出会い編 エピローグ
「ん………」
彼女が目が覚めると、そこは変わらない我が家であった。天井に映る、窓から差し込む夕日の色は殆ど消えかかっていて、もうすぐ冬入り前の長い夜が訪れることを知らせていた。
なんら変わらない一日の終わり。ただ、一つだけ、そこに今までとは違う何かを挙げるのなら…。
「…あなた、あったかいのね」
同じベットの上で、静かに寝息を立てていた一人の少年――ロレンのを見て、彼女は静かに呟いた。いつの間に潜りこんでいたのだろう。
少年を起こさないようにそっと体を持ち上げると、背中が疼いた。自分が応急手当程度に巻きつけた、上着を裂いて作った布きれはすっかり血を吸って黒くなっていた。
あの後――盗賊団を一通り蹴散らした後、ロレンは一刻足らずして、青い水晶のペンダントを手に戻って来た。同時に持ち帰り用か、重々しい財宝入りの袋を引きずっていたが、私が血を失ったせいか顔面蒼白になっているのを見ると、すぐにそれを捨てて駆け寄ってきた。
要はなんだかんだ言って、優しい子なのだと思う。何度も心配して大丈夫かと聞いてくる彼をなだめて、私はこのまま家へ帰ろうと言った。『家』などという概念がなく一瞬きょとんとした彼であったが、理解は早い方なのかすぐさま私の腕を取り、帰り道でずっと支えてくれた。
町を出て少し外れたところに、寂れた小屋がある。
元々は森林の管理者の老人が住んでいたところだが、近頃国が荒れ木材商売が滞り、丁度いい機会だからと引退することにしたという。それで小屋を売ろうとしたが、何しろ外れたところにぽつんとあるものだから買い手はつかなかった。
時を同じくしてこの町に越してきた私は、この話を聞いてすぐに物件に心を惹かれた。非常に安価だという点もあるが、何より町はずれにぽつんとある…つまり周辺住民との繋がりを持つことは無く、また仕事柄、そこへ暗殺者がやってこようが軍隊が押し寄せようが、他人が巻き添えを食らう確率は極端に低くなり、こちらとしてもとても戦いやすくなるのだ。
殆ど心を決めた私に、たった一つ、疑問が浮かび上がった。――一体いつから、私はこうも独りになってしまったのだろうか。実際に、人を避けて暮らすことは寂しい。けれど、それは人にとっても、自分にとっても一番傷つかずに済む方法なのだ。愚痴を吐いては独りで慰め、また一段気持ちが暗くなる。…そうやって、心は壊れかけていたのだ。
まあ、何はともあれ、私はその小屋を買収して生活を築き始めていた。
意識は朦朧としていたが、城下町の出口まではロレンが案内してくれたし、そこから先は殆ど一本道だ。家に着くと流石に疲労が限界に達して、有無を言わずにベットへ倒れ込む。ここまで連れてきてくれたロレンに礼を言うのは、とりあえず一休憩してからにしようと思った。
*
少年が目を覚ましたのは、堪らない空腹が、漂う食物の香りにそそられたが故である。
「……ここ…は?」
彼にとっては見慣れない景色である。自分が横たわっているのは、硬い石ころが転がる冷たい地面ではなく、柔らかく暖かい布団の中だったから。
「気が付いた?ロレン」
「!………あんた」
女は新しい服に着替えて、台所に立っていた。襟から僅かに見える包帯は白く、地面に押さえつけられた時に顔についた泥はすっかり落ちていて、晴れ晴れとした表情だった。
「あんたじゃない、私には名前があるの」
「……ライ」
そう呼ぶと彼女は嬉しそうに、手にあるおたまをまだバチバチを鳴っている火に温められている鍋に入れ、湯気の立つスープをお碗によそう。テーブルには既に焼きたてのパンが中央の大皿に数多く置いてあり、その芳ばしい香りは自然とロレンを呼び寄せた。
「はい、私特製のロールパンと野菜スープ。材料は残り物だけど、腕には自信あるから」
テーブルの向かい合った席の前にそれぞれスープとスプーンを置くと、ロレンに座るように促し彼女自身も座る。
いつも地面に座っていたロレンにとってまず椅子そいうものが慣れないものであったが、そんなことよりも今は重大な問題に直面している。
