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夜の都  作者: 水澤しょう
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アルの守れなかった約束 ~10~

 中央のテーブルに着かされたふたりは、蝋燭の灯り越しに小さく笑い合った。と言っても、ルーファスのにこやかな笑みとは違い、コーディの方はかなり苦々しい笑みだったが。


「今日の彼は、また一段と怖い顔をしているね」


 先ほど厨房に消えたアルに向けて少しからかうように言ったルーファスに、コーディも激しく同意する。それも、今日は自分の誕生日であるというのに。

 目が合った瞬間にちょっとだけ期待してしまった自分がバカみたいではないか。


『ハッピーバースデー、コーディ』


 ルーファスはそう言ってくれたのに。


「まあ、約束を横取りしてしまったのは僕だからね。彼が不機嫌になるのは無理もない」

「そこは……気にしなくていいと思うけど」


 本当に気に食わないのなら、アルはきっとふたりをここに呼んだりしないだろう。なにか思惑があるからこそ、今日ここにふたりの食事場所を準備してくれたのだ。


 その時、厨房の扉が開かれた。今話していた青年が出てきたのかと思ってコーディが身構えると、そこからは、


「コーディ先生!」


 よく知る男の子が、スープの乗ったトレーを持って出てきた。

「トム! どうしてここに?」

「トム?」


 とてとてと近付いてくる男の子に、ルーファスが怪訝な目を向ける。


「患者さんの繋がりかい?」

「ううん、アルのところにいる子よ。もともと外で暮らしてた子なんだけど……」

「へえ……」


 小さなエプロンを着たトムは一旦トレーをテーブルに置くと、馴れない手付きで双方にスープを配った。


「アルと僕で作ったんだよ!」


「ちょっといいかい」


 興味深そうにトムを見つめていたルーファスは、唐突にトムの髪を撫ぜた。


「え!」


 驚くトムに「失礼、坊や」と断って頭の手を腕に移す。


「トムはもともと――外で暮らしていたんだよね?」

「えっと……うん」

「そっか」


 腕から手を離し、最終的にぽんぽんと頭を叩く。そして、トムの目線まで腰を屈めると、


「アルによくしてもらってるみたいだね。いいお父さんだ」


 どうやらトムの健康状態を見ていたようだ。裏路地で育ったトムは身長こそ他の子供に比べて足りないものの、衛生状態はよく、肉付きは普通の子供にようやく追いついてきたと思う。


「えへへ……コーディ先生もいっつも面倒見てくれるけどね」

「そっか」

「でもね」


 トムは真っすぐにルーファスを見つめ返すと、はっきりと告げた。


「アルは〝アル〟で、僕は〝トム〟だよ。お父さんでもお兄さんでもないんだ」

「ふーん……そうなの?」


 かつて、目の前の男性の妹君にも同じことを言っていた気がする。誰に対しても、トムはその姿勢を崩さないのだ。


「そうだよ。憶えといてね、おじさん!」

「……」


 端麗な笑みで誤魔化しているが、従妹のコーディにはわかる。ああ、若干傷付いているな、と(ちなみにアルは『お兄さん』と呼ばれていたはずだ)。


「それとコーディ先生!」


 トムがエプロンのポケットから、白い封筒を取り出して「はい!」とコーディに差し出した。


「ハッピーバースデー! お手紙書いたんだよ!」

「えっ?」


 コーディはその封筒を受け取ると、中の便箋を取り出した。


『こーディせんせい へ

 はっぴーバースデー! とむ』


「……!」


 次第に自分の顔が綻ぶのを感じる。妙なところで大文字になったり、多少綴りが違うところがあるにしても、つい最近までまったく読み書きの出来なかった子が、自分にこんな手紙を書いてくれたのは限りなく嬉しい。


