ラピスラズリの花の色
サラヴィリヤで彼の花を見たという噂を聞いた。
月光の下で数時間だけ蕾を開くというまぼろしの花。
「エラルゼ、本当に行くのか?」
「ああ。今度こそきっと本物だ」
ブーツを履きながら応えると、相手は呆れたように首を振った。
「いい加減にしろよ。ラピスラズリの花なんてあるわけがない。夢物語に縋ってないで真面目に働け。それか、いっそ宝石商にこさえてもらえ。それが一番手っ取り早い」
「僕は装飾品が欲しいわけじゃない」
何を言っても無駄だと悟ったのだろう、男は大きくため息を吐くと、手に持っていた小瓶を投げてよこした。
落とさないように何とかキャッチをして中を見ると琥珀色の瓶の中には透明な液体が入っている。
「サラヴィリヤは極寒だぞ。ウォッカでも飲んで温まるんだな」
ラピスラズリの花は青
花びらは幾重にも幾重にも重なって
暗闇に溶け落ちる
新なる月の光の下で摘み取れば
私はあなたと恋に落ちて
その形を留めるでしょう
青い青いラピスラズリの花
あなたは私を見つけられる?
「花ァ? んなもんあの山で見たことなんて一つもねぇべ。岩がごろごろしてるだけだ」
「宝石の花なんです。サラヴィリヤで見た人がいるって聞いて」
町一番の猟師であるという男はエラルゼの言葉にギラリと目を輝かせた。
「宝石?」
「えぇ、ラピスラズリの」
「ラピスラズリ…、ラピスラズリの花? 童謡の?」
「…ええ、まあ」
エラルゼが渋々頷くと、男の顔は途端に真っ赤になり椅子を蹴倒して立ち上がった。
「テメェはおれをバカにしてんのか!? 田舎者は童謡も知らねえ大馬鹿野郎だっていいてぇのか!?」
猟銃を向けられて、エラルゼは慌てて酒場を後にした。
また失敗だ。
急にどっと旅の疲れを感じ、エラルゼは壁にそってずるずると座り込んだ。二日前にサラヴィリヤ山の麓の町に着き、聞き込みをするも、花を見たという人には一人も会っていない。
ラピスラズリの花を求めてどれくらいになるのだろう。
いつからかなんてもはや覚えていないが、花を見たという噂を耳にすればどんなところでもすぐに飛んで行った。
初めは応援していた旧友から次第に馬鹿にされ、やがては諭され、ついには諦めさせることを諦められるくらいの期間であることは確かだ。
わかっているのは新月の日に雪深い山の中で花を見た人がいるらしい、ということだけ。
新月の夜は近く、そろそろ山に踏み入らなければならないが、さすがに情報が少なすぎた。
「条件はあっているはずなんだけどなぁ」
また無駄足だったかと気持ちが塞ぎ始める。
日が沈み始め、風に乗ってどこからか子守唄が聞こえ始めた。
「──、ラピスラズリの花は青」
エラルゼは立ち上がった。
「私はあなたと恋に落ちて、」
「その歌っ!!」
路地を曲がると、老婆が座って編み物をしていた。老婆はエラルゼを見て皺深い顔に柔和な笑みを刻んだ。そして、そっと人差し指を唇に当て、傍らに視線をやる。
「静かにね。やっと寝てくれたところなのよ」
老婆の傍らの揺り籠には赤ん坊が寝息を立てている。すぐに謝ると隣に座る様に促されエラルゼは腰を下ろした。
「この町の人じゃないわね。旅の人?」
「サラヴィリヤに用があって来たんです。今、貴方が歌ってた子守唄の花を探しに」
「まぁ、」
今までの住人のように否定されるか馬鹿にされるかと思っていたが、
「じゃあ早く山に行かないと。夜まであまり時間がないじゃない」
返ってきたのは思いがけない言葉だった。
それはまるで、花を見たことがあるような。
「貴方はラピスラズリの花を見たことがあるんですか?」
「ええ、もちろん。あなたはないの?」
「ずっと、探し続けているんです。でも見つけられなくて」
「あらあらあら、じゃあきっと探し方が悪かったんだわ。なんのためにあの花を?」
現実を思い出し、一瞬口ごもったが、すぐに思い直して口を開く。
「妹の病を、治したいんです。ラピスラズリの花は妙薬で不治の病も治ると聞いたので…」
「妹さんが病気に…それは大変だわ。…けど、それが見つけられない理由なのね」
「どういうこと、ですか?」
「童謡は知っているんでしょう? これはね恋の歌なのよ。女神さまが人間の男と結ばれる話なの。だから、他の女性に想いを寄せている男性は見つけることができないのよ。雪山にしか咲かないのは吹雪で囲った心を見つけてほしいから、新月の光の下でしか咲かないのは最後まで求め続けてほしいからよ」
「宝石に、心が?」
「それはそうよ。生きているんですもの」
求め続けた花の真実にエラルゼは愕然とした。旅の道具を詰め込んだリュックサックが重く肩にのしかかる。
「そんな。それが本当ならどうしたら…」
そうねぇ、と老婆は頬に手を当て思案気な顔をする。
しばらくしてエラルゼを見上げて、おもむろに口を開いた。
「あなたには覚悟がある?」
酸素は薄くなり、吐く息は白くなって途端に消えていく。
町から見たサラヴィリヤの白銀の山稜にエラルゼは立っていた。
月明かりが雪に反射し一面を淡い青色に変えている。
中天に昇った月の光が辺りに満ちたとき、唐突にそれは始まった。
淡く輝く雪の下から子どもの掌ほどの蕾が顔を覗かせた。
ひとつではない。雪の下から縮こませた身体を起こすようにいくつもの蕾があらわれる。
「っ、」
エラルゼは震える唇を噛みしめて眼前に広がる光景を見守った。
ラピスラズリの花。
求め続けていた。諦めかけたときもあった。
磨かれたように透き通った藍の青は月光に透けて輝きを放ちながらゆっくりと花弁を開いていく。
エラルゼは膝をつき、逸る気持ちを押さえながらそっと花に両手を添えた。
触れられたのをわかったかのように花は青を一層濃くし、溶けて消える──ことはなかった。
その美しい姿のままエラルゼの掌に確かに存在していた。
ラピスラズリの花は青
私はあなたと、あなたは私と恋に落ち
永遠の旅に出るでしょう
青い青いラピスラズリの花
決して離さないで
ずっとそばにいて
老婆と別れた後、エラルゼはリュックサックを暖炉の火の中に放り込んだ。
母からの手紙、妹との思い出の品、旧友からの餞別品、宝物であり彼の支えである全てを捨てて『彼女』だけを求める覚悟を示した。
そして彼は何の装備も持たぬままその身ひとつで命を賭して『彼女』を探しに山に入ったのだ。
その後、彼がどうしたか知る者はいない。
ただ、東の街で重い病を患い何年も眠り続けていた女性が目を覚ましたという。