「これを、食べろと…?」
「それ以外にどういう意味があるのよ」
いつものオレなら…こんなこと聞く前にとっくに腕一杯にパンを抱えて逃げ出していたのだろう。久しぶりの食物なのだ、じっくり食べれば1週間は持ちそうな量、甘い香りの誘惑。…だけど、彼女相手にそんなことは出来なかった。どうしてだろう。オレは自分が思っている以上に、彼女に手出しができないように出来ている。
――彼女がこの家に戻ってすぐ、ベッドに倒れ込んだ時だってそうだ。生きるために訓練されたオレの思考は、第一に、彼女が眠っている間にこの家じゅうのありとあらゆる売れそうなものを手にして、逃走するという選択肢をオレに提示した。だけどオレがその選択肢を選ぶことは無い。本気で彼女を心配して、体が冷えない様布団をかけ、彼女の宝物だというペンダントを彼女の首にかけ、静かに寄り添った。……彼女の体温をもう一度味わいたくて。
だから今、あたかも当然のように振る舞っている彼女に対し、言わなければならないことがある。
「オレ…食べれない」
「どうして?」
「お金…持ってない…から」
オレはあんたに対して害をなすことはできない。どうも、そういう風に出来ているらしい。
「………ふ。あははははっ!」
一瞬の沈黙を得て、彼女は笑い出した。
「な、何がおかしい…んだよ!」
「はは…可笑しいよ。誰もお金をとるとは言ってないだろ」
「だって…、食べ物は、お金で買うか盗むかしかないだろう!?オレはあんたのものは盗めないし、お金は持ってない!」
ロレンの言い分(というか価値観)に一瞬驚いた顔をしたライだが、やがて目線を落として穏やかに言葉を紡ぐ。
「………お礼、だから」
「え?」
「ロレンは私のこと、命はってまで助けようとしてくれた。大事なもの、取り返してくれた。それに……」
何かを言いかけて、やっぱりやめたという感じに彼女は微笑んだ。
「…だから、お金なんか取ったりしない。ごちそうするって言ったでしょ?」
「……お金ないけど、食べていいの?」
「もちろん」
もうそれ以上は我慢できなかった。元々空腹を無理矢理押し込めていたのだ、ライの言うことはまだ完全に理解できていないが、手は既にパンに伸びていた。
一口かじる。するとそれは想像を超えた世界だった。なめらかな舌触りに芳ばしいバターの香り、路地裏で一人かじっていたものとは到底同じパンだとは思えない。勢いでパン一つを2、3口で全部押し込んでしまい、流し込むためにスープを手にとる。そしてオレは生まれて初めて、“暖かい”スープの味を知った。
*
余程お腹を空かしていたのか、それとも私の作ったものがそんなに美味しかったからか、ロレンの食物に対する勢いは止まることを知らなかった。最初はおかわりにスープを一杯一杯よそっていたが、途中で鍋ごと渡してみたところ、なんと二人でなら数日は飲めるとだろうと思って作ったスープを、一滴残らず一人で平らげてしまった。幸い自分の分は予めとってあったので夕飯なしは免れたが、パンもとっくに消えていた。この子は一体今まで、どんな生活をしてきていたのか。
ご飯直後は満足そうな顔をしていたが、私が洗い物をしているとまたどうしていいか分からないような顔をしてこっちを見ていた。
「…美味しかった?」
「………すごく。信じられないくらいに」
「そう、なら良かった」
最後に鍋を逆さまにしてたてかけると、一息ついて、ロレンに向き直る。
「よし、じゃあ次は…その全身の泥をどうにかしなきゃ。服脱いでこっちきて」
言うと部屋の奥の方へ向かう。夕飯前にお湯を沸かせておいたから、今頃丁度いい温度だろう。
「…へ?」
「体を洗うだけよ。ほら早く」
「え?お、オレ、そんなことしたことないし、する必要もないし…」
「だめ。傷口から感染するの。とにかく来て」
なかなか着いて来ないことに痺れを切らして、何故か顔を朱に染めている彼の腕を引いて無理やり連れて行くと、その服なのかボロ布なのか分からない衣服を剥ぎ取った。