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夜の都  作者: 水澤しょう
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アルの守れなかった約束 ~8~

 どうして。どうして泣き止んでくれない。アルは辛い身体を起こして、少女に手を伸ばした。


「おい」


 肩に手を置いても、少女は泣くだけで何も言わない。どうしよう。アルが途方に暮れて部屋を見回すと、開けっぱなしの扉から、綺麗な身なりの女性が現れた。


 アルはその人物に見憶えがあった。前にこの家に来た時に紹介された、少女の母親である。


「コーディ?」


 真っ先に娘の名を呼んだ女性は、アルが起き上がっている姿を認めると「あら」と顔を輝かせた。


「目を覚ましたのね。よかったわ。この子ったらずっと心配してたから」

「俺……」

「二日間熱が下がらなかったのよ。気分はどう? お腹空いてない?」


 二日間。そんなに意識を失っていた自分に驚きだ。


「ほらコーディ、泣くのはやめなさい。お友達がびっくりしてるでしょ」


 女性は少女を抱えあげると、そのまま椅子に腰を下ろした。母親に宥められて尚、少女は泣き止もうとしない。


「しょうがないわね……ローズ!」


 女性は廊下に向かって声を張り上げると、すぐさま「はーい!」という言葉が返ってきた。程なくして、茶髪にそばかすの十五そこらの少女が転がり込んできた。この家の女中か何かだろうか。


「お呼びでしょうか――って、あ! 起きたんですか! アルフレッドくん!」

「アルバートくんよ。何度もコーディがそう呼んでいるのを聞いたでしょう」


 突っ込む体力がないアルの代わりに、女性が軽く睨む。「はーい……」と女中がしょぼくれる。


「まあいいわ。ローズ、この少年のために何か作ってくれる? そうね……スープなんかがいいんじゃないかしら」


 すーぷ。すーぷとは何だろうか。ニュアンス的に食べ物のような気がするが、果たして腹は膨れるのか。


 元気よく返事をして女中が飛び出していく頃には、少女の泣き声も少し落ち着いていた。


「安心したのね。いっぱい泣いたから、今日は早く寝なさい」


 女性がそう言うも、少女は首を横に振るだけだった。嫌だ、と小さく呟くのが聞こえた。


「アルバートと話す」

「そう? でもアルバートくんも、熱で疲れてるはずだから、お食事したら寝かせてあげましょう。それがいいわ」

「……」


 少女は不服そうに頷いた。散々泣かせて焦ったが、泣き止んだということは、許してくれたということなのか。


「お待ちどうさまですっ!」


 屋台で聞いたことのあるフレーズが部屋に響き、あの女中が戻ってきたことを知らせる。


「スープなら昨日のがまだありましたので! 後でマークと頂こうと思ってたんですけど」


 底の浅い皿に乗せられてきたのは、黄色い液体と、銀色のスプーン。しかしこの時、アルはスプーンの使い方などは知らなかった。


「とうもろこしのスープよ。飲んでごらんなさいな」

「……」


 皿からはたまらなくいい匂いがする。アルはごくりと唾を飲み込んだ。どこかの屋台の店主が、鍋の中でかき混ぜていた匂いと似ていた。


「……」


 三人が見守る中、アルは、


「あー!? この坊主、行儀悪い!」


 女中が叫ぶ。それも当然だった。アルはスプーンを使わず、皿から直接スープを飲み下したのだから。


「ローズ、あまり騒ぎ立てるものではないわ」


 女性は特に驚くこともなく女中を諫めていたが、その膝の上の少女は、ちょっとびっくりした表情でアルのふるまいを見つめていた。

 スープは温かく、今まで自分が食べてきた何よりも美味しかった。と思う。アルは一口目を皿から離すと、感動したように溜め息を吐いた。


 それからしばらくして、少女の父親が仕事から帰ってきて、アルは軽く身体を診てもらい、軽い凍傷、そして案の定と言えば案の定、栄養失調であることを言い渡された。そりゃそうだ。裏路地の子供はみんな栄養が足りていない。


