出会い編 前編
少年が盗みを覚えたのは、随分前のことだった。
生きるのに必要な技で、市場の食品を取って、逃げて、食べて…、失敗したときは大人たちが振りかざす棍棒をその小さな体で受け止める。路地裏で殴られ暫くは口も開けないほど顔が腫れた時もあった。そんな泥沼に塗れる様な毎日を今日まで生き延びてきたのだ。
オレンジの髪は泥でその輝きを失い、同じ色の瞳に入った埃を左手で掻き毟る。少年は自分の名前を知らない。親を知らない。年齢も知らない。いつからこの町に来て、それからどれくらい経つのかもはっきりと覚えていない。今日も人から食べ物を、お金を盗んで生き延びるだけ。
「………」
もうすぐ冬が来るのだろう…。気温が下がると共に夜が明けた時に路上に転がる死体の数は増えてきた。死体は誰にも回収されず腐って、野良猫共の餌食となる。いつか自分もその中の一つになるような気がして、軽く吐き気を覚えた。
「コート。靴下。……食糧だけじゃ足りない……金、手に入れないと」
まるで何かの呪文のようにそう呟き、少年は路地裏を抜けて大通りに出る。
空は酷く淀んでいた。この地域はスラム街と呼ばれていて、国が管理を放棄した場所である。職の見つからない人々や貧しい人々が辿り着く末路で、その他にも治安部隊がいないのをいいことに、犯罪者や亡国人が次々とやってきて、狭い空間の中で街を形成した。
大通りの道端で売られているのは、法外な額の食品から麻薬と呼ばれる代物まで。今日はそれらには目をくれずに、少年は獲物を定める様な目で通行人を見渡した。
――金、持ってる人。
慣れたことのように、人々の髪の整い・服装などからその地位を見定め、次に彼らが貴重品を入れていそうなポケットや袋を見つけ、どれが手を出しやすそうかを瞬時に判断する。
彼がこの町で今日まで生きてこれたのはただの運の良さではない。まだまだ子供の背丈であるのにも関わらず、盗むための知恵と逃げるための脚力において他を圧倒するほど秀でていて、その能力が彼を今日まで生かしてきたのだと言っても過言ではないのだ。
――女。あいつに決めた。
一通り見渡した後で、十数メートル向こうから自分の方へ歩いてくる茶髪の女をターゲットに定め、彼女の腰に結びついてある袋に焦点を当てた。体をその方向へ向けて、伸ばしっ放しの前髪で表情を隠し、偶然を装い歩き出す。彼女はこの町の外の人間だと思わせるようなきちっとした身なりで、少年はこの時彼女を羨ましくともなんとも思わず、ただ単に獲物としか捉えていなかった。
前を歩いていた大男の後ろに隠れて歩き、女とすれ違うまであと一歩のところで、右足に力をかけ彼女の前へ飛び出す。
「――わっ!?」
ぶつかった彼女の体は柔らかかった。
*
――これが貧民街。
ライが噂を聞きつけて来たのは首都の外れ、黄色い砂埃と悪臭に塗れたとんでもない街だった。路上で死んだ人間が何の処理も供養もされずに放置されている。ある程度このようなものを見慣れた彼女でも少なからず吐き気がした。
――やっぱり趣味で来るような場所じゃないな。
ライは今回何かの依頼を受けたわけではなく、個人として貧民街の実態を知ろうとして潜りこんだだけであり、そこからこの町をなんとかできないかと考えていたところだった。
――個人でできることには限界がある。なんとかして、この国の上層部と取引ができないか…、
「わっ!?」
考え事をしながら歩いていたところへ、突如何かがぶつかり、衝撃でバランスを崩しその場に尻餅をつく。
「ごめんなさい」
少し高い、子供の声だった。顔を上げるとまず目に入ったのはその無垢なオレンジの瞳。乱れた髪と顔立ちからしておそらく少年で、年は7、8歳程だろうか。勢いよくぶつかって来たようで、後ろへ倒れ込んだ自分の上に追い被るようにして地面に膝をついていた。
「…いや…。…あ、それより怪我は無い?」
言いながら目に付いたのは、少年の体に何箇所ものあざやまだ癒えない傷口。…彼は一体その小さな体に何を背負わせているのか。ライは息を止めて一つ唾を呑んだ。
「ない」
少年が小さく呟くと、それ以上彼女には構わずその場を勢いよく去ろうとする。
「待って!」
呼びかけたライに、少年は一瞬だけ立ち止まった。
「…あなた、名前は?」
「……ない」
同じことを言い捨てると、彼はそのまま走り去ってしまう。呆気にとられてライは暫くの間その方向を見送ったが、やがてため息をついて立ち上がり、反対の方へ向き直した。
そこで何かの違和感を感じたのだろうか。恐る恐る左後ろ腰に巻いたはずの腰袋に手を当てると、手は空しく空を切った。
――あいつ。
金銭目的だったのだろうか。あの中に入っているのは応急処置用の包帯や消毒液などで、金貨など一つも入っていないと言うのに。
