イブの妄想 シュチニクリン
「イブの妄想」は、「小説家になろう」のほうで連載していたもので、短編のほうはそのシリーズの続編になります。登場人物の詳しい関係は、本編の第一話を読んでいただけたらわかりやすいかと思います。みんなからイブと呼ばれて愛されている高校二年生の相田伊吹君は、たくさんの友人たちに囲まれて、なぜだかいつもまわりを大変なめにあわせるというお話しです。
「それじゃあ、イブちゃん。ママは行きますからね」
「うん。ママ。いってらっしゃい。パパによろしくね」
宝子≪ほうこ≫は、何度言ったかわからない言葉をまた繰り返した。伊吹はリビングのソファに寝転がって、テレビを見ながら上の空で返事をする。クッキーをぼりぼり食べているから、ソファにも床にもかすが雪のように降り積もっていく。
「イブちゃん。ちゃんと起きて食べなさい。クッキーのかすがいっぱいじゃないの。ほんとうに、もう」
我慢できなくなった宝子が、リビングに戻ってきて伊吹の手からクッキーを取り上げた。
「あ、食べてるのに!」
「イブちゃん! ほんとにママ、行きますからね。ちゃんとお留守番してるのよ」
これも、何度も言ったせりふだ。ダイニングのテーブルに頬杖をついて眺めていた万作は、壁の時計に目をはしらせて立ち上がった。
「宝子さん。そろそろ行かないと。新幹線に遅れるよ」
「ええ。そうなんだけど……」
ぐずぐずしている宝子を置いて、万作は宝子のキャリーケースを持って玄関に行った。外では、東京駅まで送っていくために車の中で鈴木さんがスタンバイしている。あしたの日曜日は貢≪みつぐ≫の部下の結婚式で、宝子と貢は仲人をすることになっていた。宝子はきょう新幹線で新潟に行き、月曜日に帰ってくる予定になっていた。たった二晩家を空けるだけなのに、出かける直前になってもできの悪い息子が気になってしかたがないらしい。宝子はようやく後ろ髪を引かれる思いで伊吹に背を向けた。宝子の姿が廊下に消えたとたん、伊吹の背中がしゃきっと伸びた。目がらんらんと光りだす。
――前回は、ママが家出したと思って、大盤振る舞いのどんちゃん騒ぎをして天国にいるみたいに楽しかったのに、ママが帰ってきたら、ものすごい地獄に突き落とされてがっかりしたよ。
でも、今度こそがっつり大食いパーティーを開いてやるぞ。こんどは二晩続けて友達を呼んで、泊りがけでシュチニクリンだ!
真田に土方に夏目に保藻田に芸田に釜田にチロルちゃんだろ。それと、気に入らないけど鼻くそブタもよぼう。いやいや、めんどうだから鼻くそはよぶのをやめよう。万札といちゃいちゃされたらむかつくからね。そうだ、バーバと太郎と花子もよばなきゃ。それと、どすこい山田先生もよぼうかな。どすこい山田先生が本気を出して食べたら、いったいどのくらいたべるのか、見てみたいな。ついでだから、どすこい山田先生の奥さんと子供たちもよぼうかな。あの一家は全員デブだから、地球の全食料の半分を食べつくすかもしれない。出前はピザ屋に寿司屋に蕎麦屋にラーメン屋に鰻も忘れちゃだめだよね。あと、二丁目のデリバリー屋からイタリアンでしょ、三丁目のデリバリー屋は中華料理で、四丁目のデリバリー屋はスイーツがおいしいんだよねえ。すごい量になりそうだな。わくわくしてきたぞ。電話するだけでも忙しくなりそうだ――。
廊下にいた宝子の足がぴたりと止まった。耳がぴくぴく動いている。目は見開かれ、肩はわなわな震えだした。
「イブちゃん! ママと一緒に行きましょう。ママと一緒にパパのところに行きましょう。ね!」
玄関で宝子を待っていた万作は、驚いて声を上げそうになった。
「いやだよママ。ママ一人で行ってよ。ぼくはお留守番してるよ」
伊吹が言い返した。
「いいえ、パパのところに行きましょう。イブちゃんだってパパに会いたいでしょ。向こうは日本海があるからお魚がおいしいのよ。日本海のお魚は、太平洋のお魚とちがってすごく頭がよくでお顔もかわいいのよ。人懐こいから、すぐに懐いてポニョニョみたいにイブちゃん大好きって、女の子に変身してお友達になってくれるのよ。だから一緒に行きましょ」
宝子がめちゃくちゃな出鱈目を言い出した。
「行かない! パパなんか忘れちゃったし、日本海のお魚にも興味ないもん。ぼくはお家でシュチニクリンするんだ!」
宝子がよろめいた。
「イブちゃん。酒池肉林って、どういう意味だか知ってるの」
「知ってるよ。お酒の池で泳いだあと、木が肉でできている林に放火して、ちょうどいい焼け加減のお肉を食べながら、友だちとどんちゃん騒ぎのパーティーをすることでしょ」
「パパのところに行きましょ。そのままでいいから、行きましょ」
「やだ! ぼくはお家でシュチニクリンする」
