夜の拾得物 ~3~
アルが出勤してから、コーディは仕事の合間を縫って子供の様子をちょくちょく見に行っていた。父の患者からは「コーディ先生、今日どこかふわふわしているね?」と指摘されることもあったが、理由を話すと長いので、曖昧に笑って流すか、「寝不足なんですよ」と言い訳めいたことを言ったりしている。嘘は吐いていない。
午前中は目を覚ますことのなかった子供だが、病院が昼休憩に入り、コーディが子供のいる寝室で昼食のサンドイッチにかぶりついていると、
「――……」
ゆっくりと、子供の瞼が開いた。漆黒の瞳が露になる。
「……驚いた。目の色までアルと一緒ね」
コーディは椅子から立ち上がって、子供の顔を覗き込んだ。
「お目覚めの気分はいかが、坊や?」
健康観察も兼ねて尋ねる。子供は熱で赤く染まった顔を左右に向け、虚ろな視線を漂わせた。
「坊や?」
腰を屈め、子供の顔を覗き込む。なにかを探している様子の子供は、コーディの瞳を見据えると、
「――」
無声音で何やら呟いた。喉をやられているな、とコーディは察すると「無理に喋らなくていいよ」と優しく話しかけた。
子供は首を横に振ると、不安げな目でコーディを見つめながら、かすれた声で問うた。
「お兄さんは?」
「お兄さん?」
「あったかいお兄さんは?」
ああ、あいつのことか、と理解する。真冬にも関わらず、額に珠のような汗を光らせ、とんでもない「クリスマスプレゼント」を抱えて転がり込んできたあいつ。あれは確かに、傍にいればあったかそうではある。
「君の探している人は、お仕事中なんだ。日が落ちたら帰ってくるよ」
「……」
「まずは、君の名前を教えてもらってもいい?」
「トム」
「トム、か。トーマスかな?」
「トム。ずっと、トム」
「……そっか。私は、コーディリア=リード。町医者見習いをやっている者だよ」
トム。アルファベットにしてたった三文字。フルネームを憶えていたアルは、割かし幸せ者なのかもしれない。コーディは思った。
……いや、どれだけ自分のことを知っているかで、アルやこの子の幸福をはかるのはやめよう。個々の幸福を、他人にはかられるのは決して気分のいいものではないだろう。
「じゃあ、トム。なにか食べようか。熱で食欲がないかもしれないけれど、胃が空っぽであるからには、薬を飲ませるわけにはいかないからね」
ちょっと待ってて、と言い残すとコーディは台所に向かい、昨夜の夕食であったスープを温めた。
器に入れたそれをトムに差し出すと、彼は「いい匂い」と顔を綻ばせながら、自ら起き上がった。
「こぼさないでよー? 私の寝床なんだから」
想像以上に食欲があったのはよかったものの、如何せんトムはスプーンの使い方を知らなかった。一滴もこぼさないように注意しながら、器に口をつけて嚥下していく。
なんだか、アルが二度目にリード家に来た時のようだ。
それからトムは、蜂蜜のたっぷり入ったホットミルクも飲み干し、最後は嫌がりながらも苦い薬を飲み下し、再びうとうとし始めた。
「コーディリアお姉さん」
やはりまだかすれた声で、トムが呼ぶ。半ば夢うつつのトムに、コーディは「長ったらしいね」と苦笑した。
「コーディでいいよ。患者さん達からはコーディ先生って呼ばれてる」
「じゃあコーディ先生」
額の手拭いの下で、トムが無垢な視線を向けてくる。嘘を吐くことを許さない、純粋な、漆黒の瞳。
「コーディ先生は、あのお兄さんの奥さん?」
訊かれたのは、とても簡単な質問。しかしコーディは、一瞬虚を衝かれたように固まった。
遥か昔に目指していたかもしれないそれは、今聞くと実に少女らしい夢で、トムと同じく純粋であったはずの自分を思い起こさせた。
あいつの奥さん、か。コーディは小さく笑う。そして、
懐かしい。
心からそう思った。
懐かしんで、その記憶を愛しいと感じることが出来た瞬間、その人の人生は、過去も含めてもっと豊かになる。
だからコーディは、懐かしむことに意味はあると思うのだ。
「違うよ。私と彼は友人。幼なじみだよ」
「幼なじみ?」
「小っちゃい頃から知り合いってことだよ。彼と初めて出会ったのは……十二年前かな」
「ふーん……」
トムは納得したように頷くと、
「仲よしさんなんだね……」
黒い瞳孔を隠し、夢の世界へと旅立っていった。
規則的な寝息を立て始めたトムの額に手を乗せる。その温もりを感じ取ったのか、小さな唇が微かに動いた。
コーディにはそれが「お兄さん」と言っているように見えた。
*
「先輩先輩先輩!」
「お前にとっては全員先輩だろうが」
転がり込むようにして厨房に入ってきたダニエルに、誰かが冷静につっこむ。アルは流しで使用済みの食器を洗っていた。普段はウエイターに徹するアルだが、お昼時を過ぎて客がまばらになると、厨房に引っ込むことがある。
「ですから! 先輩全員に言ってるんです!」
ダニエルは興奮しきった様子で、厨房全体に聞こえるように、声を高らかにした。
「ついさっき、金茶色の髪に青い目でそれなりに胸もある割と俺好みの美女が来店したんですけど、そ、そ、その人が注文したのが……!」
震える声で、注文書を読み上げる。
「エスプレッソコーヒーと……ア、アルバート=ハックルベリー!」
全員の視線が、一斉にアルに向いた。
「……は?」
とっさに理解出来ず、ポカンとしているうちに、調理担当の奴がものすごい手際のよさでコーヒーを淹れた。木のトレーに乗せたコーヒーカップを、アルに押し付ける。
「行け。話はそれからだ」
無言でみんなが見つめてくる。心なしか、目がちょっと怖い。
アルはトレーを受け取って考えた。
金茶の髪。青い目。ダニエル曰く美女。(それとそれなりの胸。)
思い当たる知り合いはひとり。
果たしてその人物は、テーブルに頬杖をつきながら、コーヒー――とアルバート=ハックルベリー――を待っていた。
。