幸福な結婚と不幸の影 1
1385年7月17日。フランス、アミアンで時の国王シャルル6世とバイエルン公女エリーザベト ・フォン・バイエルン公女(フランス語ではエリザベート・ド・バヴィエール。史上最悪の王妃、イザボウとして名高い。以後、イザボウと表記)の結婚式が行われた。
時にシャルル6世16歳、イザボウ14歳。この婚姻はシャルル6世の叔父、ブルゴーニュ公フィリップ2世が、ドイツで大きな勢力を持つヴィテルスバッハ家との同盟を強く求めた結果実現した、紛れもない政略結婚だった。それでも若い二人は惹かれ合い、婚姻は、周囲にも祝福され、後の幸福を約束するものと思われていた。
国王のイザボウに対する愛情の証として、ブルゴーニュ公が出会いの場であるアミアンからアラスへ移動しての結婚式を決めた時、アミアンですぐに結婚したいと主張した。また、実弟オルレアン公ルイ・ドルレアンと南仏ラングドック地方に旅行したとき、どちらがより妻を愛しているかを証明するため、より早く愛する妻の元に帰れるのはどちらか5千リーブルを賭けたという逸話がある。妻への愛が深ければ、会いたい一心で、相手より早く帰れるはずという理屈である。
そのために二人は周囲の反対を押し切り、無謀にも護衛も供も付けずに、それぞれ単騎駈けで別ルートでパリへ向かった。南仏からパリへ帰るには、渓谷や狭隘な峠、沼や湿地帯を抜けねばならず、治安の行き届かない場所も数多くある。
それを押して、尚且つ大金を賭けたため、イザボウとルイの妻ヴァレンティーナは、最高の地位に属する男性二人が、それほど高価な愛の対価を認めた❝最も高貴な貴婦人❞として、騎士たちの憧憬の的となった。
ところで、この賭けに勝利を収めたのは、オルレアン公だった。兄であるシャルルそ6世は、その地位に相応しい頑健な体躯にも関わらず、この無茶な騎行を最後まで全力で遂行できなかった。
11歳という年齢で両親を亡くして王位に就いたシャルル6世は、長年執権が叔父ブルゴーニュ公の元にあったため、猜疑心が強く精神的に不安定な状態が多かった。また、親政を始めた1388年以降、しばしば常軌を逸した執念深さを見せ、激昂した興奮状態で支離滅裂なことを言い、戦争も辞さない態度を示すこともあった。
この賭けの時点で、既に彼の不安定さの兆しが表れていたと見ることもできるだろう。
それでもこの頃のイザボウは、政治から遠ざけられて、馬上でほとんどの時を過ごし、宿に泊まる時間も惜しいと、時には通りがかりの荷馬車で休憩を取らせてもらうという夫の無謀を諫めながらも、愛される幸福に満たされていた。
愛に満ちた婚姻と、狂気の兆しをはらむ夫。その夫が、国王という地位にあったならば――――――もし、その狂気が発症したなら―――――?
光に満ちた幸福には、間違いなく大きな影が忍びよっていた。