「ほんとにありがとう、トム」


 コーディは涙腺が緩みそうになるのをぐっと堪えると、トムを引き寄せて頬に口付けを落とした。口付けられた本人は「へへん」と照れ笑いを浮かべて、厨房に駈け戻る。


「頬の上なら満足感のキス、か」


 ふと呟いたルーファスに、コーディがすぐに反応する。


「グリルパルツァーの『接吻』ね」


「その通り。

 手の上なら尊敬のキス。

 額の上なら友情のキス。

 頬の上なら満足感のキス。

 唇の上なら愛情のキス。

 閉じた目の上なら憧憬のキス。

 掌の上なら懇願のキス。

 腕と首なら欲望のキス。

 さてその他は狂気の沙汰、というものだった」


「よく憶えてるわね」


 かく言うコーディも、学生時代に他の女の子たちと一緒になって一生懸命憶えたものだった。


「ジョゼがよく家で暗誦してるんだ。学校で流行ってるらしくって」

「女の子なら誰もが通る道だもの」


 さりげなく自分もそうだったということを匂わせた辺りで、スープに手をつける。庶民的だが、優しい味で、三月の冷たい夜に冷えた身体を温めてくれるようだった。


 次に厨房の扉が開いた時、そこに立っていたのはこの店のオーナーの、


「アンナさん! お久しぶりです!」

「こんばんは」


 コーディは慌てて立ち上がり、その老婦人に挨拶した。急いで置いたスプーンが軽く音を立ててしまい、いやに静かな店内に響き渡る。


「ルーファス、紹介するわね。こちらはこのお店の経営者のアンナ=マーチさん。アルのお母さんみたいな人よ」

「アルの?」


 ルーファスは少し驚いた様子で、自身も席から立ち上がる。


「アンナさん、こちらは私の従兄のルーファスです。今日は私のために隣街から来てくれたんです」

「あら……」


 ルーファスが「はじめまして」と挨拶する。アンナはじっとルーファスを見つめると、


「ええ……会えて光栄ですわ」


 と微笑み、


「アルも大変ねえ……」


 と口元に手をやって苦笑した。

 なにがどう大変なのかはよくわからないが、アンナは多くを語ることなく「いいえ、そんなことより」と話題を振ってきた。


「トムからのお手紙はもう受け取られたかしら」

「はい! とても嬉しかったです」

「そう。あれくらいの年の子は可愛いわよね……」


 アンナは片頬に手をやると、過去を懐かしむように語り出した。


「私もとうの昔に子育てを終えて、やることもなくこのまま一生を終えていくのかと思ったけれど……最後に何か大きなことをやってみようと思ってお店を開く計画を立てて、そこにアルが来てくれて、ふたりで開店することになったのよね。


 あの時のアルは今と違ってまだ小さくて……でも器用で気も利くから、何度それに助けられたことか」


 それは恐らくマークの教えの賜物だろう。コーディは実家にいる厳格な使用人の青年――もう青年と呼べる年ではないが――を思い出して苦笑した。


「彼がこの店で働き始めた時は……まだ十二歳でしたっけ?」


 座りながらルーファスが問うと、アンナは「ええ」と懐かしそうに答えた。

 十二歳。アルが働き始め、リード家を出て行った年だ。


「すごいな……十二歳の時の僕といえば、学校に行っているだけの、ただの少年だった」


 ただの少年、という割にはあまりにも優秀な気もするが。


「――」


 あまりにも優秀だったルーファスと、あまりにも自立していたアル。

 このふたりは色んな意味で正反対の人生を歩んでいると言えるだろう。コーディは自分の席に着いた。


 どちらがすごいとか、そういった感情は特にない。どちらも魅力的で、コーディにはどちらも真似出来ない。


「さて、おふたりの時間をこれ以上邪魔するのも何ですし、私はそろそろ戻りましょうか」


 アンナはふたりに踵を返すと「最後に」とルーファスに問うた。


「トムをふたりに送り出す時、アルがあの子に言い付けたことは何だったと思います?」

「……さあ、わかりかねます」


 ヒントのなさにルーファスが降参すると、アンナは仕方なさそうに笑って、



「『出来る限り、邪魔してこい』ですって」

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