1度だけ、奇跡のように(2)
さく、さく、と雪を踏みしめる音が静かな森に響いている。
足音は1つ、呼吸は2つ。
騎士は魔女を抱えたまま娘が指揮する方へ足を進めていた。
元は魔女のものである魔力が込められた聖剣は訪れた時のように男の腰へ納まり、呪いを退けるため剣を握らせていた娘の手は腹のあたりでゆるく絡み力を抜ききっているのが解る。
あの後すぐに腕から降ろそうとした騎士を制したのは魔女の方だった。
曰く、眠りを妨害されたせいでまだ意識がはっきりしない。このまま暫く歩き自分の眠気を覚まさせるように。そう指示する声は何処か弾んでいた、ような気がするが。
何もない森のなかで「あなたの望むところに」などというおかしな返しをしたことで気を遣わせてしまったのかもしれない、と騎士は思う。
笑われなかったのは幸か不幸か、彼女は夜会や令嬢への決まり文句など知らないだけなのか、知ってはいても興味がないだけなのかもしれないが、妙に居た堪れない。
これもすべて、師であり養い親でもある先代騎士団長、剣聖の咎だ、と恨みがましく責任を擦り付けた。
女性には優しくあれ、全ての淑女は姫君と思えなどと、国の盾でしかない一介の騎士におかしなことを覚えさせるものだから、実際に使ったことなどないのに自失していた頭に浮かんだ教育の賜物が口から滑り落ちてしまった。なんと恐ろしいことか。
そもそも、魔女本人が現れるなんて聞いていない。
森が開けるまでは蜜だか泥だかに溶けているのではなかったのか!
などと当り散らしたところで、今の状況は彼女が魔女であることを考慮せず行動した己の失態に変わりない。
故にこの状況に否やはない。ないが、・・・如何せん、落ち着かない。
何せ相手は人外の気配がどれだけ色濃くあっても少女にしか見えないのだ。魔女だろうが姫君だろうが、同世代の異性を抱いて移動するなど、まるで浮かれた、こ、こい・・・こいびと、のようではないか!
せめて視線は合わせまいと足に感覚を集中させたところで彼女の長すぎる黒髪が自分の膝まで垂れ下がり服を軽く擦る度に集中が途切れる。聴覚が研ぎ澄まされすぎている。
それなのに無精なのか気にならないのか髪すさびもやめたらしく彼女は頓着しない。
その度に断って髪を魔女の肩に掛け直し、時には組ませた手の間に挟ませたり、それでも落ちて来た時にはとうとう盛服に下がる釦の留め紐を千切り娘の髪を毛先の近くで纏めて結んでしまった。
流石に強引だったかと思うが、娘は抵抗せずむしろ興味深そうにその始終を見ているようだったし、留め紐はどうせ此処に来る時しか羽織らない儀礼用のものだ、構うまい。
これで少しは自分が落ち着けるといいのだが。髪が極上の手触りでこちらの手が震えてしまったことを悟られていなければいいのだが。
「器用ね、坊や」
此方の思惑とは裏腹に、自分のほうがよほど小娘らしい娘は機嫌よさげに呟いている。
黒髪に2種類の銀糸が使われた紐は良く映える。
仕上げに結った髪の先を彼女に持たせると、魔女は目を盛んに瞬いては「なかなかいいわ。うん、なかなか」と紐を解かない程度に弄びはじめた。明らかに髪ではなく紐に注目している。
髪は女の命ではないのか。乙女の髪はそれほど大切にしろと養い親が言っていたのだが、あれは偽りだったのか。そう勘ぐるほど、腕のなかの小さな黒色の魔女からは自分の髪に興味が見られない。何せ、飾り紐以下である。
此方は手から滑り落ちていく髪を捕まえるたびに気が気ではなかったのだが、その様子を見ているとこの落ちつかない心地は己だけのものなのだと思われて無暗に虚しくなり、気が抜けた。
雰囲気は神秘めいてはいるし言葉遣いもところどころ厳めしいが、しぐさは案外稚いことがその弛緩を後押しする。
「本当に・・・動物も、花もないんだな」
