無怖公 3
イザボウは、彼女が輿入れの際に同行した兄、ルイ・ド・バヴィエール(母国ドイツ語ではルートヴィヒ・フォン・バイエルン。後のバイエルン=インゴルシュタット公、ルートヴィヒ7世)とブーシコー元帥に子供たちの護衛を命じた。彼らはイザボウの命令に従い、乳母や家庭教師が危険だと止めるのも取り合わず、直ちに出立した。翌朝7時にパリに着いたジャンは、王妃とルイが子供たちを連れて逃げたことを知ると激怒して後を追った。
王太子はパリに残っていたが、それはさして重要ではなかった。王太子は成人に達しておらず、執政権はイザボウの下に在り、次期国王に無礼を働けば自分が罪に問われかねない。何より、娘マルグリットはいずれ王妃になるのだ。王太子に不信感を持たれるのは悪手だった。だが、このままでは視察と銘打ってパリを出た二人を追う理由が無い。
一計を案じたジャンは、ブルゴーニュ公はフランスが支援するブルターニュ公国のカレー奪還を命じられ、あと少しで陥落できるところを、財政難を理由に増援を拒んだ王妃とオルレアン公により窮地に立たされている。再び陳情に来たブルゴーニュ公と相対し、財政難の理由を糾弾されることを恐れた二人は、ブルゴーニュ公の娘が婚約者であることをいいことに、王太子に全てを押し付けて逃亡した、という噂を流すように指示した。
パリを出たところで、旅装も解かずに埃まみれのジャンに追いつかれたルイとブーシコー元帥は、戻ることを拒否したが、ブルゴーニュ公の権力と強硬な態度に、王妃の命令というだけでは対抗しきれなかった。パリ市民は、贅沢を尽くして税金を上げるだけ上げた挙句、全ての責を王太子に押しつけて逃亡した王妃とその情夫(オルレアン公ルイ)を許さなかった。この恥知らずな二人をパリに連れ戻せという世論がパリ中を席巻し、王妃の逃亡はともかく子供たちだけでも取り戻したジャンを、パリ市民は救世主として大歓声で迎え入れた。
ジャンは、このままの流れを維持したまま、秩序の回復者として登場することを選ぶ。彼は、未だ回復していないシャルル6世に臣従の礼を捧げると、イザボウの不在をいいことにパリ高等法院、会計院、パリ大学に提言し、ベリー公、ブルボン公、ナヴァル王を呼んで議会の開催を主張した。
ジャンはそこでシャルル6世に対し、貴方が貴方の王国に対して与えた損害として、秩序の乱れを告発し、王妃と王弟一派が課した重税を非難した。更に彼は、政府の改革と財政の適正な執行、放置されている国王を看護することを要求すると、これらのことがが実現されない限り軍を解散することは無いと宣言する。
逃亡先のブイイで子供たちの到着を待っていたイザボウとルイは、二人の摂政権に真っ向から反対するジャンの主張と、世論の反応の報告を受けた。今にもジャンが自分たちを捕縛しに来るのではないかと恐慌に陥った二人は、支度もそこそこに目的地のムランヘと出発したが、冷静に考えると、なぜ自分たちが逃げねばならないのか、疑問に思った。
冷静になった二人は、今後のことについて話合い、ルイは決定的なイザボウのミスを指摘した。
「義姉上。なぜブルゴーニュ公を王太子殿下に近づけるのです?」
「ブルゴーニュ公が、王太子に危害を加えるとでも?」
「そうではありません」
ルイは、短く嘆息した。イザボウが女性にしては胆力も行動力もあり、先見の明があることは承知している。だが、残念なことに最悪の事態を予想できない。ルイは、自分の考える最悪の事態について言及した。
「義姉上。兄上―――国王シャルル6世陛下は、ただ一人貴女を王国の摂政と定めた。貴女は王妃であり王国第一の女性であり、王に次いで我が国で二番目の地位をお持ちだ。だけど。もし――――」