「しばらくはここにいること」


 その言葉に、逆らうことは出来なかった。というのも、それはアルの身体が言うことを聞かないからであって、アルとしてはすぐにでも出ていくつもりだった。


 眠りに就く前のほんの一瞬、男性がアルの前髪をどかしたのがわかった。





「元気になったら、アルバートは帰ってしまうの?」


 翌朝、手を開いたり閉じたりして感覚を取り戻そうとしているアルに、少女は心配そうに顔を覗き込んだ。


「……そうだ」


 未だベッドから下りれないアルは、両手を布団の下にしまって、少女から目を逸らした。


「まさか」

「ほんとだ」

「だって、死んじゃうわよ」

「俺は裏路地で七回冬を越してる」

「でも今年は大雪よ。だめだわ」


 大雪だからなんだ。寒いのはイギリスの国民共通だ。アルは複雑な表情で少女に言う。


「……お前の親父さんやお袋さんに迷惑がかかるぞ」

「私から頼んで、冬の間だけでもいていいようにするわ。ねえ、外は寒いのよ。知ってるでしょ? ……私なんかより、ずっと」

「……」

「私は確かに何にもわからない世間知らずの小娘だけど、寒いと辛いことくらいわかるわ」


 少女は熱心に説くが、アルは首を縦に振らない。このままずっと、ほどこしだけを受け続けるのはまっぴらだった。


「俺は何も持ってない」


 この家の人々は自分にとてもよくしてくれる。しかし自分は、名前以外の財産は何も持っていないのだ。


「礼……に返せるものがない」


 この部屋の対価も、昨日のスープの対価も、少女の母親が飲ませてくれた甘い牛乳の対価も、アルは持っていない。


 これ以上は自分が辛くて、アルはここにはいられそうもなかった。


「お礼なんて必要なのかしら」


 そんなアルに、少女は小さく微笑んだ。愛らしい青の目が、三日月形に細められる。


「え?」

「別に私も、私のお父さんもお母さんも、マークもローズも、アルバートに何かお返しをもらいたくて泊めてるんじゃないわ。――夏に私がアルバートを見つけた時から放っておけなかっただけ。もちろん、アルバートみたいな子がまだまだランソルトに多いことは知ってるし、アルバートひとりを助けたところでどうにかなるわけでもないことも知ってる。――でもあなたのことは放っておけなかった。ほんとに、それだけのこと」


 だからお願い、と少女は願う。神ではなく、アル自身に。


「二回も約束を破ろうとしないで」



『約束して。絶対に死なないって』



 ああ、とアルは昨日の少女の様子を思い出した。あれほどにまで泣かせたのは、間違いなく自分なのだ。


「気持ちで充分なのよ」

「気持ち……?」

「そう、気持ち」


 気持ちで腹は膨れないだろう。そう思って不可解な表情を見せたアルに、少女は人差指を立てた。


「あなたが私たちに、少しでも『ありがとう』っていう気持ちを持ってくれたら、それで充分なの。そういうものよ」

「……」


 そういうものだ、と言われても、アルにはまだその意味が理解出来ない。同じ区域に住んでいるの孤児にパンを分け与えて「ありがとう」の気持ちひとつでは、割に合わないではないか。


「わからなくてもいいわ。でもね、『ありがとう』は素敵な言葉よ。一種魔法のようなものかしら。どんなに高価な贈り物より、ずっと価値があると思う」

「……」


 少女の価値観はわからない。わからない、けど。


「……コー、ディ」


 アルは恐る恐る、少女の名を口にした。初めてアルに名前で呼ばれた少女は「なに?」と首を傾げた。

 欲しがっているのなら、この場合あげるのが道理だろう。


「――」


 アルのかすかな呟きに、少女――コーディは青い目を見開くと、照れくさそうに笑って応えた。


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