半ば独り言のつもりだったが、腕の中で魔女が身じろぐ気配がした。
顔を見ない程度に視線を落とすと手がもそもそと動いてはまだ飾り紐を弄んでいる。髪紐ですらないそれを気に入ったようなのはそれとして、解けてしまうので程々にしてほしかった。が、口には出さない。
勿論理由は魔女を徒に刺激しないためである。せっかくの微睡みをこれ以上邪魔するのは無粋と言うものだろうとも。
なので、無言を貫くのは若い娘を抱えてむず痒いが故の気恥ずかしさとは全く関係はない。
関係は、ないと胸中で繰り返した。
「そう。この閉じた森にあるのは、呪われの雪とそれを癒す木々だけ」
静かでゆったりとした声で語られた韻を踏んだ文言は、この森の顛末を語る寓話の一説だった。
自分がこの役目を受けた後、この儀式の先代であり師でもある騎士団長から密やかに言い含められた、お伽じみたもの。
広く流布されたものとは違う結末に驚きはしたが、そのことが殊更語り手により顛末を変える御伽らしいと思ったものだ。
それよりもありふれた物語であるはずのそれを自分に聞かせる表情が切なげに歪み、何かを耐えるような師の表情こそが頭に残っていた。
「命は存在せず、呪い故に国の名前も冠されず、雪の為に閉じた森……
誇張ではないのだな。
此処に足を踏み入れたのは黄昏時だったのに」
「結界を張ったのだから何も外には出ないわ。呪いも、霧も、時間もね。
永遠が経ったのかもしれない。一瞬も過ぎてはいないのかもしれない。
全ては憐れなる命のみぞ知るといったところかしら?
まったく、退屈な場所。眠るくらいしかすることがないのだもの……ふぁ」
言い終えるや否や魔女は手を口に当てて小さく欠伸をして、白い吐息が指の隙間を僅かに温めていく。やはり、随分と雰囲気や寓話にそぐわない幼い仕草である。
いや、纏う空気も言動も容姿も、全てが己の知る常識とはずれている。
この場所の時間の流れが違うこともこの目で確かめてしまった。
彼女は確かに人ではないのだろう。
納得は出来なくても理解は出来る。
しかし。
この儀式を前に20になったばかりの己よりずっと、それこそ10代も半ばの娘のように映ってしまうと、どうも調子が狂って仕方がない。
要らぬ世話を焼いてしまわぬかと、今から困り果てた。
「……だから、あんな場所で眠っていたのか?人の気配に気づかないほどに?」
魔女は此方を少し観察するように見やった後でぽつりと言う。
所々節が途切れるのは眠気をかみ殺しているのだろう。
「呪いは…魔女にはスパイスの…1でしかない。……心地よい、安眠、効果を…齎すだけ……なのだわ」
「そうか」
「冗談、よ。あんな陰気な、白より・・・騎士殿の腕のゆりかごの方が、余程……眠り甲斐があるに、決まって、いる……わ」
「そうか。……では、もうああやって眠るのは止めてほしい」
一度揺するように抱えなおす。
腕の中で大人しい黒髪の娘は酷く軽いが、苦笑を噛んだその代わりのつもりで。
この程度の意趣返しは許してほしい。
筆頭騎士となったのは今年とは言え、正式な叙勲を受けてはや数年、今だ長き人生とはいえずとも、半生を剣と共にしてきた。
今や呪われ隔絶されたこの国では危難や悲劇もそう訪れない。
ましてや、雪に身を投げ出して眠る娘の図などお目にかかれば鼓動も跳ねるというものだ。
まるで唐突に現れたような彼女が眠るのを見たときは、本当に肝が冷えた。
「…………騎士殿、発言はよく考えてするのが賢明と老婆心から忠告させて頂くわ。
特に今のは言質を呪いにも転じてみせる魔女相手には命取りになりかねない言葉ね」
あやすように揺らしたのが気づかれたのだろうか。
先ほどまで微睡みに揺蕩っていた声が硬質なものに変わったのが解る。
どうやら、機嫌を損ねてしまったようだ。黒髪をかきあげてこちらを睨めつけた瞳は鋭く、それなのにその瞳の色に見とれてしまいそうになる。
