夜の拾得物 ~5~
やかましい同僚たちが阻むのを突破し、ようやく我が家――ではなくコーディの家に辿り着けた時には、時計の針は九時を差していた。
「今、どうしてる?」
寝室に向かいながらコーディに尋ねると、彼女は難しそうな顔で、首を横に振った。
「思うように熱が下がってくれないね。ただ、快方に向かっていないわけじゃない」
やっぱりごはん食べてくれたから、と説明して寝室の扉を開けるコーディ。ベッドの上では、赤い顔をした子供が、少々苦しそうに呼吸を繰り返して眠っていた。
「トム……といったな。トーマスか?」
「多分そうだとは思うけど、本人は知らないみたい。『トム』一本で暮らしてきたって」
「へえ……」
アルは腕を組むと、納得したように頷いた。裏路地の子供なら、別段珍しいことでもない。物心づく前に捨てられた子供は、朧げに憶えている名前を使うか、仲間内の通称で生活していくのが普通だ。
アルの知り合いにも「L.Cっていうイニシャルしか知らないから、勝手にリンダ=チャーミングっていう名前にしちゃった」という女がいた。「お嬢様みたいでしょ」無駄に派手なだけである。
「うん……?」
その時、ふたりの会話でトムが目を覚ました。
熱に浮かれた視線は、部屋の天井付近を漂って、ゆっくり降下し――そしてアルを見据えた。
アルの心を決定的に捉えた黒い瞳が、焦点を合わせる。
辛い身体を起こし、夜分に入室してきた青年に手を伸ばすと、トムはかすれた声で呼んだ。
「昨日の、あったかい、お兄さん」
「――……」
小さくて、傷だらけの手。
その手が差し出された瞬間、アルの心の奥深くに棲まう少年が低く呻いた。
心臓が大きく脈打つのがわかった。激痛に耐える少年は、悲鳴をひねり潰したような呻き声を上げ続ける。
手を伸ばすトムも、呻く少年も、思うことは同じ。
助けて。
あなた……。
だから、あの時の少女のように、アルはその手を取ったのだ。
名前はなんていうの?
「アルバート=ハックルベリーだ」
トムと握手し、やや緊張した面持ちで挨拶する。横のコーディが、仕方なさそうに溜め息を吐いた。
「子供相手に、いきなり堅苦しいわよ」
トムは暫しの間、きょとんとしていたが、円らで大きな目を三日月形に和らげると、
「僕は、トムだよ」
なぜだかおかしそうに、自らの名を告げるのだった。
*
トムを再び寝かしつけてから、アルとコーディは居間に移動した。
簡素なその空間には、椅子とダイニングテーブルの他に、長椅子とローテーブルがひとつずつ。
コーディは台所から、湯気の立つマグカップをふたつ運んでくると、長椅子に腰を下ろした。一方のアルは、堂々と暖炉の前の床に座り込んでいる。
道端で育った過去があるせいか、親しい人間の前では少々行儀が悪い、という自覚はある。
「猫みたいに炙られてないで、こっちに来たら」
コーディに呼ばれても、アルは上半身と腕を伸ばしてマグを受け取っただけで、暖炉の前から動こうとしなかった。
「ホットミルクだな」
「お砂糖入り」
「美味そ」
断片的な会話を交わしながら、その甘いミルクに口を付ける。子供っぽい飲み物とは知っているが、初めてコーディの母親に飲ませてもらった瞬間から、アルはこれが好きだった。
「今日ありがとな」
「?」
「わざわざ店に来てくれて」
アルは今日の店内騒動を思い出して苦笑した。あの一件で、コーディはすっかり『アンナの家』の有名人である。
「ああ……アンナさんの店、電話番号忘れちゃって。調べるより行った方が早いなって思ったの」
「コーヒーも頼んでくれたし」
「せっかく行ったんだからね」
「アンナさんがまた来いって」
「あなたがいいなら」
囁くように話し合っていたふたりの間に、ふと沈黙が横たわる。
暖炉がパチパチと音を立てた。橙色の炎が一段と明るくなり、アルは目を細めた。マグカップを片膝に置き、ふぅと溜め息を吐く。コーディはローテーブルにマグカップを置いたようで、背後からコト、と硬い音がした。
どちらが『本題』を切り出すか、互いに待つ。
そして、
「あの子、どうするの」
先ほどとは打って変わり、はっきりとした声音でコーディが問う。相手がはぐらかすのを許さない、少しきつめのトーンは、子供の患者相手(と言ってもトムしか知らないが)に話す時の優しいトーンとはかなり違う。
「また道端に放すわけないだろうし」
「俺は自分の意志で裏路地に戻ったけどな」
「トムがどうかはわからないわよ」
それはそうだろう、とはアルも理解している。だが、これから先どうするのか、あの子供の意志が関わっているのは本当だ。
「拾ってきた本人として、孤児院入りの手続きくらいは義務だよなあ……」
「それはそうだけど、もし――」
一旦言葉を切るので、振り返ったら、コーディはアルをじっと見つめていた。鋭い視線に射抜かれて、アルは自然と背筋を伸ばしていた。
「――もし、トムが、あなたのところにいたい、と言い出したら?」
「……」
答えるべきはひとつ。彼女も無言で「わかっているわよね?」と念を送ってきていた。
しかしアルには、その場ですぐに答えることが出来なかった。






