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王と王妃 2 


 シャルル6世の記憶は不完全だが、錯乱状態の時の記憶全てが失われるわけではない。所々残っていて、時々意識の表層に顔を出す。まるで、深い海に沈んだモノが、ほんの時たま泡と共に浮かび上がるかのように。だから、彼は曖昧な記憶の中でも愛妾の存在を認め、それなりに遇してきた。そして、その浮かび上がる記憶には、当然のことながら認めたくないものも存在している。

 その一つに、何か得体のしれない不快なモノの存在がある。彼はソレを見かける度に罵倒し、遠ざけ、更に側に寄ろうとするのを、周りが止めるのも聞かずに暴行した。とにかく目に入るのも不快で、見かけようものなら追い払い、それでも目に就いた時には二度とそんなことが無いよう、執拗に追い回して思いつく限りの暴虐を加えたのだ。

 だが、シャルル6世は、今までソレがイザボウだとは思いつくこともなかった。当然だ。彼の中ではイザボウは、可憐で大切に保護すべき彼の小鳥、最愛の妃だったのだから。だが、その前提は崩れた。いかに狂気の中と言えど、王からそのように扱われる王妃がどのように見られるか。ましてや、王には小王妃とまで言われる愛妾がいるのだ。いくら王太子の親権を与えようとも、尊重されるとは言い難い――――だから、執政権を欲しがるのだ。王妃の主張は最もだが、シャルル6世には簡単に肯けない事情があった。


 言わずと知れた、ブルゴーニュ公の存在だ。国王に完全な統治ができない上に国が内乱状態で、収まる兆しが無い以上、王国一の実力者と言ってもいい公の意向を無視することはできない。だが、己の妻への所業を自覚したからには、そう簡単に却下するのも難しい。シャルル6世の心情的にも当然のことだが、何と言っても彼女の実家のバイエルン公家は、ドイツとの国境付近の治安維持に睨みを利かせており、バイエルン公家がイザボウを大切にしていることは、輿入れの時の嫁資を見れば一目瞭然だった。

 ややあって、シャルル6世は、重い口を開く。


「そなたは、余のただ一人の妃だ。そなたの主張は最もだが、そなたは、そなたの言う通り外国人だ。良くは思われまい。王子の件ならば、余が呼び戻し、改めてそなたに全権があることを知らしめる故、それで善しとせぬか」

「まあ、陛下。それでは他の王女たちはどうなりますの?」

 イザボウは、さも面白そうにころころと笑ったが、内心では冗談ではない、と叫びたかった。王子二人はそれでもいい。だが、自分はともかく王女たちはどうなる? 

 今でも語り草になるほどの、イザボウの婚礼支度。中でも注目を浴びたのは、何十羽もの美しくも珍しい小鳥たちだ。あれは、イザボウが希望したのではなく、実家の意向によるものだ。

 確かにイザボウは美しい小鳥や珍しい花々を飼育栽培するのが好きだったが、それがいかに莫大な費用と熟練の技術が必要かも理解していたから、嫁ぎ先に持ち込むつもりはなかった。だが、両親は、飼育者たちの手配もし、彼らのための俸給さえも用意し、イザボウを送り出した。


 ❝これらは、我がバイエルン公家がそなたをどれほど大切に思うかの証でもある。それは、そなたの尊厳を守るために役立つだろう❞

 なぜ、と問うたイザボウに対する、それが両親の言葉だった。


 今ならば、その言葉の意味が解る。持参金とは、花嫁の資金というだけではなく、同盟の重要さの証明であり婚家への牽制でもある。即ち、これほどまでにこの同盟は重要だということと、これほど大切な娘を嫁がせるのだから、決して粗略に扱てくれるな、此方にはこのくらいなんでもないと言えるだけの力があるのだから、という意思表示なのだ。


