夜の拾得物 ~7~
「……トム?」
「お手伝いもするし、絶対にわがままも言わない。だめ?」
恐れていたことが、目の前で起きている。居つくならコーディの家だと思っていたのに。アルはソファのコーディを見やった。
彼女は何も言ってくれない。ただ、切なげに顔を歪めて、首を横に振っただけだった。
コーディの言いたいことはわかる。この前話し合ったことだ。
だってあなた、怪盗じゃない。
ミルク片手に黙り込むアルに、彼女はそう、はっきり言ったのだ。
「……お前が」
横に座り込むトムの、頭に手を乗せる。
「その怪盗に憧れているうちは、だめだ」
「……どうして?」
トムが悲しそうに問う。アルは「どうしても」としか答えられなかった。
「じゃあ、怪盗ベルのことを嫌いになったらいいの?」
トムはどうしたって諦められない様子で、アルに縋りついた。
「お願い。お兄さんの近くにいたいんだ」
シャツの袖を握る手に、ぎゅっと力がこもる。同色の瞳には、焦りの色が浮かんでいた。
「お前が怪盗ベルを嫌いになったら」
アルは立ち上がって、その小さな手を振り払った。
「その時こそ、俺のもとへ来てはいけないよ」
焦りの色が、絶望に変わる。伸ばした腕がだらりと下がり、目の淵に涙が溜まっていった。
手にしていた『千夜一夜物語』が、床に落ちる。
「……トム、お風呂入ろうか」
見かねたコーディが、傍に寄ってトムの肩に手を置いた。トムはしばらくの間、俯いて答えなかった。
やがて弱々しく頷くと、コーディに手を引かれて、風呂場へと向かっていった。
一度だけ、コーディが振り返ってアルを見た。
そこで互いに確認する。
これでよかったのだ、と。
「……」
風呂場から押し殺したような泣き声が聞こえてくる。
アルは目を閉じて、ふーっと息を吐いた。
本当に、これでよかったのだ。
トムが怪盗ベルの正体に気が付く前に。
そして、トムが怪盗ベルの無力さに気が付く前に。
「……早く遠ざけないとな」
床に落ちた本を拾い上げ、ローテーブルに置く。
そしてアルは外套を羽織ると、玄関のドアを開けて、夜の街に出た。
その晩、アルは久々に自分の部屋で眠ったのだった。
*
アルがランソルトの街にやってきたのは、三歳の時のことだった。
『ここで待っててね』
そう言って自分を置いていった母親の顔は憶えていないが、貧しさゆえの口減らしであったということは察しがつく。
その日からアルは、ランソルトの裏路地に住む子供だった。
生きるためなら、なんでもしたと思う。低賃金で働いたこともあれば、商店や屋台の食べ物をかっぱらったこともある。見つかってタコ殴りにされたことも、一度や二度ではない。
その頃のアルは、優しさとかいう言葉とは対極に位置する人間だった。毎日を生きるのに必死で、他人を思いやる余裕なんて、髪の毛一本ほども持ち合わせていなかった。
たとえば、盗んできたパンを仲間とふたりで分け合ったとして、どうしたら相手のパンを手にすることが出来るか、そんなことばかり考えている子供だった。可愛げというものを孤児に求めてはいけない。
「あなた……」
だからこそ、その少女の存在は、自分のいた世界の中では、非常に異質だった。
「怪我、してるの?」
どうしてそんなに、他人に優しい? どうして自分を、見下さない?
なにか裏があるのだろうか。そう疑るアルに、少女は手を伸ばして問うた。
「名前はなんていうの?」
*
「ハックルベリーさんと、リードさんの預かってらした……トム君ですね。はじめまして」
街外れの孤児院の院長と名乗ったその婦人は、年明け二日目に、屋根のない馬車に乗ってやってきた。柔らかな物腰に、どことなくアンナの影を見る。この女性も年を取ったら、ああいう感じになるのだろう。
自分の目線まで下りてきた院長に、トムはどこか落ち着かない様子で、手をもじもじさせたり、数日間暮らしていた家に振り返ったりしていた。
「トム、礼儀正しくなさい」
コーディが両肩に手を置くと、トムは「うん。……じゃなくて、はい」と姿勢を正した。この数日のうちに、必要最低限の礼儀作法は教え込んだそうだ。
「こいつのこと、よろしくお願いします。……素直な奴なので」
別れは長ければ長いほど、辛くなる。アルは手短に挨拶を済ませた。
「わかりました」
院長は頷くと、トムの手を引いて、馬車に乗せた。
「帰りましょう。みんな待ってるわ。新しい家族が増えるって」
「トム」
コーディが不意に声をかける。トムは馬車から身を乗り出すと、
「コーディ先生?」
「……」
彼女は何かを言いかけては、口を閉ざしていた。
さよなら、とも違う。元気でね、とも違う。
言いあぐねた末に、コーディは背伸びをすると、トムの頬に口付けた。
トムを引き取ることに反対していたコーディだが、彼女も彼女なりに淋しいのだろう。
「……コーディ先生、ありがとう」
トムはわずかに微笑むと、次いでアルを見やった。
「……」
「……」
なにも言えないまま、互いの黒い瞳を見つめ合う。
最初は自分に少し似ていると思った。黒目黒髪、ボロの衣。
でも、トムはアルとは違った。
「お前は優しいな」
温かな、帰る場所が出来るはずの子供なのだ。
少しばかり有名なだけの、泥棒の生活に巻き込んではいけない。
「……」
馬車が走り出す。
トムは座席に膝を立て、後ろに遠ざかっていくふたりを名残惜しそうに見つめていたが、やがてそれも、角を曲がって見えなくなった。
残されたアルとコーディは、言い知れぬ寂寥感をを抱きながら、通りに立ち尽くしていた。
「…………帰る」
アルがその場で踵を返し、去りかける。
「夜の準備?」
トムの消えた角を見つめたまま、コーディがわかりきったことを尋ねてくる。アルは足を止めた。
「今日だものね。〝手紙〟の日程」
〝予告状〟と言わなかったのは、彼女の気遣いだ。
「捕まらないでよ? お父さんとか悲しむから」
「……わかってる」
アルはぶっきらぼうに答えると、今度こそ、コーディの家の前を去った。