愛妾 1
オデット・ド・シャンティヴェールは、下級貴族の娘だった。父は、国王の馬丁頭、特筆すべき事もない、通常であれば、父娘ともに王にお目にかかることなどありえないくらい、低い身分の娘。だが、その娘は、16歳の時にいきなり王の愛妾として注目を浴びる。
シャルル6世は精神疾患を患い王妃を遠ざけたが、若い王は身体の欲求を抑えられる状態ではなかった。知らぬ間に王の庶子が誕生することを嫌忌した摂政団は、渋る王と泣き叫んで拒否する王妃を説得して、宮廷の権力闘争に何ら影響を及ぼさない、扱いやすい手駒としてオデット父娘に白羽の矢を立てたのだ。
宮廷の中でも卑しい身分の自分が、国王陛下の褥に侍る。それはオデットにとって、想像もできないことだった。わけもわからず王の寝室に連れてこられた少女は、自分よりはるかに年上なのに子供のように怯える王を、優しく宥めた。
以来十年近くが過ぎたが、王妃と会ったのは、最初に挨拶をした一度きり。その後も彼女等気にするそぶりも見せなかったのに。今、王妃は自分の目の前でゆったりと微笑んでいる。その美しさと優雅さは以前と変わらなかったが、いかにも優しげに見えるその笑みに何故か背筋が泡立つ。昔ならいざ知らず、今の国王夫妻は完全に破綻している、と聞いている。敵意があるわけではなさそうなのに―――そう思った。
「そう固くならずともよい。陛下の御子を身籠ったと聞いたが」
「は、はい」
ひんやりとした問いかけに、思わずというように身体が揺れた。イザボウは、そんな様子を見て、さらに穏やかに問いかける。警戒されないように。
「王の御子が生まれるのは、王国にも王家にも喜ばしいこと。わたくしもそなたの懐妊は心待ちにしていたのだ」
オデットが、意外というように瞠目する。安心させるために、ほほ、と微かに声を出して笑う。
嘘ではない。厳格な一夫一婦制であるキリスト教国に於いて、愛人は認められていない。当然庶子などはあり得ない。だから、単なる諸侯であればともかく、庶子を君主に戴く国家は存在しない。だが、王位継承権は持たなくても、いや、だからこそ政略結婚となればこれほど役に立つ存在もない。
紛れもなく王の子でありながら、正式に王族とは認められない。同格の縁組は無理でも、例えば同じ庶子同士、あるいは自国より劣る国家、または同等の国同士であっても、王族ではない有力貴族との縁組。いくらでも需要はあるのだ。
だが、イザボウは王に愛妾を迎えるのを承諾するにあたって、摂政たちと、何より他でもない夫から言質を取っている。彼らははっきりと言ったのだ。
国王の子を産むのは、妃であるイザボウただ一人のみ、と。
その言葉を拠り所に耐えた屈辱と年月が、イザボウの心に暗い影を落とす。王への愛は、もうかなり前に失われているのに、愛妾の懐妊が公表された。公表されなければ、生まれた子は王の庶子として認められず、愛妾の実家で育てられるか、どこかの養子となって終わるだろう。だが公表されたとなれば、その子は王の子として遇されるのだ。
いくら夫婦関係が冷え切っていようと、これは紛れもない裏切りだ。約束を反故にするのならば、イザボウに一言あって然るべきではないのか。元々イザボウは、自分に非があると思ったことは一度もない。だからと言って夫のせいだとも思わない―――――が。
この裏切りはいつからなのか。確かめなければならなかった。
「今まで兆候が無かったから、心配していたのだ。初めてのことで不安を感じているのではないか?」
王国で一番高貴な女性からの、いたわりに満ちた言葉にオデットは感激して、真っ赤になった。
蔑まれていると思っていた。卑しい女、身の程もわきまえずに王の寵愛を奪い、子まで産もうとしている厚かましい女。そう罵倒されて当然だと思っていたのに。嬉しさのあまりオデットは、正直に話した。
「ありがとうございます!でも、もう3回目ですから大丈夫です」
「・・・・そう。今まで噂にもならなかったようだが?」
衝撃を受けた時。それが大きければ大きいほど、余裕をもって微笑む。決して内心を悟られないように。それがイザボウが受けてきた教育だ。
「はい。今までは、その、安定する前に流れてしまっていたので」
「流れる?」
「あ、あの・・・その、衝撃を受けることが多くて・・・」
羞恥に俯きながら、消え入りそうな声で必死に答える様子に、イザボウは全てを理解した。
つまり、安定すれば公表する予定であったこと。夫は懐妊したばかりのこの女の身体を、赤子が流れるほどに激しく求めたということだ。
「それは、また―――気の毒に。慣れぬ王宮で、若い娘には酷な体験であったであろう」
「は、はい。御側にあがったばかりのことだったので心細くて・・・」
もう十分だ。ぱちん。イザボウが持っていた扇が、鋭い音を立てて閉じられた。怒りを抑えて、優雅に微笑む。目の前の女には、何の罪もない。ただ、雲の上の人と思っていた王妃に優しく問いかけられて、正直に答えただけだ。何という愚かさだろう。その答えは、王とその周りが、必死に王妃に隠してきたことだろうに、口止めすらせず、こちらを莫迦にしているのか――――。
「さもあろう。が、今回は安定したから公表したのだ。無事生まれれば、そなたも王の子の母となる」
心の底から、得体のしれない感情がじわじわと広がるのを意識しながら、イザボウは、慈愛に満ちた表情を浮かべる。少なくともこの愚かな女は、怒りの対象ではない。そう考えるだけの理性を持っていることを、イザボウは誇りに思った。だから。
「心安らかに、健やかな御子を産むことを一番に考えて過ごすがよい」
あくまでも理性的に。理想の王妃を演じることなど造作もないことだ―――――
誰に対するものなのか。暗く冷たい、怒りとも憎悪ともつかない感情を押し隠して、イザボウは優雅に微笑み続けた。