まるでスイッチを切り替えたかのように容易く機嫌が変わる娘だ。
せめてそうと解るように表情も変えて欲しいものだが、魔女というのはみなこう無表情なのだろうか。
それとも怒っているから無表情なのだろうか。
元より女心に疎い己には何が彼女の気分を害したのか全く見当がつかないので謝ることが出来なかった。
なので、数秒前の会話を思い起こしては何の問題もないと再確認して口を開く。
「己の発言には責任を取るよう厳しく躾けられている。問題ない」
「……。
わかった。今の発言、私は何も聞かなかったことにしておいてあげる。
これで揺り篭の貸し借りは無し。
私はこれからもスパイスと眠る」
だからそれはこちらの心臓に悪いからやめろというのになぜか発生していたらしい貸し借りがそれをなかったことにすることで清算されてしまった。
不満と困惑が顔に出ていたのか、魔女は今度こそ、ため息を吐く。
何を言いたいのかはわからないが、と言う言葉は先ほどの欠伸より冷えた白色となって空へ登っていく。
「私は魔女だから、それは無駄な世話よ」
どうやら呆れられてしまったようだ。
次いで、此方が何かを返す前に鎖骨のあたりを馬にするように軽くたたかれた。
「此処でいい」
「平気か」
「此処でいい」
「……承知した」
積もっていた雪を足で払ってからそこにゆっくりと魔女を降ろす。
黒く長い髪がふわりと揺れて、その時にも、柑橘系だろうか?最初も感じた爽やかな香りがした。
瞬間、心臓の奥が痺れる錯覚に襲われる。先ほどより酷い。
――――そう、此処は
呪い雪の森には似つかわしくない、何処かで覚えのある香り。
それを、自分は、知って――――――
「―――士殿!」
意識が遠ざかっていると解ったのは、それを切り裂く声が遠くでしたからだ。
娘の声。
自分を呼んでいるそれは何かに急いたような色をしていたのですぐに答えようとした。
声が上手く出なかった。
「ぁ……すまない、何か……」
「何か、ではないでしょう。顔色が悪い。
人を降ろした途端、急に膝をついて苦しげにされては声もかけるわ。
……持病でもあるの」
視界を揺れ落ちる雪が髪や肌に触れるたびに焼けつくような熱さを感じる。粘ついた何かが自分の裡に入ってくる感覚。
それに呼応するように心臓の動悸が激しくなった。
思わず胸倉を掴む。膝と共に足元の雪に触れている方の手が熱くて離したいのに動かない。その手は自分のものでは無いような錯覚を覚える。いいや、まるで手が根のように、この広がる雪を、吸い込むような。
それを振り切るように声を絞り出した。
「……心臓、が。痛んだような、気がして」
「心臓が!?それで何が平気だというの、騎士殿はやはり少々抜けている。
耐えていたの?なぜそれを早く言わないの。この森でこれ以上の人死にを作るわけにはいかないのに。
……雪の影響?剣の魔法はちゃんと働いているのに…」
動かなかった方の手を取られる。白い指が空中を遊んだかと思うと、視線が少し浮き上がったのが解る。
手の熱さは薄れ、動かすことができるようになったことに驚くと、雪を避ける魔法をかけたと教えられた。念のため、剣を抱いていろとも。
両腕に抱えたその剣からは、燐光と共にわずかに温度を感じられた。
「ああ、・・・少し、楽に、なった」
黒髪の娘は苛立たしげに足元の雪を払い、何かを呟き始めたかと思うと、次は恐らくこちらに向けての不平が聞こえてくる。騎士殿、と聞こえた方に意識をつなぎ直した。
「騎士殿は私を疲弊させて何が楽しいのかしら?なかなか魔女に敵う悪趣味をしているようで幸先も安心だけれど、時と場を弁えて頂かなくては困るわね。お役目の最初からこれ以上の失態を演じるつもりかしら!」
返す言葉もない。