「宝子さん。もう行かないと」
万作がしびれをきらせた。
「イブちゃん! いうことをききなさい。そんなに酒池肉林がしたかったら、パパのところでしましょ」
「いやだ! パパのところには真田も土方も夏目も保藻田も芸田も釜田もチロルちゃんもいないし、鼻くそもバーバも太郎も花子もいないじゃないか。パパとママの三人でシュチニクリンしたって楽しくないよ」
「万作さんがいるじゃないの。万作さんがいればいいでしょ?」
「え? おれですか?」
いきなり名前が出てきたので万作は驚いた。
「万作さんもいきましょう。ね。イブちゃんと一緒に」
「いやあ、でも、おれは」
「ね、行きましょ。万作さんが一緒ならイブちゃんだって行くっていうから。ね」
「いやあ、しかし、それは」
尻込みする万作の腕を、宝子はしっかり掴んで伊吹に詰め寄った。
「万作さんも行くし、学校のお友達もよんでいいから。もちろんチロルちゃんもおばあちゃまたちもよびましょう。それならいいでしょ」
「宝子さん。それじゃあイブを置いていくのも連れて行くのもおんなじじゃないか」
「あ! そうね。そうよね」
万作に言われて宝子は慌てた。
「じゃあ、こうしましょ。ママは行くのをやめます。そうすれば、イブちゃんの酒池肉林も中止になるでしょ」
万作は頭を抱えた。
「宝子さん。それじゃあ貢さんが困るだろ。一人で仲人の席に座らせるのか?」
「パパなんかどうでもいいわ。イブちゃんの酒池肉林のほうが大問題よ」
「いや、ちがうだろ。貢さんも困るけど、仲人をたのんだ新郎新婦の晴れの門出がだいなしじゃないか」
「人の幸せのために、我が家の家計を大量浪費させるわけには行きません。先日の支払いだけでどれだけかかったか!」
「ハジメちゃんのパパと本田さんのお父さんが払うっていったのに、ママが払うっていってきかなかったんじゃないか!」
伊吹がよけいな口出しをしたものだから、宝子の癇癪が爆発した。
「よそ様にお金を出させるわけにはいかないでしょ。みっともない! それもこれもイブちゃんのせいよ! あんなに大勢の人がいる前で、三年ぶりのごちそうだとか、ナスを焼いて鰻のたれをかけて鰻丼だとごまかすだとか、ママの作ったお寿司はおにぎりみたいな握り寿司だとか、ママのこれまでの人生をかけた愛情が、おおぜいの人様の前で大笑いされたのよ。死ぬほど恥ずかしかったわ。そんなママの気も知らないで、なんて情けない子なの!」
「ううわああああああーんん!」
伊吹が大口をあけて泣きだした。
「万札うー! ぼくって、情けない子供なの? ぼくは本物の鰻が食べたかっただけなんだ。本物のお寿司も食べたかっただけなのにぃー!」
万作ははっとした。伊吹の願いは、そんなに大それた願いなのだろうかと気がついたのだ。宝子があまりにも怒るので、伊吹のしでかしたことはやりすぎだと思っていたが、伊吹の気持ちになってみれば、三年ぶりの鰻丼にお寿司にLサイズのピザだ。有頂天になって喜ぶのはあたりまえだ。それがそんなに大それた望みなのだろうか。ささやかすぎる庶民の贅沢ではないか。万作は急に伊吹がいとおしくなった。
「宝子さん。イブのことはおれがみているから、宝子さんは行ってください」
伊吹をかばうように宝子の前に立ちふさがれば、宝子も万作の気持ちを読み取ったように睨み付けてくる。
「万作さん。またイブちゃんを甘やかそうとしたでしょ。万作さんはイブちゃんが泣いて『万札ぅ』っていうと、ころりと参っちゃうのよね。でも、そんなことでは、イブちゃんがまともに育つわけありません。イブちゃんがこんなになってしまったのも、ほんとをいえば、みんな万作さんのせいなんですからね」
万作はぎょっとした。宝子がそんなふうに思っていたとは、今の今まで知らなかった。万作は突然宝子と自分のあいだに巨大な壁が立ちふさがったような気がした。
「言葉を返すようだけど、イブが鰻丼を食べたがったり、寿司やピザを食べたいと思ったのは、そんなにいけないことだったのかな。三年も食べていなかったんだよ。三年も食べていなかったら、食べたいと思うのはあたりまえでしょ。だって、三年だよ。三年も食べていなかったなんて! それを、あんなに怒らなくてもいいじゃないか。あれじゃあ伊吹がかわいそうだ」
「三年を四回も言ったわね、万作さん! それなら何年に一回だったらいいの。何年に一回だったらかわいそうじゃないの。どうしてそんなことを万作さんに言われなくちゃいけないのかしら」
宝子の金切り声が万作の耳を打った。万作は高校二年生の少年だから宝子のプライドや
世間体や見栄がどこにあるかなど知るよしもない。だから、地雷を踏んでしまったことにも気がついていない。驚いている万作を、こんどは伊吹が叱りつけた。
