、当時夢中になっていた市井の踊り子の元を訪れ、夜中に自宅へ帰る際にパリ市内の一角、ヴィヴィエイユ・デュ・タンプル通りで暴漢に襲われて亡くなった。首謀者はブルゴーニュ公ジャンであり、王族であるオルレアン公殺害は、流石に彼の地位を危うくするかと思われた。
事件の直後から、ブルゴーニュ公ジャンは事件の正当化と自らの地位を確保しようと行動を始める。もちろん彼は、勝算があったからこそ暗殺という強硬手段に出たのである。
ブルゴーニュ公にその任務を任されたパリ大学教授ジャン・プティは、ブルゴーニュ公のパリ帰還とともに弁護を始めた。彼は、オルレアン公ルイは社会の混乱をもたらしていた張本人で、秩序の回復の為に彼の殺害は必要不可欠であったと主張した。
生前のオルレアン公ルイは勝手に徴税を行い、税を何度も引き上げパリ市民を圧迫していた。そのためパリ市民はオルレアン公ルイを憎み、ブルゴーニュ公ジャンの入城を「ノエル」の掛け声とともに迎えている。
また、ドメニコ会の修道士でもあるジャン・プティは、ルイが謀反を企てたと主張した。その根拠となったのは、行軍中王が狂気に陥った際、ルイを斬り殺そうとしたこと、また、炎の舞踏会の野蛮人の催しを奨めたのがルイであると言及した。
彼の論説は大いに世論を動かし、さらには諸侯たちの危機回避の思惑もあって、最終的にはシャルトルで諸侯ら列席のもと、新たにオルレアン公となったシャルルと、ブルゴーニュ公ジャンとの間で和解が成立することになる。
何と言っても、ブルゴーニュ公はフランス王国の筆頭貴族であり、バリー公、アンジュ―公ブルボン公は、領地や役職の関係もあって、なかなか国政を中心に担うわけにはいかない。今、彼を処罰するのはパリ市民を激昂させ、沈めることが困難なだけでなく、王国中に混乱を引き起こす可能性があった。
そして、イザボウである。摂政権を掌握していても、自分一人では何もできないことを知っている彼女は、夫が反逆者であるとされた妻、ヴァレンティーナと共に反撃を試みる。夫の冤罪を晴らそうと領地からパリに出てきたヴァレンティーナを、一時的に正気を取り戻していたシャルル6世と謁見させるため、ジャンの妨害を退けた。シャルル6世は、自分が狂気の間の彼女の献身を忘れてはいなかったため、ヴァレンティーナを宥め、ルイの名誉回復を約束した。何と言っても二人は兄弟であり、反目することも多かったが既に死んでしまった今、反逆者の汚名を背負わせたままにするのは忍びなかったのだ。
イザボウは、ジャンの復讐を恐れて王太子を伴ってムランへと退いた。イザボウが各地で兵を集め始めると、武力行使を後押しするようにベリー公、アンジュ―公、ブルターニュ公もムランで王妃と合流した。
この時フランスにはまるで二つの政府が形成されたかのようだった。狂気の国王を擁したブルゴーニュ公ジャンと王妃と王太子を筆頭とする王族の政府である。ジャンは、直ちに政府高官を自分の腹心に入れ替えて、瞬く間にパリを掌握するも、この年半ば、リエージュで領民たちが反乱を起こし、パリを離れざるを得なくなった。
これを好機ととらえたイザボウはパリ奪還を試み、直ちに行軍を開始する。この時、市街戦を覚悟したパリ市民は略奪や暴行に怯えていたが、イザボウは彼らの不安を解消するべく、兵の専横を禁止し、王妃の名において軍兵の規律を厳しく戒め、背いた者は死罪とすると公言し、パリ市民は王妃を称賛したが、それもブルゴーニュ公がリエージュで勝利をおさめて戻ってくるまでのことだった。
ジャンの勝利は、パリ市民の彼への信頼を強固なものにし、彼のパリ帰還は、王族たちの結束にほころびを齎した。結局のところ、ブルゴーニュ公の武勇は疑う余地もなく、彼の軍勢が王国一であることも間違いのない事実であり、それに対抗するほどの力をイザボウは持っていなかった。やがて、ジャンを糾弾する声は影を潜め、復讐を断念せざるを得なくなったヴァレンティーナは失意の中で息を引き取った。
ブルゴーニュ公を、敵に回すことはできない―――――。そう悟ったイザボウは、王が再び狂気を発症し、執政権が戻ってきたタイミングでブルゴーニュ公を呼び出した。




