アルの守れなかった約束 ~9~
アルは目を覚ましてゆっくり起き上がると、横で眠りこけるトムを見下ろした。そうして自分と同色の髪を撫ぜ、過去を思い起こす。
本当はあれが、アルが二年間もリード家に居座り続けた序章なのだが、当時はそんなことを知る由もない。ただ、働きぶりが旦那と奥方に気に入られて、そのままあの家で暮らすことになるのである。
「…………ああ、そうか」
コーディの欲しいものなら、十二年前から知っていたではないか。それを忘れていたなんて、相変わらず愚かな幼なじみである。優秀な従兄のルーファスに敵うはずもない。
振り返ってくれなくていい。ただ、立ち止まって聞いてほしい。それがアルの〝気持ち〟だ。
決まったよ、トム。アルは横の子供が夢見ながら微笑むのを見て、そっと白い頬に指を沿わせた。
*
ランソルト七番街に店を構える花屋『フローラル』。
そこの看板娘リサは、毎日店先に立って客の呼び込みをしていた。
お花ー、お花はいかがですかー。家族に、恋人に、お見舞にどうぞー。本店ではお葬式用のお花も承っておりまーす。是非お立ち寄りくださーい。
素直で働き者のリサは近所からの評判もよく、ここらではちょっと有名な美少女だった。
「お花ー、お花はいかがですかー……」
その日もリサは、店先に立って呼び込みをしていた。土曜の昼間なのだが、客はあまりいない。呼び声が虚しく響く七番街に、リサはひとり嘆息した。
(あーあ……せっかく大きな声を出しても、全然お客様が来ないしなあ……。いいわ、しばらくは別の作業に専念しよう)
リサはそう割り切ると、バケツに生けていた花の水を替え始めた。
その時、
「ここは花屋か?」
不躾にそんな声が聞こえて、リサは「はい?」と顔を上げた。
そこに立っていたのは、黒髪であまり背の高くない青年だった。あまり花屋という店に馴れていないのか、やや緊張した面持ちでリサを見下ろしている。
「はい……花屋ですけど」
見りゃわかるでしょうよ、と突っ込みたくなるような質問だが、リサはとりあえず素直に答えてあげた。
青年は難しい表情のまま足元を見下ろした。店の一番目立つ位置に置いてある二色の薔薇。青年は双方を素早く見比べると、短く「赤」と告げた。
「……赤い薔薇で、よろしいですね?」
「ああ」
話すのが得意じゃないのか、もしかして。リサはう~んと考え込みながら「何本ですか?」と優しく尋ねた。
青年はやや悩むと「二十二本」と答える。瞬間、リサは悟った。伊達に花屋の看板娘をやってない。
「お誕生日プレゼントですか?」
「……」
青年はばつが悪そうに視線を逸らした。リサはバケツの中から花を抜き取りながら、得意げに語り出す。
「赤い薔薇には『情熱』という意味がありますからね。伝わるといいですね」
「そんなご大層なものじゃない」
不機嫌に返す青年に花束を渡し(リボンを付けるかどうかは訊くまでもない)、代金を受け取る。
「ありがとうございました。またお越しくださいね」
リサはにっこり微笑んでその青年を見送ろうとした。しかし、青年は去り際に何かに思い出したようにリサに振り返った。
「変なこと訊いていいか」
「?」
「白い薔薇には、どんな意味がある?」
なぜその質問をぶつけてきたのかはわからないが、リサは長年培ってきた知識を惜しみなく披露する。
「白い薔薇には『私はあなたにふさわしい』という意味があります。これもまた、素敵な花言葉ですよね」
にこやかに答えるリサとは対称的に、青年の表情が曇る。
「あいつ……」
「お客様?」
「いや、なんでもない」
青年は花束を肩に乗せると、
「ありがとな。ちゃんと渡してくる」
毅然たる態度で、元来た道を戻っていった。
よく見れば、ちょっとかっこいい人だった。この前来た金髪の紳士様には負けるけど。この人のほうがちょっと可愛い感じ。
「お花ー! お花はいかがですかー!」
その日一日くらいは機嫌がよくなりそうな出来事に巡り会えたリサは、再び客寄せのための声を張り上げた。
また誰かが、素敵な物語を運んできてくれるように。
*
あいつは一体なにを考えているのだろう。コーディは「CLOSE」の看板が掛かっていながら、隙間から煌々とした光が漏れる扉の前に立って、深く溜め息を吐いた。
「大丈夫?」
隣のルーファスが気遣って尋ねてきた。慌てて「大丈夫よ」と首を横に振って笑う。
「しかし驚いたね……閉店後の軽食屋さん、それも彼の職場が指定されるとは」
一種の仕返しかな、と苦笑するルーファスの笑顔が胸に痛い。ほんとにごめん、という気持ちになる。
「入ろうか。アルも待ってるだろうし」
「……ええ」
木製の扉を開けると、『アンナの家』にはいつもと違う光景が広がっていた。ダイニングスペースの真ん中にテーブルと椅子が二脚置かれており、他のテーブルや椅子は脇にすべて寄せてある。真ん中のテーブルには真っ白なクロスが掛かっており、その上には炎が灯された蝋燭の刺さった燭台が乗っている。向かい合った椅子の前には、ナイフとフォーク、そして畳まれたナフキン。空間だけ切り取れば、立派な高級料亭のようだ。
そして、厨房入口の扉に寄りかかっているのは、
「いらっしゃいませ」
じっとこちらを見据えている、黒髪の幼なじみだった。
「『アンナの家』にようこそ」