ここでルイは、言葉を切った。この先は、如何にルイと言えど口にするのは躊躇われたのだ。しかし、これだけははっきりさせとかねばならない。ルイは、意を決したように口を開いた。
「貴女を王妃たらしめている存在が亡くなったら?」
ルイの言葉に、イザボウは時間が止まったかのような錯覚を覚えた。
イザボウは、どれほど夫婦仲が冷え切ろうとも結婚生活が破綻して久しく、改善することも、夫の回復を願うことを完全に諦めた今となっても、幸福だった頃の記憶が邪魔をするのか、シャルル6世の死を想像することはなかった。だが、ルイの言うことは最もだ。
夫が国王だから、イザボウは王妃でいられる。当たり前のことだ。では、もし、夫が死んだら――――国王がいなければ、王妃は存在しない。そして、次代の王は、ブルゴーニュ公を舅に持つことになる。王妃は、彼の娘だ。
いくらまだ三十代の半ばと若いとはいえ、狂気に陥った王はどんな凶行に及ぶかわからない。現に、精神疾患を患っていたシャルル6世の母、前王妃ジャンヌ・ド・ブルボンは、出産の最中に入浴を強行し、産褥熱で死去している。なぜ、こんな重要なことに思い至らなかったのだろう――――。
「王太子殿下がブルゴーニュ公の意向に賛同すれば、我々の立場が危うくなる。貴女は、殿下の母君であられる。今すぐ、ブルゴーニュ公の行動を非難する声明を出さねば、手遅れになりかねません」
ブルゴーニュ公ジャンは、浅慮で猪突猛進型と思われてきたが、一連の行動を見る限り、謀ができないタイプではなかった。これは、完全なる誤算だ。彼が武力に訴えるつもりならば、此方も屈してはいられない。イザボウとルイは、連名でジャンを糾弾する声明を出した。
王妃イザボウは、国王シャルル6世から国政の全権を任された唯一の摂政であり、王太子ギュイエンヌ公ルイの母である。摂政権には王太子はもちろん王子王女の養育権も含まれる。視察に王太子を伴わなかったのは、ブルゴーニュ公が臣従の礼を捧げるのを王と共に受けるため、王国の重鎮であり未来の舅でもある公への配慮によるもので、何ら非難されるにあたらない。むしろ、国王と王太子をルーブルに監禁するかのようなブルゴーニュ公の行動こそ非難されるべきであり、摂政として認めることはできないとして、軍の解散を即時要求した。
ブルボン家は、実は遺伝性の精神疾患が多いことで有名です。ジャンヌ・ド・ブルボンの兄弟にも多く、オルレアン公ルイは若くして亡くなりましたが、シャルル6世に続き、シャルル7世も晩年に精神疾患を発症しています。また、婚姻を結んだランカスター家にも遺伝して、両国の歴史を左右することにもなったという見解もあります。
ただし、時代を経て血統が薄れたのか、15世紀末にはそれほど目立たなくなり、かの有名なカトリーヌ・ド・メディシスの時代にはほとんど出ていません。近親結婚の弊害とみるのが一般的でもあります。
余談ですが、シャルル7世の息子シャルル8世の代でシャルル6世の直系は断絶し、以降ヴァロア朝はヴァロア=オルレアン家(オルレアン公ルイの孫ルイ12世。オルレアン家は一代限りだった。かの有名なチェーザレ・ボルジアと同盟を結ぶ)、ヴァロア=アングレーム家(ルイ12世の孫)と続き、アンリ3世(カトリーヌ・ド・メディシスの息子)で断絶した後、ナヴァル国王アンリ4世がブルボン朝を開きました。このブルボン朝がフランス最後の王朝となります。
ちなみに、アンリ4世の王妃は、カトリーヌ・ド・メディシスの娘、淫蕩な王妃として有名なマルグリットで、30代で離婚しています。
世界史って色々なところで繋がっているうえ、同じ名前が多くて複雑ですね (;^_^A




