無怖公 2
「ギュイエンヌ公の準備が整っていない?周りの者は、何をしているのです⁉」
とりあえず身の回りの物を纏め、今まさに出発しようという時に駆けつけた従者の報告に、イザボウは声を荒げた。
自分の姿を見ると、殴り掛かってくる夫と共に逃避行をするなど論外だが、未だ成人にも達していない王太子を置いていくつもりはなく、当然連れて行くべく準備を申し付けたのに、どういうことなのか。
「ブルゴーニュ公の御息女マルグリット様は、王太子殿下の婚約者であられますゆえ、殿下が説得を試みるのも一つの策でございましょう」
「ギュイエンヌ公は、まだ9歳ですよ」
「殿下の側近には、リッシュモン卿もおられます。卿は、前ブルゴーニュ公に養育された方。ベリー公の推薦で殿下の側近となっており、何より現ブルゴーニュ公とも面識がおありです」
「これだけの条件がそろっておりますのに、顔も会わせずに逃げ出したとあっては、殿下の恥となりましょう」
痛いところを突かれたイザボウは、押し黙った。未だ9歳とは言え、ギュイエンヌ公ルイは王太子であり、ブルゴーニュ公は厳密にいえば敵ではなく臣下だ。未来の舅でもある。その彼がいかに軍勢を率いてきたとはいえ、明確に反旗を翻したわけでもないのに最初から逃げ腰では、未来の王の名誉に関わる。
彼女の決断は、早かった。直接の恨みを買っている自分とルイは、視察旅行と称してさっさと逃げ出し、怒りが収まるまでのらりくらりと追及を躱す。きちんと舅に対応すれば王太子の名誉は守られ、やがてはジャンも諦めて自領に帰るだろう。軍隊は金食い虫だ。いつまでもパリに滞在していられるはずがないし、その名目もない。
何より、ギュイエンヌ公ルイは、フランスの王太子だ。フランス国王に臣従の礼を捧げるために訪れた彼が、次期国王たる王太子に無礼を働くなど本来ありえないことなのだ。
ふと、かつてイングランド国王リチャード2世と結婚した王女イザベルの面影がイザボウの胸によぎる。僅か4歳でイングランド国王の婚約者としてイギリスに渡り、6歳で王妃となった彼女は、夫が退位させられ幽閉されてから2年もの間イギリスに留め置かれた。夫と同様幽閉生活を送り、彼の死を知らされたのは、帰国する直前だったという。幽閉生活の間、治世が安定しないヘンリー4世によって何度か再婚の話が出たが、再三のフランスの要求により漸く帰国が許された。
もし、ヘンリー4世の治世が安定していたら、フランスとの関係を円満に保とうという意識が無かったら、イザベルは戻ってこなかったかもしれず、その場合は一生涯幽閉か、よくてフランスに対する人質扱いだっただろう。最悪の場合は処刑されていたかもしれない。そのイザベルも、もちろん今回は連れて行くが、子供たちを連れてとなると時間がかかる。
イザボウとルイは先に出発し、子供たちは準備ができ次第直ちに後を追うように手配していた。ここにいては、危険だから。
対して王太子は、いや、もしここに弟のトウレーヌ公ジャンがいたら、どうしただろうか。おそらく彼も王宮に残すように諫言されたのではないか。イザボウは、漠然とそう思った。
彼ら二人は、王太子とその弟。つまりは、もしものことがあれば、次期国王になる王子たちだ。王太子が名誉のため残るのならば、その弟も残るのではないか。高い王位継承権を持ち、既に幼児とは言えない彼らの身分は、保証されている。自分たちとは違うのだ―――――。その考えは、確実にイザボウの王子たちへの想いを変化させた。
「そう。ならば、そなたたちにはギュイエンヌ公を命懸けで護ることを命じます。王太子の身に万一のことあらば、わたくしはためらわずそなたたちの責任を追及するということを、決して忘れないように」
イザボウはすぐに馬車を出すように命じた。もはや一刻の猶予もなく、パリを離れねばならなかった。この時からイザボウは、王位継承権を持つ王子たちを、必要以上に案じることをやめた。彼らの身は、自分や王女よりよほど安泰なのだ。フランス国内であれば、敵対者でさえ彼等の安全を保障する。そして、彼らが国外へ出ることなどありえないのだから。
「王太子を置き去りにする母親か。なかなか衝撃的な汚名だこと」
「・・・?義姉上。何か言いましたか」
「――――何も。パリにはいつごろ帰れるかしら」
「さあ。半年と言ったところでしょう」
「そう。その頃には雪が降るわね」
白く染まった首都に、真っ黒な自分の汚名が轟く。考えてみればそれは、どこか背徳的な光景を思わせた。悪徳王妃。戻るころには、それはイザボウの異名として定着してることだろう。
どうせなら、雪ぎようのないほどに穢れてしまえばいい。どんな汚名を被ろうとも、わたくしは自分の思い通りに生きて見せる――――――。
初夏の夕暮れに沈みつつあるパリの街を、馬車の窓から見送りながらイザボウは微笑んだ。




