夜の拾得物 ~8~
ライアン=スペンサー殿
一月二日、夜。貴宅の宝を頂きに参上す。
ベル
*
宝、というのは、宝石に替えられたスペンサーの財産。
そしてアルは、その隠し場所を知っている。
「絵にな、絵の裏にな。穴、穴があるんだよ。隠し穴」
……本人が『アンナの家』で友人に公言していたから。泥酔した様子で。
「しっ、スペンサーさん。誰に聞こえるかわかりませんぞ」
「構わんよ、こんな安っぽい店にいる連中だ。大した者はいるまい」
途端に、他の客も含め、店内が殺気立った。ちょうどダニエルが厨房の入口扉を開けていたこともあり、ウエイター以外の従業員にも丸聞こえだった。
「はあ?」
「あん?」
「なんだと?」
「もっかい言ってみろ」
「『安い』憶えはあっても『安っぽい』憶えは指の先ほどもねーぞ」
「舐めんなよ」
「店長に謝りやがれ」
とは、さすがに客に向かっては言えなかったが。
へえ。アルは冷やかな眼差しで、スペンサーを見つめていた。
そして決めたのだ。
次はお前だ、と。
「……こっえ」
仕事自体は、上手くいった。アルの外套の内ポケットには、きらびやかな宝石がひとつかみ入っている。
「ベルを逃がすな! 一帯を包囲しろ! 猫一匹通すんじゃない!」
遥か後方で叫んだのは、すっかりお馴染みのアーノルド警視。実は『アンナの家』にも何度か来店している。聞き込みでも、プライベートでも。
アルは裏路地に駈け込んだ。壁に寄りかかっていた孤児や娼婦が、なにごとかと思って瞠目する。
ランソルトの裏路地は知り尽くしているつもりだ。次の角を曲がって、さらに細い道に入れば……。
「……嘘だろ」
見事な、行き止まり。三方向を煉瓦の壁に囲まれた、真っ暗な空間。
「新しい建物か……!」
そう言えば工事していた気がしないでもない。迂闊にも完全に忘れていた。
「この辺りだ!」
近くでアーノルド警視の怒声が聞こえる。今、後ろに引き返すことは出来ない。かと言って、ここにいても確実に捕まってしまう。
アルは天を仰いだ。イギリスの冬にしては珍しく雲が晴れており、三日月が穏やかに微笑んでいる。
……自分に翼があったなら。夢物語だとわかっていても、窮地に陥る度に、アルは考えてしまう。
しかし、泥棒に翼はない。よって空は飛べないし、死後に天へ昇ることも出来るはずがない。
「……くそ」
大勢の足音と、ランタンの光が近くなってきた。アルは溜め息を吐くと、歯を食いしばった。こうなったら、最後まで醜く足掻いてやろうか。
よぎるのはふたりの顔。
ひとりめは、コーディ。
そして、ふたりめは――
「怪盗ベルだ!」
「!」
裏路地のどこかで、甲高い声が響いた。
それを筆頭に、様々な声が続く。
「こっちに来るぞ!」
「いえ、こっちだわ!」
「表通りに出たよ!」
「屋根を渡ってるぞ!」
子供の声かと思えば、次には若い女性の声で叫ばれ、中には中年男性のがなり声もあった。
そのでたらめな目撃情報が、市警らを混乱させていく。
「――通りを張れ! 絶対に逃がすな!」
アーノルド警視が苛立った様子で指示を飛ばす。
そうして裏路地を奔走していた市警らは、慌ただしく表通りへと去っていった。
アルは呆気に取られながら、その一部始終を見て(否、音で聞いて)いた。
行き止まりから恐る恐る顔を出す。辺りに人の気配はなかった。ただひとりを除いて。
その小さな影は、すぐそこの壁に寄りかかって座り込んでいた。
ボロではないが、上着一枚で震えている姿は、さながら孤児のようで、
「……なに、してるんだ」
アルはゆっくりと、その影に歩み寄った。
「抜け出してきたのか」
「……」
「孤児院はこんな時間に外出許可をくれるところじゃないぞ。――トム」
トムは黙って、睨むような目付きでアルを見つめていた。その表情は、どこか泣きそうにも見えて――
「一番初めは、お前の声だったな」
アルは外套を脱ぐと、それでトムの身体を包んだ。
『怪盗ベルだ!』
「……ここら辺の人たちと、協力したんだ。怪盗ベルを……助けようって。みんな、怪盗ベルにお世話になったことあるから」
「そうか」
すっと片手を上げると、トムは何を思ったのか、びくっと身体を震わせた。
伸ばしっぱなしの黒髪に、優しく手を置く、クリスマスイブにはパサパサで汚れていた髪だが、コーディの世話の賜物か、年相応の艶を出している。
「ありがとう。助かった」
「……」
白い頬に、一粒、二粒と水滴が落ちる。「うー……」とぐずる声とともに、トムはアルに手を伸ばした。
アルはその身体を抱き上げると「よしよし」とあやすように、左右に軽く揺らしてみせた。
トムは尚もぐずぐずと泣きながら、取り留めなく話し始めた。
「あの、ね……お兄さんに、も、一度……あ、会いたくって……」
「そうか」
「あ、ありがと、て、言いたかったの……助けてくれて……。お兄さん、あったかかったから……」
「……そうか」
「で、でね、お兄さん、強くてとっても優しいから……」
「……」
アルは腕の中のトムをじっと見つめると、悲しそうに笑った。やめてくれ、という感情が、自分の中で再び叫びを上げる。
強くなんか、ない。優しいなんて、以ての外。
「誰も……助けられたことなんてないよ」
怪盗ベルは、誰ひとりとして救えたことなどない。
それは裏路地の孤児にしろ、トムにしろ、コーディにしろ、過去の自分にしろ、だ。
トムは手の甲で涙を拭いながら、小さく首を傾げた。
「助けられたよ?」
「……?」
「『お兄さん』に、僕は助けられたんだよ? 『怪盗ベル』じゃなくって」
アルは目を見開いて、刹那、息をすることを忘れたように固まった。
顔をくしゃくしゃにして泣き笑うトムが、無言で優しく語る。
怪盗ベルには救えなかった人が、アルバート=ハックルベリーには救えるかもしれない。
「……」
アルはふ、と微笑むと、腕の中のトムをぎゅうと抱きしめた。トムは驚いた様子で、わずかに身を固くする。
「お兄さん?」
「……トム」
アルに救える人がいるということを教えてくれたのはトムだが、今この瞬間、アルの心を救ってくれたのは間違いなくトムだ。
それこそ、あったかい言葉で――
「コーディは好きか?」
「え?」
「答えなさい」
「……コーディ先生は、優しくて好きだよ」
「俺のところに来るなら、あいつに懐いているのが絶対条件だ」
「! 好きだよ! 大好き!」
黒い瞳を輝かせて見上げるトムは、ふと不思議そうに訊いてきた。
「でも、どうして?」
トムを抱きかかえて歩き始めたアルは、当然だというように答えた。
「身内が自分と同じものを好きだと、なんか嬉しいだろ?」