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1度だけ、奇跡のように(1)

「1度だけ、奇跡のように想いのままに願いを叶えてあげようか」

               ――――深い海に棲む魔女の常套句



鬱蒼とした森の奥、開けた場所まで進むまでは順調だった。

一際大きな黒い幹の痩せた大樹、かつては神木であったというそれの傍に目当ての石碑が見つけられたからだ。


所在も知れぬ魔女に礼を捧げ、剣を地面に突き立てて契約を宣誓し、呆気なくも恙なく、形骸と化した儀式は終わるはずだった。

皮肉なものだ。かつて此処が聖域であったことを証明するのは雪すら暗く淀んだ森の中で唯一穢れを弾いているように輝くこの石碑だけ。

それすらもところどころ欠けたりくすんでいるのは呪いの影響だろうか。

改めて腰に佩いた剣を確かめる。

妙な感覚が消えないのは柄にもなく緊張しているのだろうか、それとも呪いに呼ばれでもしているのだろうか、と妙なことを勘繰ってしまう程度にはこの森は寒く、昏い。

さっさと出ようと踵を返そうと目線をあげた瞬間、視界に鮮烈な黒が走った。


夜が形になったのかと思った。それは糸のように長く、花弁のように散っていた。

それを雪が隠すかのように斑を作っている。


いや、違う。あれは、髪。

雪に沈む、長く黒い髪だ。伸びているのは蔦ではない、雪よりは淡く色づくむき出しの肌だ。


娘が、石碑の向こうに倒れ付していた。

そう頭が認識するよりも早く、足が動いた。


―――鼻先を掠める、この香り。


「っ!?」


遅れて鼓動がぶれたように大きな音を立てた。

まるで戦の前のような、痛ましい事件を目の当たりにしたような、探していたものを忘れたころに見つけたような、綯い交ぜの惑乱。

それが不快で、焦燥に駆られ、意識が蠢いた。それを殺すように態と足音を立てて近づいた。

正体は娘のようだ。何故ここに娘が?魔女はこれも見ているのか?どうやってこの森へ?

いいや、落ち着け、意識を乱すな。まずは生死確認……息はある。気絶しているだけか?

否、そんなことは今はどうでもいい。魔力耐性の依代を持たない者にこの森の雪は毒でしかないらしいのだ。

手に携えていた依代の剣を娘の手に括り付け、自身も出口までその恩恵が保つように上から包んだ。

早く森を出て、清めさせなければ・・・。

抱きかかえて足早に歩を進めていると、おもむろに雪をかき分ける足音以外の音が響く。

静かで低く、澄んで冷たいその音は、己の腕の中で眠っていた少女から発せられていた。自由なほうの手を使い、後ろ髪を一房、弄びながら。

いつの間に起きていたのだろう。


「まだ雪は、やまないのだけれど」


誰にも似ていない、声だと思った。

目線が動く。無意識に、その音を探る所作を取ってしまう。


命も儚いように閉じられていた瞼は今や開かれ、この森と同じ闇色の瞳が此方を見ていた。長い睫が蝶の羽搏きのように上下する。

同じ色の髪はこの夜より冴えて視界の端で雪の白を反射してか輝いている。

背に回した手のひらに伝わり歩く度にくすぐる紗は彼女の髪かもしれないと思うと、甲の筋が強張った。

白い肌は陶器のようで、唇すら淡い花のようだ。

精巧な人形のようだと思ったのはその面におよそ表情と呼べるものが浮かんでいなかったからかもしれない。

だが彼女は喋った。この声すら彼女以外に与えられはしないだろう。

彼女は動いた。今も髪を指ではじいたり巻き付けたりを繰り返している。

故に彼女は生きている。そして、人間とは思えないほど美しい。

視線が交錯したのは数瞬だっただろう。目をそらしたのは自分だ。

とても目を合わせることが出来ない。

美形は見慣れたはずだったが、なんて心臓に悪い容姿の娘だろう。

いいや、これは、美しいと形容するには妖しく、恐ろしいと忌むには無垢すぎる。

何処か歪んだ印象は、それぞれが絵の中の登場人物のようだ。

その全ての違和感が、彼女が人以外の何かだと示していた。


いつまでも呆けている相手に答えを待つのをやめたのか、娘は視線を空に寄越し、

「……うん、まだやまない」と頷いてから小首を傾げる。


「宣誓は?まだ聞いていない。緊張して忘れたかしら? 坊や」


嘲るような言葉ほどの温度を持たず、表情を動かさないまま続いたその声でようやっと、この娘が何かの間違いで森に迷い込んだ娘ではなく、墓守たる魔女だと気付く体たらく。

何処か頭の芯が痺れた様に鈍間になっている自覚はある。


胸中に訪れたのは慚愧や謝意の念でもなければ驚きや怒りでもなかった。


その髪、その瞳、その声。己の意識を揺るがす色。その存在。

そしてなにより、今は消えてしまったが、彼女を視界に認めた時に馨った、その香り。


――――逢えた。


また鼓動がぶれる。知らない声のような自分の声。

逢えた?そう思ったのは何故だ?自分と彼女は初対面だ。

否、先代からその存在を聞いてはいたのだから、そう思うのは別段おかしなことでもないかもしれない。

だが、それがここまで動揺を呼ぶだろうか?自分はそこまで、この森の魔女に会いたかったわけでもないはずだ。むしろ目にすることは無いだろうと高を括ってもいた。


――――逢えた。彼女だ。この香り。この場所で。忘れるはずもない、この魔女を。


先ほど殺したはずの惑乱の残滓だろうか、それはまた胸の奥で蠢いては、微かな頭痛を伴って自分を苛む。

腕の中の小さな魔女は無言で歩を進める男に何を思ったか、先ほどよりは早口で「別に、宣誓なんて要らないけれど。ねえ、どこにいくつもり?」と尋ねてくる。

その声には今までより少女じみた温度があった。


その言葉が機会であったように、足がようやく止まる。

今まで歩いていたのかと気付きもしなかった。わけのわからない己の声も止む。


そうしてまだ自分を取り戻さないままに初めて口にしたのは己の名前でも宣誓を蔑ろにしたことの謝罪でもない、


「……あなたが望むところに」


という、なんとも呪いの森には不似合いで反射的な棒読みの、軟派の常套文句だった。


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