「ダメじゃないか万札! ママはどれだけ安い食材でお金をかけずにごはんをつくるか、
命がけで頑張っているケチンボ主婦なんだぞ! だから万札が、そのくらいの贅沢なんて言っちゃいけないんだ。貧乏人の息子のぼくが言うならいいけど、万札が言ったら嫌味になるだろ。だって万札は、ぼくたちとちがって大金持ちなんだから、いつだってごちそうが食べられるんだからさ」
「イブ! おまえまで」
伊吹の思いがけない反撃に、万作は顔色を変えた。伊吹とその家族とは、子供の頃から一緒に暮らしてきて、ほんとうの家族だと思っていた。万作の親はたしかに金持ちだが、金持なのは親であって万作ではない。そこをふまえての信頼関係が成り立っていると思っていた。宝子だけでなく、伊吹にも、おまえは自分たちとはちがうのだといわれたようで、
万作はショックを隠せなかった。
「わかりました。長らくお世話になりました。相田家のご厚意に甘えすぎていたようです。きょうからおれは自分の家で暮らします」
「万作さん! そのすねた言い方はなに! わたしは万作さんをそんないじけた子に育てた覚えはありません。イブちゃんならまだしも、万作さんが、そんな子供っぽいことを言うなんて、怒りますよ」
感情的になった宝子が万作に詰め寄れば、伊吹も負けずに万作に詰め寄る。
「万札は腹をたてたら帰れる家があるからいいけど、ぼくなんてバカだのアホだのいいたいほうだい言われても、逃げていくところなんかないんだぞ」
「イブちゃん! いつイブちゃんをバカだのアホだの言いました。だれがそんなことを言ったかいってみなさい。ママが叱ってあげます」
「うわあああああ~ん。みんなそう思っているくせに」
またもや伊吹が泣きだした。
「イブちゃん! いいかげんに泣くのはおよしなさい。もう、うんざり。ママはパパのところに行きますからね。万作さんも子供みたいなまねはやめて、お留守番をお願いしましたからね」
「いや、おれはこの家を出て行きます」
「そうですか。では、すきになさい」
宝子と万作は揃って玄関を出た。宝子は鈴木さんが待っていた車に乗り込み、万作は隣の自宅に向かって歩き出す。裸足で外に飛び出した伊吹は、走り去っていく車に向かって「ママァ!」と叫び、福沢邸に入っていく万作に向かって「まんさつぅ~」と叫んだ。
泣いても叫んでも、二人は右と左に去っていった。一人取り残された伊吹は、さらに激しい泣き声をあげたのだった。
刻々と夕暮れが近づいてきた。大学時代のプチ同窓会に出かけていった一子から電話がかかってきた。
「イブちゃん。わたしだけど」
「あ、一子ちゃん。あのね、万札がね」
「ママは無事に出かけたんでしょ?」
「うん。ママは行っちゃったよ。それでね、万札が」
「なんだか久しぶりに盛り上がっちゃって、由美子のところにみんなで泊まろうっていうことになちゃったのよ。そんなわけで、あした帰るわね。万作さんや二子ちゃんや三子ちゃんがいるからだいじょうぶよね?」
「一子ちゃん! 万札が」
「じゃあ、おりこうでお留守番していてね。あしたの夕方には帰りますからね」
プチンと切れた受話器に、「万札が怒って出て行っちゃったんだよぉ~」と怒鳴っても、電話が切れた一子には聞こえていない。伊吹は「うええええーん」と泣きだした。
また電話がかかってきた。
「イブか。お姉ちゃんだけどさ。今夜はハジメのところに泊まるからさ。ママがいなくても、一子ちゃんと三子と万作がいれば寂しくないよね。じゃあ、お姉ちゃんは、今夜は帰らないからね」
二子の電話が切れる前に「万札がぁー」と叫んだが、「いらっしゃいませー」と営業用の愛想のいい二子の声と共に電話が切れた。うわああああーんと本泣きしだしたら、また電話がかかってきた。
「イブ、姉ちゃんだぞ。姉ちゃんは今からヒッチハイクで沼津まで行ってくるからな。教室のやつらと賭けをしたんだ。沼津までヒッチハイクで行って、メザシの干物を買って帰ってきたら、一ヶ月間昼めしをおごってやるって言うから、ちょっと行ってくるな。一子ちゃんと二子ちゃんと万作がいればだいじょうぶだな? じゃ、イブにもメザシの干物を買ってきてやるからな」
プチンと切れた三子からの電話に、伊吹は声を失った。誰も帰ってこない。この家にたった一人! 伊吹は目を見開いて頭を抱え、大声で叫んでいた。
「万札ううううう! カムバーック!」
いよいよ夕日が西の彼方に陥没して、夜本番になりつつあった。伊吹は泣きながら家中の電気をつけて回った。暗いところなど一箇所もないはずなのに、眩しい家の中の静寂が耳にささりだす。テレビをつけ、ボリュームを上げてみても孤独感はつのるばかりだ。
ママがいない!