――まあ、体中の傷口を癒すのに使ってくれたらそれでいいか。
諦めを込めてもう一度ため息をし、淀んだ空の下歩き出す。この町では犯罪は横行しているのは予め知っていたのだが、あのような子供までもが手を染めていると思うと、どこか腑に落ちない気がして。そして同時に考えるのは、そうまでしなければ今日生きていく糧も得られない少年の気持ちは一体どんなものだろうかということ。
――まるで、世界が違うようだな。
そんな納得いくようないかない様な結論をつけて、ライは空を見上げた。そしてそこで、もう一つ重大なことに気が付き、ゆっくりと目を見開く。
「今朝クリスタルを入れたのは、確か…」
確かあの袋だったのだ。言い終わらないうちに、彼女は随分前に少年が消えた方へ駆け出した。
*
「……」
日の当たらない路地裏で、オレンジ色の瞳の少年は今さっき盗んだばかりの腰袋の中身を漁っていた。白く薄い繊維製の布や小さな刃物などの物しか入っておらず、金貨の一つも見当たらない。
――これ、飲めるのか?
小さな缶を見つけて、蓋を開けると透明な液体だったので思わず口にしてみる。
「ぶ――っ」
どうやら飲む用途のものでは無かったらしく、舌についてからすぐに少年はそれを吹き出した。
――少しくらい金目になるものはないのか…。
液体の入った缶に蓋をし直し路地にそのまま投げ捨て、手を袋の奥に突っ込む。すると何か冷たく、硬い感触がして、彼は僅かな期待を込めてその物体を取り出す。
「…わぁ」
綺麗な水晶のような石だった。首にかけるための丈夫な紐があるだけの単純なアクセサリーなのか、ブルーに輝く石の真ん中にまるで剣を崩したようなデザインの紋章が入っていて、それ以外何の特徴もない。どれくらいの値がつくのか分からないが、太陽が当たっていない中でもこの輝きなのだから、相当な価値の宝石だと判断し少年は救われたような気がする。
輝く石をまだ穴の開いていない胸ポケットに入れ、残りの物は腰袋ごと路地裏にそのまま捨てた。
――もう一仕事、しよう。
一件目の相手が追いかけて来なかったためかほとんど体力を消費せずに済んだため、少年は再び大通りに出て、先程と同じように獲物を定めようとする。
――今度こそ。
今度こそ、すぐに金貨が入っていると分かるものにしようと、もっとターゲットの幅を広くして判断した。
――大男の手にある袋、金貨がパンパンだ。
相手がいかにも筋肉質な男だということが気に留まったが、金欲しさに勝てず彼に手を出そうと少年は思った。先程の一件がやけに上手くいったため余計な自信がついたのだろう。
男との距離はもうないため、少年はいきなり駆け出し彼の手にある目当ての袋に無理やり手をかける。
「ああん!?」
図太い声が聞こえたが、少年の素早い動きは男が反応して手に力を込めるよりも早く彼の物をかっさらっていった。続いて罵声が聞こえたが、それに答えることなく少年は全速力で通りを駆ける。
――昨日見つけた隠れ場所に行こう。
貧民街は建物が密集しているため、主な通り以外にも、建物と建物の隙間――つまり路地裏――が広大な迷宮を成している。他人が簡単にたどり着けないので身を隠すのにもってこいなのであり、中には裏の世界の人間のたまり場や盗賊団のアジトになっている場所まである。
――ここを右に、左に、右に…。
ここまでこればどんな大事なものを取られたからといって、凡人は追いかけては来ないだろう。
少年が安心して暗い壁に寄り添い、収穫物のかなり重たい金貨の袋を開けようと紐をほどいたその時。
「よう、やってくれるじゃねぇか」
耳元で声が響き、振り返ればすぐそこに大男の顔があり、息が止まりすぐにここから逃げ出そうと前も見ずに駆け出したが。
ドンッ。
2、3歩したところでまた何かにぶつかり手にした金貨の袋を空中にばら撒いた。
金貨の雨が降り、それらと同時に少年もまた地面に崩れ落ちた。
「なんだこのガキ、それにこの金…」
「ヘイ、金は誘拐した娘の身代金ですぜ」
「そうか。成功したのだな…けど、これはどういうことだ?」
「帰る途中にこのクソガキが盗みにきやがったんすよ。そんで追いかけてたら、まさかここに逃げ込むとは」
一瞬の沈黙。次の瞬間、目の前の男は大げさに笑い出した。
「はっはっはっ!そりゃあめでたいこったぁ!!…おい野郎ども、盗賊団の金を横取りしたらどんな目に遭うか教えてやろうじゃねーか!」
男の叫びを聞きつけ、壁の影からぞろりぞろりと出てきた柄の悪そうな男達。その数十余り。少年は初めて、自分がとんでもない所へ足を踏み込んでしまったのだと悟った。
――ここはこいつらの隠れ家だったのか…?
