(二)
「……毎朝、起きたときに何故か涙が出るんです」
それが、僕の抱えた問題。
ここに来た理由だった。
ふむ。
藤枝さんは神妙な面持ちで言う。
「詳しく聞かせてくれるかな」
「あ、はい。でも、これ以上詳しく話すことはあまりないのですが……」
「あはは、そうかそうか。じゃあ、僕から質問するから、答えられる範囲で教えてくれるかな」
「わかりました」
答えたくない質問には答えなくてもいいからね、と。
そう前置きして、藤枝さんは質問を繰り出す。
「『毎朝』ということは、時々、涙が出るのではなくて、毎日それがあって、もちろん今朝も涙が出た――ということかい?」
「そうです」
「それは、いつ頃からかな?」
「はっきりとは覚えてないのですが、一か月前ぐらいからです」
ほむほむ。
藤枝さんはパソコンのキーボードを軽やかに弾きながら、相槌を打つ。
「『何故か』ということは、その涙の理由は君にはわからない――ということかな?」
「はい。感情とは関係なしに勝手に流れてくるので……」
「最近、悲しいことや辛いことはなかった?」
「そうですね……。まあ、強いて挙げるとすればお気に入りのマグカップが割れてしまったことぐらいです。それ以外は特に……」
「そうか、原因不明の涙か……」
それは大変だね、と。
藤枝さんは言う。
「理由もわからないんじゃあ対処もできないからね。でも、ここに来たのはいい判断だったと思うよ。間違いなく『心』の問題だろう」
心の問題。
やっぱりそうなのかな。
でも――。
「でも、僕は、そんな……深刻な悩みを抱えている……というわけでは、ないんですが……」
「あはは。まあまあ、案外気付いていないだけかもしれないよ」
軽いなあ。
まあ、でも、変に深刻な雰囲気を出されるよりかはいいか。実際、それに救われている気もする。
わかんないけれど。
「じゃあ、もう少し訊いてみよう」
「はい」
僕は姿勢を正す。
「藤滝くんは、大学生?」
「はい、今年の四月から」
「おお、一年生か。ちなみにどこの大学?」
「南大です」
「ああ! すぐそこの大学か。実家から通ってるの?」
「……いえ、三月の終わりぐらいからこっちでひとり暮らしを始めました」
「そうかそうか、それでここを選んだわけだね。うんうん。ひとり暮らしは大変かい?」
「初めてだったので、最初の一週間ぐらいは大変でしたが、すぐに慣れました」
ほむほむ、と。
頷きながら、パソコンに向かう藤枝さん。
奇妙な相槌だ。
「一か月ぐらいか……」
「はい……?」
「ああ、いや。質問を続けよう」
ん?
僕は首を傾げるが、藤枝さんは気にしない。
「大学は楽しいかい?」
「まあ、ほどほどに」
「そうかそうか。じゃあ、何かサークルとかは入った?」
「いえ、入ってないです」
「あら。友達とか作る大変じゃない?」
「まあ、たしかに……」
学科内ならともかく、他学科や他学部の友達を作るとなると、それはたしかに大変かもしれない。
「恋人はいるかい?」
「いや、いないです」
「そうかそうか。そうだよねえ」
ん?
そうだよねえ?
それはどういう意味だ?
サークルや部活に入ってないと交流の機会が少ないから、そりゃあ恋人ができなくてもしょうがないよねえ――という意味か?
それとも、君みたいなやつには恋人なんてできないよねえ――という意味か?
前者だよな?
精神科医が患者の精神にダメージを与えてくるはずがないもんな。
うん。
「じゃあ、好きな人はいるかい?」
「は?」
好きな人?
「ん? 好きな人はいるかって訊いただけだよ」
「そ、それは……症状に関係があるんですか……?」
怪しむ気持ちを隠し切れずにそう訊き返すと、藤枝さんは大袈裟に肩を竦める。
「さあ? 関係あるかもしれないし、無いかもしれない。わかんないね。あはは」
あははって……。
うーん。
深く考えるだけ無駄な気がしてきた……。
なんだこの人……。
「答えたくなかったら『言いたくない』でいいからね」
「いや……答えたくないというわけではないのですが……」
「というと?」
「……わからないのです」
「ふむ。何がわからないのかな?」
言ってごらん、と。
藤枝さんは穏やかに促す。
僕は、質問の答えにはならない答えを言った。
「人を好きになるというのがどういうものなのか、わからないです」
ほむほむ。
藤枝さんは例の変わった相槌を打つ。
「もしかしたら誰かを好きになったことがあるかもしれないし、今も誰かを好きでいるのかもしれないけれど……。『好き』というのがどういうものなのかわからないから――好きな人がいるのかいないのかは、わからないです」
うんうん、と。
藤枝さんは得心が言ったというように深く頷き、キーボードの小気味良い音を奏でる。
今ので何かわかったんだろうか。
先の問答が僕の抱えた問題に関係しているとは到底思えないのだけど……。
まあ、いくら胡散臭い身なりをしているとはいえ、相手はプロだからな。僕にはわからなくても、彼にはわかるのかもしれないな。
「うん、やっぱり童貞だったか」
「待ってください先生。それは絶対関係ないですよね?」
というか、お願いだから無関係であってほしい。
そんな理由で毎朝涙を流しているとか悲しすぎる。
「あはは、冗談だよ冗談。世田谷ジョークさ」
「そんな文化は聞いたことありません。世田谷人に失礼です」
「あれえ、そうなの? 僕の周りではよく聞くんだけど……。まあ、世田谷は広いからねえ」
近所の治安に不安感を覚えた僕だった。
「いやあ、だって、藤滝くんはとても男子大学生とは思えないほど、童顔で可愛い見た目をしてるからさあ」
「それコンプレックスなんでやめてください!」
「あはははは。僕は、藤滝くんがどっちを先に卒業するのかとても興味があるよ」
絶句。
あまりに酷い。
白い長机を挟んだ向こう側には、他人のコンプレックスをけたけたと笑う精神科医。僕はこれが終わったら、ありとあらゆる罵詈雑言を並べた最低評価のレビューを投稿してやると心に誓った。
「ああ、そういえば――」
壮年の医師は、この話はもうおしまいと言わんばかりに、ドラマチックに――悪く言えば、かなりわざとらしく話題を変えて、こう続けた。
「今日は母の日だけど――お母さんに感謝の言葉は伝えたかい?」
「…………」
僕は、すぐには答えられなかった。
それは、突飛な質問に驚いたというわけではなかった。
「……いえ」
「ああ、そうなの。もしかしてお母さんと仲が悪かった?」
「いや……」
「ん? どうしたんだい?」
にこやかな表情を浮かべた医師は、僕に尋ねる。
「何か問題でもあるのかい?」
「…………」
とても『言いたくない』と言える雰囲気ではなかった。
「僕には、母がいません」