「ママァァァー!」
伊吹はますます泣きだした。一子も二子も三子までも帰ってこない。しかも万作まで怒って自宅に帰ってしまった。十三年間、狭い家の中の狭い部屋で、共に育った伊吹と万作は、いつも一緒だった。わが身の半分。わが身そのもの。その万作が、どうしてあれほど怒ったのか、その理由を考えてみることもなく伊吹は万作の不在に動揺した。
それは万作も同じことで、怒りに駆られて福沢の屋敷に帰ってきたものの、広い自室の
ベッドに腰を下ろして、窓から見える相田家の窓の明かりを悲しそうに眺めていた。
あの明かりのなかで、帰ってきた一子が、きようだいのためにキッチンにたって、夕飯を作っているころだ。そろそろ三子も帰ってくるだろう。二子は勤めているブティックが店を閉めてから帰って来るから、九時過ぎになるだろう。宝子がいなくても四人きょうだいだから、けっこうにぎやかだ。
それにひきかえ一人っ子の万作は、広い屋敷の中でただぽつねんとしているしかない。住み込みの家政夫の鈴木さん夫婦は、労働時間が終了すれば、子供のかわりのペットのポメラニアンを中に挟んで家族水入らずで団欒している。父親の金作には頻繁に会っているが、ここしばらく国会議員をしている母親の富にはあっていない。会わなくても、富の姿はテレビで頻繁に見ることができる。少子化が進んで、このままでは税金を払ってくれる人口が減ってしまうことを懸念した政府は、少子化担当大臣というポストをつくって富をその任につけた。更年期の半ばをいさぎよく驀進中の富が、少子化担当大臣になって効果がどれだけあるのだろうかと息子の万作は思うのだが、富は若い母親の子育てと社会進出という目標を掲げて日夜頑張っている。
富のことを思い出して、またもや万作は悲しくなった。ずうたいはでかいが、なんといっても十七歳だ。どんなに宝子がいい母親でも、実の母親に甘えたい時だってある。こんなふうに、だいじに思っている伊吹に傷つけられたときなど、べそをかいてうなだれた頭を撫でてもらいたいと思う。それにしても、伊吹の家の窓のあかりは、なんと明るく暖かいのだろう。あの明かりの中に戻りたいと強く思ったが、万作は唇をかんで強情をはった。
「おう、土方。みょうなところで会うな」
真田は、電車を降りて駅を出たところで、ばったり土方に会った。
「おう、真田か。イブから電話がきたんだよ。泣いてばかりでなに言ってるんだかわかんないから来てみたんだよ」
「おれもだよ。泣くばっかりでよお」
時刻は夜の六時ごろ。ほんとなら夕飯時で腹がいちばん空く時刻だ。駅前にはマクドナルドもあるしケンタッキーもある。ラーメン屋の看板の、大きな写真がすきっ腹に拍車をかける。
「腹減ったなあ」と真田が腹をさすったら、横から声がかかった。
「よお、真田に土方。みょうなところで会うな」
夏目だった。
「なんだ。お前もイブの電話が気になってのこのこ出てきたくちか」
真田が笑いながらそう言ったら、夏目も笑った。
「おまえらもか」
アハハ、と笑っているうちに保藻田と芸田と釜田の三人がやってきた。
「イブのやつ、みんなに電話したんだな」
真田が全員の顔を見回して肩をすくめた。
「とにかく、行こうぜ」
土方が歩き出したので、みんなてんで勝手なことを言いながらぞろぞろとついて行く。駅前を抜けて住宅が建て込んできた道に入ると、戸建ての家は雨戸を閉めているので夜道は暗くなる。中層マンションの窓の明かりがモニュメントのようだ。街灯の明かりが照らす道を歩いていくと、ひときわこんもりとした闇のような広がりが見えてきた。高い塀をめぐらせた福沢邸の暗がりだった。その暗がりの端っこに、灯台のように明るく輝いている小さな二階家の相田家がへばりついていた。
六人は、煌々と灯った明かりに吸い寄せられるように近づいていった。その横を、音もなくロールスロイスが通っていった。
「おい。あの車、チロルじゃないか?」
伊吹の家に泊まったときに、チロルを迎えに来た車を覚えていた夏目が眉を寄せた。
「チロルだと? イブのやつ、チロルにまで電話したのかよ」
チロルが気に入らない真田が大きな声を出した。
「あぶないぞ、こっちに寄れよ」
