(四)
ふと、目を開けると、僕はリビングのテーブルについていた。僕のより長い脚のついた椅子に腰を掛けて、キッチンの方を眺めている。
見覚えのない風景。
けれど、僕はなんの疑いもなく、それを受け入れていた。
不意に、開いていたらしいキッチンの小さな窓から風が吹き込み、そこにかけられたカーテンがふわりと靡く。
次の瞬間――先程まで誰もいなかったキッチンに女性が立っていた。
僕に背を向けて、コンロの前に立つ女性。
母だった。
見覚えのない後ろ姿。見覚えのないエプロン。見覚えのない仕草。
僕は、自分の母のことをほとんど知らない。写真で見たことはあるけれど、その顔だってうろ覚えだ。けれど、今、僕が見ている女性は紛れもなく母だった。
母という存在だった。
そして、僕はなんの疑いもなく、それを受け入れていた。
何かを終えたらしい母は、こちらへ振り返り近づいてくる。僕は母の顔が見たいのに、僕の視線は母が手にしている物に釘付けで、動かなかった。
母は、それをことりと僕の目の前に置く。
ホットケーキだ。
小麦色のまん丸。
それはまるで、満月のようなホットケーキ。
僕は、母を見上げて訊いた。
「いいの?」
「ええ、いいのよ」
母は穏やかな表情を浮かべて、そう言った。僕には母の声は聞こえなかったけれど、確かにそう言っていた。
それに、僕が見上げているその顔は、まるで薄雲がかかったようにぼやけていて、霞んでいて、輪郭さえも曖昧だったけど、確かに母は柔らかい笑みをたたえていた。
そっか、いいんだ。
僕はホットケーキが置いてある手元に視線を落とす。
すると――僕は、母の膝の上に座っていた。
ソファに腰を掛ける母の膝の上で、母の胸に背中を預けるようにして座っていた。
顔は見えない。
もしかしたら、見えたとしてもわからないかもしれない。
記憶にはない母の匂い。
記憶にはない母の温もり。
けれど、僕を包むその人は確かに母だった。
僕のお母さんだった。
目を覚ますと、僕はいつもの部屋の中にいた。
いや、それは当たり前か。昨日の夜に、ここで眠りについたのだから当然だ。さもありなん。
しかし――それでも僕は、上体を起こして周囲を見渡さないではいられなかった。確認せずには――探さずには、いられなかった。けれど、やっぱり僕はいつもと同じ部屋で、いつもと同じベッドの上にひとりでいた。
そして、僕は確信した。
やはり、彼は藪医者だった。
「ちっとも良くならないじゃないか……」
僕の両の眼は、また、涙を零していた。
ぽたぽたと、まるで点滴のように。
止め処もなく、水滴が零れ落ちる。
結局、僕の抱えた問題は、改善するどころか、むしろ悪化していた。
いつもならすぐに止むはずのそれは、僕の意思に反して滔々と流れ続ける。
拭っても拭っても、頬を粒が伝う。
それに、酷く胸が苦しかった。
いつもの無感情な涙ではない。
僕ははっきりと悲しかった。
はっきりと。
そうか――
僕は寂しかったのか。
そっか。
そんなことで僕は毎日涙を流していたのか。
十八歳にもなって、そんな理由で。
そんなの、今に始まったことじゃないのに。
ああ、情けない。
実に。
実に実に。
情けないなあ。
「うっ……うぅうう……うわぁあああ――」
気が付けば、僕は泣き喚いていた。
飲み込み切れない感情に耐え切れず溢れてしまったのか、今まで溜め込んできた分を纏めて返済しようとしているのか、それとも、幼稚な自分が情けなくてなのか、いまいちわからない。
自分の気持ちがわからないなんて、おかしな話だけれど。
「う、うぅうう……ぐすっ、う、うわぁあああん」
けれど、とにかく僕は――
まるで、産声をあげるように。
みっともなく大声をあげて。
「うわぁああああああん、う、あ、あああ……わぁああああ――」
泣いていた。
留まる所を知らず、ひたすら溢れ出る涙に止むきっかけをくれたのは、意外なことにも隣人だった。
大声で泣きじゃくる僕を心配してくれたのか、どんどんどん、と。ふたりの部屋の間にある壁を叩いてくれた。
それはそれは、とても大きな音で。
壊さんとする勢いで。
まさに泣く子も黙る壁ドン。
「…………」
今度会ったとき謝ろう……。
壁に掛けてある時計を確認すると、現在の時刻は九時五十二分。
かなりぐっすりと眠っていたようだ。
月曜日の講義は午後だけだから、もう少し寝ていられるが、流石にもう眠気は残っていないし、前回の食事からそれなりに時間が空いているからか、とても空腹を感じる。
ふと、夢に出てきたホットケーキを思い出す。
綺麗な焼き目のついた小麦色のまん丸。
「美味しそうだったなあ……」
うん。
朝食兼昼食はホットケーキにしようかな。夢の中じゃあ食べられなかったし。僕があんなに上手に焼けるとは思えないけれど。
よし、そうと決まれば、まずはホットケーキミックスを買ってこなきゃだな。
僕は冷たい水で顔を洗って、寝間着のまま、財布だけを持って玄関に立つ。瞼は赤く腫れ上がっていて、姿見に映る僕はみっともないのひと言だったけど、まあよしとしよう。
そうだ。ついでにカーネーションでも買ってこよう。少し遠回りにはなるけど、講義までは時間があるし。それに、昨日からは一変、閑散とした店内に、あのお姉さんも寂しく思っているかもしれないし。
まあ、一日遅れにはなるけれど、別に感謝を伝える日なんていつだって構わないだろう。
僕に限っては、お日柄なんて関係ないのだから。
よし、それじゃあ――
「いってきます」
晴れ上がった空を望んで、僕はドアを開けた。