□中編
取引先や上司、親戚の名前が並ぶ中から「中越京子」の文字を探しているうちに、スマホが充電切れになってしまった。充電ケーブルは、手荷物の中も、乗って来た車の中も、探したけれど見付からなかった。まだまだ探す気ですか? いいや、家族に借りた方が早い。
居間に戻ると、油性マーカーで蜜柑に顔を書いて遊んでいる美穂ちゃんがいた。
「美穂ちゃん。充電ケーブルは、どこかな?」
「おじちゃん、じゅうでんするの? 待ってて。すぐ持ってきてあげる~」
スマホを見せながら言うと、美穂ちゃんはマーカーにキャップをしてタッタッタと廊下を駆けていった。
俺だって、季節のイベントを知らないわけではない。十月末にはハロウィンがあり、十二月下旬にはクリスマスもあった。しかしながら、先祖代々仏壇の前で般若心経を唱えてきた人間には馴染みが薄い上、馬鹿騒ぎする歳でもなければ、キザなことが似合う洒落っ気もない本厄男には、ちとハードルが高いのだ。ダサいと嗤いたいなら、好きなだけ嗤うがいいさ。
これは主に若い頃の話だが、自分から誘わずとも、地方の信用金庫という旧態依然の組織に長いこと席を置いていれば、出世をチラつかせて身を落ち着けさせようとする人事からお声が掛かるもの。食堂の蕎麦の自販機の前で三十秒待っている間に見合い写真を見せられたり、営業先の農協で商談が成立した後に娘さんを紹介されたりした。しかし、どの女性も背後にある大きな権力が恐ろしく、とてもお付き合いする気にはなれなかった。権謀術数に巻き込まれ、胃に穴を開けるくらいなら、現状維持で良いと思うようになるのも、無理ないのである。もっとも、付き合ったとて向こうからお断りされないわけではないだろうけど。
そもそも、結婚しているイコール信頼できるという公式自体、古臭い黴の生えかけた方程式のような気がしないでもない。が、同期が結婚してランチの場を食堂から自席に変えるごとに、何度も愛妻弁当に憧れたのもまた事実である。
そうそう。二十年くらい前だから時効だと思って暴露するが、過去には中越が料理上手という噂を小耳にはさみ、ちょっとイイかもしれないと気持ちが揺らいだこともある。結局、その時は傷心気味のところを食事に誘い出すまでは成功したが、噂の真相を確かめたり、その先に一歩踏み出したりするところまでは出来なかった。
いやあ、この歳まで独身だと、色々と拗らせるものだな。
まあ、そんな訳だから、和食レストランの一件で付き合うことになった後も、帰宅時間が同じになった日に家まで送ってやったり、週末に荷物持ちとして一緒に買い物したりする程度の仲でしかなく、まるで真面目な中学生のような健全で清く正しい交際に留まっている。関係を進展させたい気持ちが無いわけではないが、今の友好状態が壊れるんじゃないかという恐れを払拭できないが故に、リスクヘッジに逃げ回っているのだから、我ながら情けない限りである。
「持ってきたよ。ハイ!」
「おお、ありがとう」
充電しようとケーブルの先をスマホに差し込もうとした。だが、キャリアが違うのか、世代が違うのか、差込口と明らかに形状が異なることに気付いた。そういえば、今のスマホを買ったのは、七年くらい前だったな。
仕方がないので、俺は家の電話を使うことに決めた。中越家の電話番号は、新人研修時代に聞いていて、たしか、ここの電話帳にも書き写しておいたはず。
寒々しい廊下に出て、階段下の踊り場にある電話の前に立つと、電話台に吊り下げてある丼屋のメニューとクリーニング屋の手帖の間から電話帳を引き抜き、ナ行のページを開いた。そして、受話器を肩と耳に挟みつつ、同じ郡に繋がる六桁の番号を押した。指先が震えたのは、冷えから来るものばかりではない。
「もしもし、長崎です。中越さんのお宅ですか?」
『はい、中越です。その声は、サブちゃんね? お久しぶりだこと。元気にしてた?』
「おかげさまで」
『そうそう。このあいだ恵子ちゃんがお裾分けにって持って来てくれたお漬物、とっても美味しかったわ。サブちゃんも食べた?』
「あっ、はい。美味しかったです」
『でしょう? サブちゃんからも、お礼を言っといてよ』
「分かりました」
このまま話が進むと、根掘り葉掘り近況を聞かされた挙句、俺が中越と付き合ってると知らずに縁談を持ち掛けられ兼ねないので、世話焼きおばさん特有のマシンガントークを強制終了させて電話を代わってもらうことにする。
「ところで、京子さんは御在宅でしょうか?」
『ああ、京子? なんだ、京子に用があったのね。京子なら、お台所にいるわ。お雑煮を作ってるところなんだけど、呼んであげましょうか?』
「お願いします」
通話先の保留を知らせるグリーンスリーブスを聞き流しながら、俺は中越に何と言って誘い出すか考えた。