もう一台車が後ろから来たので土方が真田と夏目を道路際に引っ張った。ロールスロイスが相田家の前に停車すると、さらに後ろから来た車もその後ろに車を止めた。ロールスロスから降りたのはやはりチロルだったが、次の車のクラウンのフロントエンブレムがついた高級車から降りたのは、体格のいい年配の紳士だった。
「あれ? ねえねえ、みんな。あのおじさん、福沢くんのおじさんじゃないかしら」
釜田が手をひらひらさせて紳士を指さす。
「そうかぁ?」
「おれ、福沢のおじさんなんか知らないなあ」
保藻田と芸田がつぶやいた。
「おれも知らないなあ」
「おれも」
「おれも」
真田と土方と夏目もうなずく。一塊になっている六人の脇を、また車が通っていった。今度の車は防弾硝子を使用した公用車だった。乗っているのは、SPにガードされた国会議員少子化担当大臣の福沢富だ。
真っ赤なスーツ姿の富は車から降りると、福沢金作に声をかけた。
「金作さん、あなたもイブちゃんに呼ばれたの?」
「富ちゃんもかい? あんまり泣くのもだから心配になってねえ」
「わたしもなのよ。いま、だいじな懸案の会議中なんだけど、イブちゃんはうちの万ちゃんと違うでしょ。万ちゃんなら放っておけるけど、イブちゃんはそうはいかないもの」
「そうなんだよ。とにかく中に入ろうよ」
連れ立って家の中に入ろうとした富と金作は、門の前にたたずんでこちらを見ていたチロルに目をとめた。チロルの横には執事の野原が寄り添っている。
「やあ、野原君じゃないか」
金作は目を見張って声をかけた。
「福沢金作様、いつも主がお世話になっております」
「どうして君がここに」
金作が驚くと、横から富も笑いかける。
「野原さん。福沢富です。草原先生にはいつもお世話になっております」
野原は恭しく低頭した。
「これは福沢富様。おそれいります。じつは、お嬢様が、こちらの伊吹様のところに行くと申しますので、お連れしたところなのです」
「あら、ではこちらが草原さんのお嬢様ですか。たしか、チロルさんとおっしゃいましたか。イブちゃんのお友達?」
「#$)==~’’’PIPOPA」
門の前で一塊になって立ち話をしているところに合流した真田たちは、かるく頭を下げて家の中に入ろうとした。
「きみきみ、きみたちはイブ君の友達かね」
金作が呼び止める。
「はい。おれたち、イブの親友です」
真田が代表して答えた。なぜだか土方や夏目ばかりでなく、保藻田や芸田、釜田も胸を張る。そこへ誠実キツ子が太郎と花子を連れてやってきた。
「おやおや、みなさん。みなさんがたも伊吹ちゃんに泣かれてやってきたんですか。こちらの旦那さんと奥さんはご近所の方ですか」
キツ子は金作と富夫妻に軽く会釈した。金作がにこやかにキツ子に顔を向ける。
「私どもは万作の両親ですが、あなたはどなたですかな?」
「まあまあ、万作ちゃんのお父さんとお母さんですか。わたしは誠実キツ子です。伊吹ちゃんのご一家とは親しくしておりましてね、きょうは宝子さんが旦那さんのところに泊りがけで出かけて留守なので、伊吹ちゃんが寂しくて泣いているんだと思って、孫たちを連れてやってきたんですよ」
「まあ、では、宝子さんはいないんですか」
富が驚いた。
「ええ。なんでも旦那さんが仲人を頼まれたとかで、新潟に行っているんですよ。でも、一子ちゃんたちがいるし、万作ちゃんもいるはずなんですがねえ。こんなところで立ち話もなんですから、とにかく中に入りましょう」
世慣れたキツ子に促されて、全員ぞろぞろ家の中に入っていく。太郎と花子がいち早くあがりこんで、リビングで大泣きしている伊吹に両側からしがみついた。
「イブちゃん! 泣かないで。太郎がきてあげたよ」
「イブちゃん! 泣かないで。花子もきてあげたよ」
「うわああああんん。太郎と花子ぉ。ぼくは一人ぼっちなんだよおおお」
チロルが走りこんできて、太郎と花子から伊吹をもぎ放して、ハンカチを出して鼻水だらけの伊吹の顔をかいがいしく拭きだした。それを見て、猛然とライバル意識を発揮したのは保藻田と芸田と釜田だ。チロルをうっちゃって三人がかりで伊吹をあやしはじめる。
「イブちゃん。おれが来たからもうだいじょうぶだぞ」
「イブちゃん。おれの胸で泣いていいよ」