「ぐぁ…!」
絶望するより先に、地に這いつくばったままの小さな体は巨体の足に踏まれる。
「ぐ……あ……がぁッ」
逃げようと光のある方へ手を伸ばしたが、その手はまた別の男の足に踏みつぶされる。
「はははははは!痛いか?クソガキが、てめーの自業自得なんだぜ!てめーもただの盗人だろ?消えて当然の存在なんだ!このまま俺たちに踏み滲まれるんだなぁ!この町もお前が居なくなれば少しは平和になるんだろうなぁ!」
少年にもう、感情は無かった。ただ体中の痛みを堪えて、口の中の鉄の味を味わって…。
腹を蹴飛ばされたときに、勢いで胸ポケットの青い石が飛び出した。
「――ッ」
「なんだこれ?はは…贖罪代として預かっておくよ。こりゃあいい収入になりそうだ」
金目のものに目がないという点では自分と全く同じのいい年した大人共が、その石を拾い上げ自分の鞄の中に入れてしまう。少年は虚ろな目を開け必死に訴える。
「…かえ……せ…」
「ああん?」
「オレの……もの……ぐああああ」
貰えたのは返事の代わりに、ナイフで肩を刺された事実。今自分を取り囲んでいるのは商品を盗まれて懲らしめに来た商人どもじゃない。正真正銘の血も涙もない盗賊団なんだ。見れば個々に斧や剣といった武器を持っていて、もし逃げようとしたところですぐにでもそれらによって首を跳ねられそうな気がした。
――いや、逃げなくたって、この人たちはオレが声を出さなくなるまで殴り続けるんだろう。
意識が少し遠のいていく。自分はこのまま、この日も当たらない路地裏で死んでしまうのだろうか。ここで殺される…ここで、自分が生まれた意味も分からずに。
悲しんでくれる人など誰一人としていない。ずっと一人で生きて来たから、誰も助けになんて来てくれない。ここで死んだとして、誰一人の記憶の隅っこにも僕は存在できない。そんなの…そんなの――。
「おい、何をしている」
凛とした声だった。その声によって、少年への暴行は空間が凍りつくかのように止んだ。
頬を泥につけたまま目線だけ上げると、この路地の出口に近い方、まだ僅かに光が差している方に女が一人立っていた。腰に剣を掲げ、何一つ惑いのない茶色い瞳をしていた。
――あ。
正しく、今朝自分が腰袋を盗んだあの女だった。何か声をあげようとして口を動かしたが、鉄と泥の混じった味が邪魔して上手く声が出ない。代わりに、少年を取り囲んでいる男共が気色悪い声で彼女に語りかける。
「お嬢ちゃん、一人なのかい?」
「……ええ」
男共は一気に笑い出した。先の一瞬の沈黙がまるで嘘のように高らかに。
「おいでよお嬢ちゃん。俺たちの言うことにちゃーんと従えば、痛くしないでやるからよぉ」
――だめだ。逃げないと、この下種どもにめちゃくちゃにされる。
たった一度だけ、盗み盗まれた関係でしかなかった女の身まで心配してやる義理はない。それなのに、自分が死の淵に立たされているのにも関わらず、少年はこれから起きると予想できる事態が許せなかった。何故だ。一体なぜ、こんな自分に、誰にも関わらずに生きてきた自分に他人への感情があるのか。
――……そうか。彼女は、オレの、オレの……、
名前を聞いてくれた。
「早く逃げろッッ!!」
十に満たない少年に似つかわしくないような、しっかり芯のある声を血を吐くと同時にあげた。少年は思った。これが最初で最後の自分の善行になるのではないのだろうか。それならそれでいい、とも。
「うるせぇ!!何もできないクソガキがぁあ!」
自分のすぐ隣に居た男が高々と斧を振り上げる。これが自分の最期なのだと少年は悟った。彼にもはや恐怖は無く、まるで自分の意識が自分の外にあるような感覚に陥る。――それは、たった8つ程しかない少年が、貧しい生活…暴力に塗れた生活を耐え抜くために磨かれた、自分への興味を無くすことで自分自身に降りかかる全ての痛み苦しみを感じなくなる技だった。
――カツン。
少年へ降りかかろうとした斧は、空中で止まった。その場に居た誰もが目を疑うような光景――女が細身の剣一本で自分の倍以上あるであろう大男の斧を止めたということ。
