(一)
五月九日
嫌気が差すほどに天気が好い。
どうも、年を追うごとに春と秋が短くなっていく気がするのだが、それは僕の気の所為なのだろうか。というのも、からっとした晴れ模様が広がっている本日は、もう夏が来たのではと思うほどに爛漫たる陽射しが降り注いでいて、春と言うには些か暖かすぎる陽気で満ちているからである。
しかしまあ、気象庁は三月から五月を春と定義付けしているらしく、そう言われると「まあたしかに夏には少し早いかな」という気もしてくる。
そんな日。とある日曜日。
兎に角、お出掛けするにはお誂え向きな天気。その朗らかすぎる春空の下、僕は晴れない気持ちを抱えながら、ひとりぽてぽてと、とある目的地に向けて駅前の商店街を歩いていた。
その日が平日だろうと休日だろうと、知ったことではないといった風に、いつも閑散としている商店街。今日というこの日も例に漏れることなく、寂れた景色がそこにはあった――ただ一軒の店を除いて。
その通りの中頃にある小さな花屋。
そこは、普段の様子からは想像もできないほど、大勢の客で賑わっていた。そして、そのほとんどが赤いカーネーションを手にしており、ひとつしかないレジを先頭に長い行列を作っていた。
そう、今日は五月の第二日曜日。
母の日だ。
つまり、ブーケやらアレンジメントやらを手にして、仲良くレジに並んでいる彼らは、赤いカーネーションに『母への愛』という花言葉を添えて、日頃の感謝を伝えようとしているわけだ。
なんともまあ、微笑ましい限りだ。
そんな定例イベント『母の日』であるが――恐らく、僕には一生無縁な日だろう。それは、母に改まって感謝を伝えるなんて恥ずかしくてできない――とか、そんな反抗期の男子中学生みたいな理由ではなく、もっと根本的な理由に起因している。
まあ、将来的に花屋でアルバイトなり就職するなりして、書き入れ時である『母の日』の前後にしゃかりきになって働く――なんて可能性はゼロではないのかもしれないけれど。
うーん。
いや、ないだろうなあ。
花を愛でるのは好きだが、それを仕事にしてしまうと、花が嫌いになってしまいそうだ。お気に入りの曲を目覚ましのアラームに設定したら、その曲が少し嫌いになるみたいな、あんな感じで。
さて。
賑やかな花屋を横目にしながら、そんな益体の無い思考を巡らせていると、本日の目的地である小さなビルに到着する。
そのビルの三階に入っている心療内科――『誠心誠意まごころクリニック』
そこが、僕のお訪ね。
しかしまあ、なんというか、絶妙に胡散臭いネーミングである。誠実さを謳うがあまり、逆に不誠実っぽく見える、みたいな。そんな感じがする。僕が弄れているだけなのかもしれないけれど。
だが、レビューを見た限り、このクリニックの評判はかなり良かった。自宅から近いこともあってこのクリニック決めたが、さて、どうだろうか。
現在の時刻は十一時十三分。
予約した時間まではまだ十五分ほどあったが、外で待つのも変なので、中へと入った。
初診時の受付を済ませて、待合室のソファに座る。手近な本棚を物色しながら診察への緊張を誤魔化していると、思いの外早く名前が呼ばれた。
「藤滝さん、どうぞ」
僕の名前である。
診察室の前に立って深く息を吐き出し、ドアをノックする。
「失礼します」
すると、爽やかな男性の声が返ってきた。
「どうぞ」
その声に少しだけ安心感を覚える僕だった。そして、意を決してドアを開けると、そこには――派手な柄シャツの上に白衣を羽織り、薄く紫がかった色つきレンズの眼鏡を掛けた、壮年の男性がいた。
「…………」
芽生えかけた安心感はただの錯覚だった。
律儀に胡散臭い。
誠実に不誠実。
真っ直ぐに歪んでいる。
そんな感じの風貌だった。
そして僕は――ここに来たことを既に後悔していた。
「やあ、こんにちは。そこの椅子にかけて」
爽やかな胡散臭い笑顔を浮かべて、おちゃらけた格好の医師は言う。
「はじめまして。えーっと、君は藤滝春陽くんというのか。うん、素敵な名前だね。『藤滝』という珍しい苗字もそうだけど『春陽』という名で締めているのがまたいいね。名付け親のセンスが輝いているよ」
「はあ……」
「僕の名前は藤枝――『藤の枝』と書いて藤枝。あはは、偶然にも『藤』繋がりだね」
と、藤枝さんは嬉しそうに言う。
本当に偶然なんだろうけど、この人が「偶然」という言葉を使うと、途端に怪しい響きになるのは何故だろうか。
実は偶然を装った必然なのではないか。意図して仕組まれた筋書きなのではないか。
そんな気がしてくる。
「藤はいいよね。なんて言ったって、花が綺麗だ。林業家には嫌われがちだけど、毎年、藤の咲く春を楽しみにしている人は多いんじゃないかな。ちなみにだけど、藤の花言葉は『優しさ』、『歓迎』、『決して離れない』、『恋に酔う』だ。あはは、まあそんなわけで、僕は君を『歓迎』するよ」
「…………」
胡散臭え……。
創作の中ならまだしも、日常会話で花言葉を使うやつとか、きな臭いと言ったらありはしない。
まあしかし、アイスブレイクとしては成功しているのかもしれない。何故なら、まだ会話を始めて三十秒ほどだったが、僕は既に呆気を取られてしまい、緊張感どころかここに来た目的さえも忘れかけていたのだから。
「で、今日はどうしたの?」
と、藤枝さんは、そんな僕の胸中を見透かしたように、来訪の目的を尋ねてくる。
爽やかな笑顔をべっとりと張り付けたような表情で。
「ああ、えっと……」
「うん」
「……毎朝、起きたときに何故か涙が出るんです」