「イブちゃん。いい子いい子だから、泣くのはやめて、お姉さんとオママゴトして遊びましょう」
チロルが体当たりして三人を跳ね飛ばす。転がった保藻田と芸田と釜田は、すぐさま立ち上がって団子になってチロルに飛び掛っていった。すると、どこから沸いてきたのか、制服姿のチロルの護衛男子高校生たちが保藻田たちに突入していった。チロルを護衛するために編成された男子高校生たちは、ここぞとばかりに張り切った。しかし、保藻田は身体能力の発達したバレー部のカリスマキャプテンだし、芸田は身体能力の発達したテニス部のレジェントとよばれているキャプテンだ。釜田は牛若丸の生まれ変わりのような身軽さだから、チロルの護衛男子高校生たちに引けを取らない。とたんにリビングは戦場のようになった。
「どたばたうるさい連中だな。土方、チロルをつまみ出せよ。あいつがいるからめんどうなんだ」
チロルが気に入らない真田が、めんどう事を土方に押し付けた。
「おれは女子には優しいんだよ。そんなことできるか」
「それを近藤勇子さんの前で言ってみろよ」
夏目が土方をからかいだして、ケータイを出してメールを打ち始めた。
「まさか近藤勇子さんにメールするんじゃないだろな」
青くなった土方が夏目に跳びかかっていく。
「万作ちゃんのお父さんとお母さん。それに野原さんでしたっけ。うるさい家ですけど、
どうぞこちらに座ってくださいな。いま、お茶を入れますからね」
キツ子が、勝手知ったるキッチンで、お茶の支度を始めた。金作と富と野原は、キッチンのダイニングテーブルのほうに腰を落ち着けて、リビングでの乱闘を眺めた。
「いまどきの高校生は、ネットやスマホばかりして体を動かさないというが、どうしてどうして、元気じゃないか」
金作が、キツ子のいれてくれたお茶を飲みながらのんびり言えば、富も、「うちの万ちゃんはどこへ行ったのかしら。姿がみえないけど」と、お茶をすする。伊吹は太郎と花子とチロルにへばりつかれて、よろよろと大人たちのテーブルにやってきた。金作と富のあいだに割り込んで、涙と鼻水だらけの汚い顔で金作と富の服を掴む。
「万札のおじさんとおばさん! お腹が空いたよお! ママも一子ちゃんも二子ちゃんも三子ちゃんも、よそにお泊まりで帰ってこないし、万札は怒ってこの家から出ていちゃったんだ」
「あら珍しいこと。うちの万ちゃんとけんかでもしたの」
「ぼくが、鰻とピザとお寿司を食べたいっていったら、ママが怒ったんだ。そしたら万札がママに言い返して、そしたらこんどはママが万札に腹を立ててパパのところに行っちゃって、万札のほうもママに腹を立ててこの家を出て行きますって、出て行っちゃったんだよ。ぼくはお腹がペコペコで死にそうだよお!」
「なんだかよくわからんが、ようするに家族のけんかの原因は食い物ということなんだな?」
金作が確認するように富と顔を見合わせる。富がうなずいた。
「そんなことなら、金作さん。出前を取りましょうよ。こんなことでもなければ、なかなか金作さんとも会えないから、今夜は一緒にみんなでごはんを食べましょう」
「そうだな。富ちゃんの顔をみたのもひさしぶりだ。磯子のプリントホテルのパーティーいらいだからね」
久方ぶりの夫婦の語らいが始まったが、伊吹は「ごはんを食べましょう」という言葉にパキンと反応した。
「ごはん! ごはん! 鰻にLサイズのピサに特上のお寿司!」
チロルの屋敷の執事がおもむろに口を挟んできた。
「よろしかたら、いつもうちのお嬢様がお世話になっているお礼に、私どもに手配をさせていただけないでしょうか」
「いや、それには及びませんよ」
「そうですとも。野原さん。今夜は、わたくしたちが」
いやいや、まあまあ、というやり取りの隙に、チロルがものすごいスピードでメールを打って、両親に一流ホテルのレストランや銀座の老舗の鮨屋や石窯焼きのピザを伊吹の家に配達するように頼んでいた。
リビングで乱闘していた青少年の集団は、ようやく気がすんだようで、襟元をひろげて風を送りながら思い思いに座り込んでいる。メールをすませたチロルが、気を利かせて冷蔵庫の飲み物を青少年たちにかいがいしく配り始めた。太郎と花子も手伝わされて、なかなかいい雰囲気だ。チロルの護衛男子高校生は、はじめて使命を達成した喜びで、ニコニコしながら真田や保藻田たちと談笑している。
