(三)
「僕には、母がいません」
そう。
僕には、母と呼べる存在がいないのだ。
「そうか……。それは悪いことを訊いたね」
と、白々しい壮年の医師は申し訳なさそうに言って――
「だけど、もう少し詳しく聞かせてくれるかな?」
と、そう迫ってきた。
黙秘する理由は、なかった。
「……もともとは母子家庭だったのですが、僕が幼い頃に、母は亡くなったらしいです」
「らしい?」
「はい。僕がまだ一歳になる前だったそうです。だから――僕には母の記憶はありません」
「そうか。それはお気の毒に……」
壮年の医師は、僕の境遇を憂うような素振りを見せて、質問を続ける。
「それで、その後、君はどうなったんだい?」
「身寄りのなかった僕は、児童養護施設に引き取られて、そこで育ちました」
「なるほど。そして進学を機にそこを出て、今に至る――ということかな?」
「……そうです」
という話である。
ありふれた話というわけではないが、特別珍しいかと言われれば、そうではないと言える、そんな話。
「そうかそうか」
ありがとう。よく話してくれたね。
罪を自白した幼い子供を報うように、そう言って――
おちゃらけた格好の医師は、冗談みたいに真面目な表情を浮かべて、こう言った。
「『愛欠乏症』だね」
「……はい?」
アイケツボウショウ?
「えっと……『アイ』って、あの『愛』ですか……?」
「そう。あの『愛』だ」
いや、どれ。
「『青は愛より出でて僕は君だけを離さない』の『愛』ですか?」
それだと赤色ができそうだけど、と。
藤枝さんは言う。
「そう。Loveの『愛』だよ。Blueという意味の『藍』でもなければ、ブルーな気持ちという意味の『哀』でもない」
ノリの良い人である。
「欠乏症ってことは……足りてないってことですか……?」
「まあ、平たく言うとそうだね」
「…………」
平たく言わなかったらどうなんだろう。
「でも、そんな自覚はないのですが……」
「うんうん、それも無理はないよ。症状と呼ぶべきなのかは甚だ疑問だけれど、まあそれは置いといて――自覚症状が無いのはよくあることだ。あるあると言ってもいい」
それはもう歌いたくなっちゃうぐらいにね、と。
戯けてみせる藤枝さん。
「愛が有ることも、逆に愛が無いことも、当人にはなかなか気付けないものだ。『愛』とはそういうものなんだよ」
「え、ええ……?」
急すぎる展開に僕の思考は置いていかれる。
愛が、ない?
愛がないって、なんだ?
僕が受けてきた愛が足りないということなのか?
それとも、僕から他者へ向けられた愛が足りないということなのか?
さっぱり、わからない。
いや、そもそも、僕の抱えた問題となんの関係が――
「兎に角」
藤枝さんは、きっぱりとした口調でそう言って、僕のごちゃごちゃとした思案を一蹴する。
「薬を出すから、夜寝る前に一錠飲んでみてよ」
「えっ、薬?」
予想外の言葉に、思わず声が裏返る。
「うん。もしかして、錠剤を飲むのは苦手だったかい?」
「あっ、いや、そうではなくて……」
「もし苦手だったら『なんや、おくすり飲めるやん』みたいなゼリー状のオブラートを使うといいよ。一錠が結構大きくて、慣れない人は飲み込むのに苦労するからね」
「は、はあ……」
「それと――」
藤枝さんは、にこやかな表情を浮かべてこう言った。
「帰りにカーネーションでも買っていったらどうかな? あれは日持ちもいいし――なんて言ったって、綺麗だからね」
心も幾分か休まるだろう、と付け加えて、藤枝さんは立ち上がる。
「えっ、いや、ちょっ、待っ――」
「さあ、これで診察はおしまいだ。ほらほら、荷物を持って。これ以上は延長料金が必要だよ」
「そ、そんな、まるで『お金を払ってまで藤枝さんに会いに来てる』みたいな言い方しないでください!」
「まあまあ、実際そのようなもんだろう? はい、じゃあ、お大事にね」
そう、爽やかな挨拶と共に、僕は診察室を追い出されたのだった。
その後、頭の整理がつかないまま会計と処方箋の受け取りを済ませて、同じビルの一階に入っている調剤薬局へと向かった。
受付で処方箋を渡し、数分待った後に再び受付に呼ばれる。薬剤師に処方薬の簡単な説明を受けて、薬を受け取る。その際に、藤枝さんにされたものと同じ忠告をされた。
大きくて飲み込むのが大変だから気をつけろ、と。
薬剤師から渡されたそれは、たしかに飲み込むには大変そうな大きさだった。だが、それよりも、僕はそれの異様な見た目に呆気を取られてしまった。
PTP包装シートにパッキングされた、薄く桃色を帯びるハート型の錠剤。
胡散臭え……。
これが駄菓子屋に置いてあったら、遠足御用達のお菓子に見えるだろうし、ディスカウントストアに置いてあったら、大人向けのジョークグッズに見えるだろう。
兎に角、ふざけた見た目だった。
僕は藪医者にかかってしまったのだろうか……。
そして、現在進行形で薬剤師ぐるみで騙されているのだろうか……。
そんな猜疑心に苛まれながらも流されるままに会計を済ませ、結局、何もわからないどころか、問題をもうひとつ抱えてビルを出たのであった。
「はあ……もやもやする……」
えっと、なんだっけ。『カリオフィパム』だっけ?
やたらと脅されるから、飲むの怖くなってきた。というか、飲み込むのが大変だってわかってるなら、一錠を小さくして、一回二錠とかにすればいいような気もするのだが……。
まあ、ちゃんとした理由があるんだろうけども。
うーん。
ここに来たことでむしろ僕のメンタルヘルスが害された気がするけど、どうか僕の気の所為であってほしいな。
スマホを確認すると、現在の時刻は十二時二十一分。なんだかんだで一時間以上もここにいたようだ。
――はあ。
なんとも言い難い微妙な気持ちをぶら下げて、僕は自宅へと歩き出した。
商店街の小さな花屋は、相変わらず客でごった返していて、レジのお姉さんは息も継げないような忙しさで絶え間なく客をさばいている。藤枝さんに勧められたこともあって、カーネーションを一輪だけ買っていこうか否かと悩んでいたが、生憎、あの人ごみの中に入っていけるような気分ではなかった。
だから僕は、まっすぐ家に帰った。
自宅であるアパートの一室へと戻った僕は、溜まっていた衣服を洗濯したり、部屋の掃除をしたり、無意味に長く湯船に浸かったり、と。これと言って特徴のない日曜日の午後を過ごし、いつもより早く就寝の準備に入った。
そして、寝る前にすることがひとつ。
紙袋から包装シートを取り出して、ぱちりと、錠剤をひとつ押し出す。掌に載せてみて、改めてわかる大きさにびびる。
いや、でっか。
猫の額ぐらいあるじゃん。
いや、本来は小さいって意味だけど……。
やっぱり、見栄なんか張らないでゼリーのオブラート買ってくればよかった……。
「…………」
よし、覚悟を決めよう。
僕は大きめのコップになみなみと水を注いで、深く息を吐きだす。そして、口に放り込んだ錠剤を一気に流し込んだ。
どうやら、過剰な心配だったようで、それは難なく咽喉を通り過ぎた。けれど、なんとなく咽喉の奥に引っかかっているような、もやもやとした不快感が残って――もう一杯、水を流し込んでからベッドに入った。
今日は色々あって疲れていたのだろうか。心なしか、いつもより寝つきが良かった気がする。