 対して、今のフランス王家にどれだけの用意ができるのか。今でさえ国庫は尽きかけているのに、王が正気でいる期間は徐々に短くなっている。おそらく王の病が癒えることが無いのは、確定だろう。イザボウは、これから来る困難に立ち向かわなければならなかった。

 しかし、王の躊躇いは当然のこと。そのくらいイザボウにもわかる。というか、わかるようになったからこそ、無茶と知りつつ要求しているのだ。イザボウは、もう一つの爆弾を王の耳に囁く。


「陛下。王子二人も大切ですが、オルレアン公夫人の醜聞も考えなくては。そう思われませんか」


 数か月後。王が病を患ってから、ずっと側で献身的に仕えていたオルレアン公夫人ヴァレンティーナは、宮廷を辞する際の挨拶のため、王妃を訪れた。イザボウは、病の夫と散々仲睦まじい様子を見せつけられた義弟の妻に、優しく語りかける。

 夫は、イザボウに誰もが認める功績を用意すると言い、ヴァレンティーナを遠ざけることに同意した。ヴァレンティーナに恨みが無いと言えば嘘になるが、耐えがたい悪臭を放ち、子供のように感情を爆発させる夫に寄り添い、献身的に尽くしたのは、紛れもなく彼女の優しさ善良さがあってのこと。何より、イザボウは彼女を深く信頼していた。

 だから、あらゆる負の感情を飲み込んで優雅に微笑む。王妃らしく。


「来年には、オルレアン公にとっての慶事が聞こえてくることを祈っているわ」

 イザボウは、ヴァレンティーナの長年の労をねぎらった後に、そう続けた。ヴァレンティーナの顔が、それとわからないほど微かに歪む。まるで、痛みを堪えるかのように。慶事とは、主に婚姻か誕生を意味する。婚姻を結べるような年頃の子供は、公爵家にはいない。そして、今はまだ年が始まったばかりなのに、何故()()()()()()()()()なのか。

 思わず跪いて許しを乞おうとするのに、イザボウは、その暇を与えずに続けた。

「大切なわたくしのお友達。貴女の陛下への献身に、わたくしは本当に感謝しているの。謝罪は必要なくてよ」

 だから、と囁くように続ける。

「わたくしのことも、許してね」

 ヴァレンティーナは謝罪の意味が解らずに、イザボウを見上げたが、王妃はただ優しく微笑むばかりだった。


 この後、オルレアン公夫人ヴァレンティーナは、1403年に男児を出産する。ルイとの仲も良好で、幸福を嚙みしめイザボウに感謝する日々を送るが、王妃と夫との醜聞が広まった時、漸くイザボウの謝罪が理解できた。おそらく二人の間にあるのは、愛や恋というものではない。情でさえ怪しいものだ。それでも、 信頼していた相手に裏切られたと言う事実は、たとえどのような理由があろうとも許せるものではなかった。

 夫は宮廷きっての遊び人で、それが魅力をさらに引き立てる――――そんな男だ。不貞や愛人、庶子の存在など気にしたことは無い、というか、そんなことを気にするような女は、高貴な男の妻に相応しくない。愛し合う夫婦が無いわけではないが、それが宮廷の常識だ―――――ああ、それでも。


 ヴァレンティーナは、強く心に誓った。抑えようとも際限なく湧き上る、このどす黒い感情を飲み込んで見せる。王妃―――イザボウは、こんなモノをもう何年も噯にも出さずに、最後には謝罪は不要と言い、あまつさえ自分に謝罪したのだ。()()()()()()()()


 ()を頼ることさえできない、孤独な王妃。それでも彼女は戦うことを選び、そのパートナーとして(ルイ)を選んだ。理解はできるが、許せるかと言えば。おそらく、イザボウもそんなこと(許しなど)は望んでいない。―――――でも、せめて。

 ヴァレンティーナは、生まれたばかりの息子、フィリップを見つめた。

 

 恨むようなことだけは、したくない。この子が生まれたのは、間違いなく王妃のおかげなのだから。

 



 

 

 

 


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