宝子のエプロンを見つけたチロルが、エプロンをきりりと締めて、濡れタオルで伊吹の汚い顔をいそいそ拭き始めたら夏目がいやな顔をしたが、もうけんかをする元気は残っていないようだ。
「腹減ったよ」
真田が情けない声をだせば、土方と夏目も腹をさする。そうしているうちに、外が騒がしくなってきた。車の音がしたとおもったら、シェフの格好をした一団がぞろぞろ入ってきて、リビングの青少年たちを押しのけ、ソファなども部屋の隅に寄せて、折りたたみテーブルを広げ、真っ白なテーブルクロスを広げた。そこに次々とフランス料理を並べだす。すると、すし屋の格好をした鮨職人がぞろぞろ入ってきて、握りずしの材料を並べ始めて鮨を握り始めた。石釜で焼いたいい匂いのするピザが届くと、伊吹の興奮はピークに達した。
「あとは鰻だ!」
伊吹は叫んだ。老舗の鰻屋の半纏を着た亭主が、桶に生きた鰻を入れて入ってきた。
「台所をお借りします」と挨拶して、一枚板の立派なまな板を置き、鰻をさばき始めた。
「さあ、こどもたち、いただきなさい」
富が声をかけたら、青少年たちはいっせいに皿を掴んでみごとな料理に群がった。伊吹は出遅れて金切り声を出して頭から突っ込んでいく。
「いやあ、若いっていうのはすごいものですなあ」
「まったくでございます。うちのお嬢様も生き生きとして楽しそうで、こんなお嬢様を拝見できるとは感激です」
金作が感に堪えないような声を出せば野原も感無量にこたえる。
「これこれ、太郎に花子。ゆっくり食べるんだよ」
伊吹に負けずに食べ物をほおばっている太郎と花子に声をかけたのはキツ子だ。
「それにしても、うちの万ちゃんはいつまですねているのかしらね」
さすがに富は万作の母親だ。にぎやかな食事の場にわが子がいないのを気にし始めた。
そのころ、隣家の福沢邸の二階では、万作が窓から身を乗り出して相田家を眺めていた。
外が騒がしくなったと思ったら、車が三台相田家の前に横付けされて、首を伸ばしてみていると、降りてきたのはなんとチロルと万作の両親ではないか。目玉が飛び出るほど驚いた。父親の金作はニューヨークに本社があるIT関係の会社を買収するために先週から渡米していて、きょう帰ってくる予定ではいたが、まさか成田空港から直接やって来たのだろうか。それに、母親の富も、介護保険の枠組みの変更の審議で会議室に缶詰のはずだ。分刻みのスケジュールで動いている両親は、万作がインフルエンザで熱をだそうが、担任の先生との保護者面談だろうが、万作一人では困ってしまうという状況のときでも来てくれたためしがない。
「それなのに、イブのやつ」
きっとだれかれかまわず伊吹は電話しまくったのだろう。その証拠に真田と土方と夏目がおっとりやってきて、保藻田も来たし芸田も釜田もいた。歯軋りしていると、のこのこキツ子と太郎と花子もやってきたではないか。みんな和気藹々、おしゃべりしながら家の中に入っていく。煌々と明るかった相田家の明かりが、おおぜいの客のせいで打ち上げ花火のように明るさを増したように見えた。伊吹の泣き声が聞こえないかと思って耳をそばだてていたのだが、泣き声どころか、にぎやかな笑い声が家の外まであふれてきた。そうしているうちに、有名ホテルのロゴの入ったライトバンが着き、シェフの格好をした男たちが料理を台車に載せて運び込みだした。相田家の前の道路には、駐車禁止にもかかわらず何台もの車が並び、いつのまにか警察官が道路を封鎖して、やってきた車を迂回させている。家の周りにも警察官がおおぜい配備されていて警戒している。鮨屋の車が、一時停車させられて尋問を受け、SPと連絡を取った警察官に通行を許可されてようやく相田家の前に車を横付けすることができた。窯焼きピザの配達員も尋問を受けてピザを収納している保温ボックスの中を点検されてから通された。最後に来たのは鰻屋だ。
これだけの豪勢なデリバリーを宝子が見たら気を失っていただろう。しかし、こんどは宝子が帰ってこないから、伊吹の夢のごちそうは天国から地獄に突き落とされずにすむ。
いまごろ伊吹は気が狂ったように大騒ぎをしてごちそうを貪り食っているだろう。万作はすきっ腹をさすりながらべそをかいた。
