ブルゴーニュ公 2
1403年は、フランスにとって大きな出来事が立て続けに起こった年だった。
まず、1月にオルレアン公とブルゴーニュ公の和議が成立し、その時のイザボウの功績を前面に押し出したシャルル6世は、彼女に摂政権を与えた。また、4月には、自分が病の時、ブルゴーニュ公、ブルボン公、ベリー公、オルレアン公の四公の助けを借りてイザボウが統治することを命じ、万一国王崩御の際には、嫡男は成人していなくても母イザボウの後見の下、すぐに正式な国王と認められると決定した。これまでと違い、イザボウただ一人に権力が集中したことを意味し、それをシャルル6世に進言したのは意外なことにブルゴーニュ公だった。
息子ジャンの言動に不穏なものを感じ取ったブルゴーニュ公は、自身の体調の悪さもあって、今後、彼が権力を握ることに大いに懐疑的だった。現在、フランスには王太子ギュイエンヌ公ルイのほかに第二王子トウレーヌ公ジャンがいるため、王朝の交代など妄想に近いが、彼の中にその考えがあることは間違いない。流石に王子暗殺など企みはしないだろうが、そのような思考の人間に自分の権力を引き継がせるのが最善とはとても思えなかった。
前王シャルル5世の治世を補佐した彼は、賢明王と呼ばれ、虚弱な体質故武勇に恵まれなくとも賢智に優れ、反乱を鎮圧してイングランドとのブレティニ・カレー条約にこぎつけ、臨時徴税を定期的な制度に整え財政を安定させた兄を尊敬し、フランスという国と王家を愛していた。しかし、シャルル6世の治世しか知らないジャンは、現在国を支えている父、ひいてはブルゴーニュ公爵家こそが君主に相応しいと考えていたのだ。
結果としてブルゴーニュ公は、更に熱心に王の寝室にイザボウを送り込むことと、彼女に摂政権を与えることを決心した。オルレアン公との和議は、見せかけだけの物にすぎず、いつか必ず全面衝突するだろうこと、オルレアン公の強欲さは収まる様子さえないが、王妃であれば彼を抑え込むことが出来ると踏んだのだ。幸いなことに、イザボウの実家とは利害が一致していて、バイエルン公家がオルレアン公に味方するこ可能性は、限りなく低い。つまり、敵であるオルレアン公に権力を握らせるより、息子ではあるが、イングランドを引き入れる可能性がある息子ジャンよりは、まだイザボウに権力を与え、裏で自分が操る方がまし、と判断したのだった。
しかし、その年の春にヨーロッパ諸国に流行した疫病に罹り、予てから体調を崩しがちだったブルゴーニュ公は、4月に死去する。
フランスで最も裕福な大貴族と目されていた公爵家は、意外なことに返済しきれないほどの借金まみれだった。ブルゴーニュ公が芸術に理解を示したため、内乱で揺れていようとも、フランスは優雅で文化的な国家と周辺国からは思われていたが、ブルゴーニュ公夫人は夫の死去により、自分の財産を守るため、全ての相続権を放棄するという屈辱的な儀式を、ほかならぬ夫の葬儀に際して行わなければならず、結果としてブルゴーニュ公は嫡男であるジャンが継いだ。
借金まみれの公爵家を継いだジャンは、返済する手段として直ちに不要な城を売却し、城内にあった豪奢な家具調度品を売り払った。ブルゴーニュ公爵家として、領地と爵位、事業さえ残ればどうとでもなる、という考えだった。実際、城が空になろうと、母はフランドル女伯を始め、複数の称号と領地を持つ有力な貴族であり、彼女の財産とブルゴーニュ公爵家の事業があればいくらでも再構築は可能だったのだ。大した苦労もなく莫大な借金を返済し、生活を切り詰める必要もなかったジャンは世の中こんなものとばかりに、短慮で猪突猛進型の性情を改めることもなかった。
そして、この前年、シャルル6世の愛妾オデット・ド・シャンテヴェールの懐妊が公表され、その噂は瞬く間に宮廷中を駆け巡った。また前年に宮廷を辞し、領地で男児を出産したオルレアン公夫人ヴァレンティーナは、この後、1407年に夫ルイが暗殺されるまでの間次々と子供を産み、ルイと王妃の醜聞に一切無言を貫いた。その優しく慈悲深い性質により、多くの人から慕われた彼女は、どれほど請われようとも二度と宮廷に戻ることは無かった。
同年2月。イザボウは11番目の子、シャルルを出産した。この5番目の王子こそ、のちのシャルル7世、高名な聖少女ジャンヌ・ダルクの助けをうけて即位する❝勝利王❞である。




