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アイスパンツの女の子

 廃墟のようなビルの屋上から中野の街並みを眺めている。


 七月も終わりにさしかかり夏の匂いが濃い。通り雨の後。午後五時。少し強い風が起き抜けの体に心地良い。

 眼下の猥雑な街並みは、歪な形がうまく組み合わさり優しい調和を見せている。

 佇む隣には、金属製のハンガーで無理やり知恵の輪を作ったような形のテレビアンテナ。風で飛んできた新聞の一面が絡まってしまっている。

 紙面からは世界で起きている様々な事件、人々の葛藤が読み取れる。


「神は天にいまし、すべて世はこともなし……ってか」


 心地よい夏の空気に当てられて痛いセリフを口走っていると、ビルの足元の道路に、夏物の制服を着たある女子学生の後ろ姿が見えた。既に一日の授業を終えて下校するところだ。


 遠目でもわかる華奢なシルエットに腰まである長い髪。凛とした雰囲気を湛え、独り早足に通り過ぎて行ってしまう。


 彼女はいつも一人ぼっちで同じ時間にここを通り過ぎる。ちょうど最近の起床時間と重なることもあり、屋上にいると毎日目にしているのだった。


 角を曲がって視界から消えてしまいそうになる彼女。なぜか少し名残惜しさを感じていたその時、風が吹いた。不意の強風を受けて彼女の制服のスカートがはためく。


 その瞬間スカートの下の臀部を覆う布に反射した光子が俺の両目に飛び込み、網膜の視神系に衝突した。脳内のニューロンをスパークさせたその電気信号は、俺の脳裏に儚いイメージを結像させる。



『アイス模様?』のパンツの観測に成功した。



 三角形のコーンの上に乗った丸いアイスクリームの図案が、水玉模様のようにいくつも繰り返されているデザイン。今まで十八年間生きてきて何回かこのような物理現象に遭遇したことはあるが、こんな不思議な意匠のパンツには未だお目にかかったことはない。


 この観測結果は数少ない青春の甘酸っぱい思い出として、脳内ストレージに大切に保存しよう、いや観測結果を論文にまとめて大学の課題として提出しようなどと妄想している間に、振り返り頭上を見上げた彼女と目が合ってしまう。


 少し軽蔑するような、もしくは優しく憐れむような目で見られた気がした。


 それもそうだ、俺は今起きたばかりで頭はボサボサ。服装は寝間着のジャージ姿。顔も洗ってない。既に一日の授業を終えて帰宅する彼女にとって、とても怠惰で汚い生き物に見えたことだろう。事実もう夕方なのに、俺はまだ何も出来ていない。


 そそくさと階段を一階分降りて、一人暮らしの自室に戻った。ここ毎日心のどこかで彼女が通り過ぎることを心待ちにしていたことを、見透かされたような気がしたからだ。


 仕方がないので、遅いブランチを調達するため外に出ることにする。

 表面にいくつか大きな穴が空いている本革張りのソファの上に無造作に散乱している、普段着のシャツとズボンに着替える。顔を洗い、寝癖を撫で付け、自室の重い金属製のドアを開ける。ひび割れが目立つコンクリートの廊下に、西日が反射して一瞬目が眩む。眩んだ眼のまま世界を良く見ないようにして、建物の内側にある階段を駆けおりる。


 外からその建物を見ると誰もが一瞬廃墟かと見間違う。五階建てくらいの鉄筋コンクリートの古いビル。建てられてから半世紀以上経つらしい。


 ここに今の俺の一人暮らしの部屋がある。

 階段の外側を覆うように、蜂の巣のハニカム構造を平べったく潰したような、色褪せたオレンジ色の意匠が施され、そのハニカムの中身を埋めるべく様々な看板が立てられている。


 バー、スナック、ホテル、名前だけではどんなお店か想像ができないもの等々。その看板もボロボロのものが多く、どの施設が現在も営業しているのかも判別しない有様。細い小道の突き当たりにあり、異様な雰囲気を醸し出している。この辺りでは有名な建物だ。


 そんな建物に一人暮らしの居を構えている理由、それは家賃が格安だということに他ならない。


 俺は今年の四月から大学に通うためにこの街に引っ越して来た。高校生までは唯一の肉親の父の仕事の都合で日本各地を転々としてきた。あまりにも色んな場所を連れ回されたせいか、ある時期に自分がどこにいて何をやっていたのかよく思い出せないことすらある。


 中野にある大学に通うと告げた際に、父は「学費だけは出してやる」という一言だけを残し、仕事のため単身で海外に行ってしまった。あまりにも白状だと思う反面、からっとしていて父らしいとも思う。そんな事情もあり自分のバイト代で賄う家賃は低く抑える必要があるのだった。


 一人暮らしの部屋はこの建物の四階だ。部屋自体はかなり年季が入っているが、ワンフロア貸切のためそれなりの広さがある。超絶レトロな年代物の家具も一緒についている。この街においては一等地にあるにも関わらず、この条件で家賃最安とのこともあって、最近はわりと気に入って住んでいる。



 少しこの『中野』の街の説明をしよう。

 ここでいう『中野』とは、東京の西側に伸びる中央線の中野駅周辺に広がっているエリアのことを指す。


 駅の北側のアーケード商店街を中心として庶民的な繁華街が形成され、その周囲に住宅街が広がっている。生活に必要なものはほぼ全てこの辺りで揃うこともあり、どの世代の人にも暮らしやすい街だ。さらに六、七年ほど前、俺が小学生くらいの時から街の西側が再開発され、複数の大学や企業が移転してきたらしい。今通っている大学もその中の一つだ。昔から住んでいるお年寄りと移り住んできた若者が奇妙に共存し、不思議な活気のある街になっている。


 そんな中野の細い路地を、先ほどの『アイスパンツの女の子』が通り過ぎた方向に曲がり、自室からほど近い場所にある中野ブロードウェイを目指す。


 地下一階食料品街の魚屋さん『魚正』の、タイムサービス半額パック寿司をゲットするためだ。


 『中野ブロードウェイ』は駅の北側にあるアーケードに続く地下一階、地上十階建ての建物。全長百四十メートル、幅四十五メートル、高さ三十一メートル。北に向かって縦に長い長方形の形をしている。ショッピングセンターであり、専門店街であり、住宅であり、さらにその他わけのわからない施設が雑多に入居した複合ビルとなっている。


 築五十年以上経過し、その魔窟的な雰囲気により『中野の九龍城』とも称される。俺の下宿のある建物と双璧を成す中野不思議スポットだ。


 魔窟とは……それは数々の犯罪が執り行われならず者が跋扈する、公権力の届かない悪の巣窟のことを言う。

 魔窟で最も有名なのは、かつて香港にあった『九龍城砦』だ。それはごく狭いエリアに重層的に違法建築が繰り返されたスラム街であり、中が立体の迷路のようになっていた。その中で数々の犯罪が行われたとか、いやとても平和だったとか色々なことが言われている。秩序とカオスが一体化した、超アジア的な建築の独特の魅力に心を奪われた者も多いが、取り壊された今となっては、廃墟マニア達に伝説として伝わるのみである。


 そしてその日本版に見立てられるのが中野ブロードウェイというわけだ。


 しかし中野ブロードウェイは実際のところそういった犯罪が起きるような魔窟ではなく、地域の住民が生活の場として買い物などに利用しているなごみスポットである。ある一点を除いては……。

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