「腹減ったなあ」
おもわず情けない呟きがもれる。そのとき、二階の三子の部屋の窓ががらりと開いた。
三子の部屋と万作の部屋の窓は、真正面に向かい合っていて、距離も大きな声を出さなくても普通に聞こえる近さだ。だから、窓から顔を出した真田の顔もよく見えた。
「福沢。食い物のことでイブとけんかしたんだってな」
ニヤニヤ笑っている真田に言い返そうとしたら、真田の横に土方が顔を出した。
「福沢。食い物のことでけんかなんかするなよ」
土方も笑っている。万作は悔しくて言い返そうとしたら土方の横に夏目が顔をだした。
「福沢。飯ぐらいでけんかするなんて、おまえは幼稚園児かよ」
アハハ、と三人に笑われて万作は吠えそうになった。その目の前で窓がぴしゃんと閉まった。万作はがっくり肩を落とした。
「あいつら、おれをからかうだけで、こっちに来いとは言わなかった」
悔しいやら寂しいやらで、万作は落ち込んだ。また三子の部屋の窓が開いた。こんどは保藻田と芸田と釜田だった。
「福沢。おまえ、晩めしまだなんだろ?」
保藻田がそんなことをいうものだから、万作は思わず窓に身を乗り出した。すると芸田も横で口を開く。
「福沢。なんだったら、そっちにめしを持っていこうか?」
芸田の言い草にカチンと来たら、今度は釜田が何か言った。
「福沢さん。食べ物のことでイブちゃんとけんかしたんじゃ、ごはんなんかいらないわよね」
そんな憎らしいことを言う。おれだって腹が減ってるんだぞ! と言おうとしたら、ぴしゃんと窓が閉まった。ぐう、と腹の虫が泣いた。また窓が開いて、こんどはキツ子と太郎と花子が顔を出した。
「万作ちゃん。お父さんとお母さんが来ているよ」
「万作おにいちゃん。ごちそうがいっぱいだよ」
「万作おにいちゃん。こんやは花子たちは泊まっていくんだよ」
三人は言うだけ言ってぴしゃんと窓を閉じた。なんで、だれも、こっちに来いといってくれないのだろう。万作は泣きたくなった。また窓が開いた。チロルだ。
「#&&=%~¥。PURIPURIPIKIN」
窓がぴしゃんと閉じた。
「だからチロル。なに言っているのかわかんないんだよ」
うなだれてつぶやく声に力はない。また窓が開いたので、こんどは誰だろうと顔を上げると、金作と富だった。
「万作。いつまですねているんだ。大人気ないぞ。食べ物で不自由させたことはないはずだぞ。それなのに食い物の取り合いでイブくんとけんかするなんて、おまえはいつからイブくんなみになったんだ」
「そうよ、万ちゃん。万ちゃんは大きいんだから、小さいイブちゃんの食べるぶんを横取りしたら、イブやんが大きくなれないじゃないの。あんな小さな子をいじめて。そこで反省していなさい」
窓がぴしゃんと閉じた。唖然と口をあけていた万作の目に、みるみる涙が盛り上がる。
「なんだよ。お父さんとお母さんまで。なんでおれだけが悪者になるんだよ。くそ。イブのやつ」
ポロリと涙がこぼれた。悔しいし、悲しいし、腹はたつし、ますます腹もすいてくる。
最後に伊吹が顔を出すかと待っていたが、家から楽しそうな笑い声が盛り上がってくるばかりで窓は開かない。涙をこぶしでぐいと拭って窓を閉めた。
バン! と、いきなり後ろで音がした。なんだろうとおもって振り向くと、ドアを壊す勢いで伊吹が部屋に飛び込んできた。顔を鰻のたれで真っ黒にして、口の周りはピザソースだらけで、左手にはのり巻きのままの鉄火巻を五本もわしづかみしている。
「万札! 迎えに来たよ。ママがいない今夜は、念願のシュチニクリンだ!」
そう叫んで、伊吹は万作の手を握った。十三年前、引っ越してきたばかりの幼稚園のころ、屋敷の庭に迷い込んで泣いていた伊吹の手を取って、隣の相田家に送っていって帰ろうとしたとき、伊吹は万作の手を握って放さなかった。それ以来、万作は伊吹と共に暮らすようになった。今また、伊吹は万作の手を握りに来た。食べ物で汚れた汚い顔に満面の笑みをうかべて、目をきらきらさせながら、万作の手をぐいぐい引っ張る。
「シュチニクリン! シュチニクリン!」
叫びながら、階段を転げるように駆け下りていく伊吹に引きずられながら、万作はもう一度涙をぐいと拭ったのだった。
シュチニクリン 完