そして彼女がその剣を払うと男はよろめき、隙だらけなその胴体に斜めに一振り切り裂く。
「うぎゃああああ―!?」
痛みに男は喚き回り、女から逃げるように壁の方へと駆けていった。
その光景に、少年は自分から遠ざけた世界を確かに引きずり返した。血の匂い、埃の味、そして…。
「忠告ありがとう。でも私はあなたに用があるから、先に死なれちゃ困るのよ」
「………」
「さて……血を見るのは、あんまり好きじゃないんだが」
そういうと、彼女は剣をキッっと握りしめる。少年にはそれだけで空気が変わったことが分かった。男共が怒りに狂い罵言を吐き散らし息を荒らす中…彼女の静かな息遣い、鼓動の音まで空気を伝い確かに感じ取れる。
「言うことを聞かないのなら、いっそのこと死んで思い知れ!!」
誰かの怒号を合図に男共は殺意をもって彼女に襲いかかる。彼女は表情の一つ変えずに、踊るように身を反したかと思うと、掠るように…それでいて絶対に当たることのない軌道へ斧が振りかざされ、自分が空気を斬っているのだと気づいた男が顔を上げると、目の前には既に剣が舞い降りてきていて抵抗も出来ずにその刃に切り裂かれる。そうして一人撃退したことに傲慢にならず、同じ表情でまた身を翻し…。まるで蝶のように、それでいて敵の急所を突く雀蜂のように彼女は舞った。舞って、切り裂いて…。
少年はその一部始終に、全身の痛みをも忘れ魅入っていた。あんなにも軽やかで、美しいものがこの世の他にあろうか。あったとしても自分が知れるようなものじゃない。分かるのは目の前の情景に、どこか熱く、儚い衝動に駆られたということのみ。
「こいつ、バケモノだ。逃げろ、逃げろおお!」
数人切り裂いたところで、男共はもともと望んでいた訳じゃない戦いを次々と放棄し、怪我を負わせて戦意喪失させた奴らと共にたまり場から逃げ出した。
「………」
女は追いかけはせず、血に塗れた剣を手にしたまま少年を見た。
少年はこの時、背筋がぞっとなるのを感じた。彼女の戦いに対する表情がまだとれていなかった為か、もしかするとこのまま自分も切り裂かれるのではないかという考えが脳裏をよぎる。また同時に彼女がこの汚い命を絶ってくれると言うのならそれでもいい、とも。
カラン――。
だが危惧に大いに反し、女は目を見開いたのかと思えば剣をその場に投げ捨て少年の方に駆けた。上着を脱いでその一部を噛み破ると、空いた両手で彼の肩の刺し傷に巻いてきつく縛った。
「うっ…」
「酷い怪我…痛かったでしょ」
「…痛くは、ない」
「嘘よ。こんな傷だらけになって…体だってこんなに冷えてるじゃない」
暖を取らせようとしたのだろうか、彼女は少年が血と泥に塗れているのを躊躇いもせず自分の胸に引き寄せた。
「――っ!?」
少年は一瞬、何が起きたのか分からなかった。他人が自分に近づいてくるときは、大抵殴るためだったから、女のしている行為が不可解でならなかった。
「……あ、う」
しかしすぐにその胸にどんな場所にも替えられない居心地の良さを知った。暖かい。何よりも暖かいのだ。彼女の鼓動がはっきりと聞こえて、自分を優しく抱いてくれる腕の柔らかさを感じて。何か、今まで自分の中の見えない場所に押し込めた何かが音を立てて崩れ去っていくような、何か、自分の中に封じ込めた感情が勢いよく湧き上がるような…。
「う、あ…ああ…うあああ…ああああああ」
少年は自分が何をしているのかも分からなかった。目から水があふれ出るのだ。確かに覚えている範囲では、こんな事態に陥ったことなど一度もなかった。何故、一体何故…。
――オレは泣いているんだ。
「…お、おい…」
最初は引き寄せらせただけだったが、いつしか自分から、まるで泣いている姿を隠すかのように彼女の胸に顔をうずめたまま離れなかった。それに少し困惑したように、それでいて迷惑だとは思わず、女は仕方ないとため息を一つついて少年の埃被った頭をくしゃっと撫でる。