アルの守れなかった約束 ~7~
「疲れているようならまだ寝てなさい。元気になるまでここにいていいから」
横になるように促す男性に、アルはふるふると首を横に振った。
「服」
「服?」
「俺の服、返してほしい。帰るんだ」
一刻も早く、裏路地に戻りたかった。ここにあるものはどれも綺麗すぎて、自分自身が汚すぎて、ひどく惨めに思えてくる。
「帰りたいんだ」
「……」
切実に訴えるアルに、男性は凪いだ視線を向ける。少女は困ったように父親と少年を見比べていた。
無礼ともとれるアルの言動に、男性は「わかった」と小さく微笑んだ。
「そろそろ乾いた頃だと思うから、すぐに取ってこよう」
「お父さん」
少女が不安げな瞳で父親を見た。男性は椅子からゆっくり立ち上がると、アルに歩み寄り、その黒髪を優しく撫ぜた。
「傷跡が腫れたり、ぐずぐずになったりしたら、すぐにここへおいで。また診てあげるから」
アルは小さく頷いて、この先二度と関わることのないであろう男性医師に、心の中で敬意を示した。感謝してないわけじゃない。ただ、如何ようにして態度に表すか、知らなかっただけだ。
ふと、少女と視線が絡む。少女の瞳は未だに不安で揺れていたが、原因不明の頬の紅潮に侵されたアルが慌てて目を逸らすと、ふ、と微笑みを向けた。
「アルバート」
真っすぐな瞳で、アルに願う。
「約束して。絶対に死なないって」
「……」
それは、アルのような子供に迫るにはあまりにも無謀な約束事だった。明日にも屋台の店主や他の大人に追い回され、乱暴され、殺されてしまう可能性もある。
約束出来ない、と一蹴してもよかった。
「わかった」
しかし、アルは了承したのだ。
そう言ってやるのが、この少女にとっては一番望ましいことなのだろうから。
少女は花が綻ぶように、みるみる嬉しそうな表情を見せる。
そしてアルの〝今は〟綺麗な手を取ると、自分の信じないその人に祈った。
「神のご加護がありますように」
そして、そういう大事な約束に限って、アルは守れないのだった。
「汚い手で品物に触るんじゃないよ!」
アルが手を引っ込めようとした瞬間、頭から冷たい水が降ってきた。
十二月十九日。少女たちと別れてから五ヶ月が過ぎようとしていた、ある雪の日のこと。
「……!」
「聞こえないのかい! さっさとどこかへ行けと言ってるんだよ!」
屋台の女店主は、たった今までたっぷり水の入っていたバケツを振り回してアルを脅した。
アルは一目散に逃げ出した。しかし、爪先までかじかんでしまった上に冷たい水をいっぱい被った身体はなかなか言うことを聞かず、何度も躓きながら、裏路地に駈け込んだ。
アルは煉瓦の壁に寄りかかると、急速に冷えていく身体を両手で抱きしめた。だが、抱きしめる手さえも冷えてしまっているので、ほとんど意味を成さない。
真冬に水を被る。これはすなわち、死を意味するに等しい。アルは戦慄した。このままでは確実に凍死してしまう。
去年凍死した知り合いを思い出す。嫌な奴でしょっちゅう言い合っていたが、凍った唇からはどんな罵声ももう飛び出してこなかった。
死ぬとはそういうことなのだ。物言わぬ屍になり、やがて朽ちてなくなる。
アルの黒髪に、しんしんと白雪が降り積もる。
それを感覚のない掌で払い落としても、数分後にはまた降り積もっているのだ。
水を吸ったぼろの服が、着実に体温を奪う。煩わしくても、脱ぐのは自殺行為だ。
寒い。寒い。さむい。
「……は」
アルは息を吐き出した。それも、何度も何度も。
誰かに気付いてほしくて。助けてほしくて。
温めてほしい。身体がだめなら、心だけでも。
『私のお家、来る?』
両手を繋いだ温もりが、ひどく懐かしかった。あの時の少女――コーディは、自分を憶えているだろうか。
絶対に死なない、と約束したことも。
「は……」
悪い、と口の中で呟く。たった一回しか会ったことのない少女と交わした、たったひとつの約束。それすら守れないのなら、このまま……
「……」
目の前に、影が立ち塞がった。影は何やら大声で喚くと、覆うようにアルを抱きしめた。
次の世界に生まれたら、自分は別の人生を望むだろうか。
「……」
どこかで見たことのある天井。背中の馴れない感覚。ベッドだ。子供三人は余裕で眠れるベッドのある小さな部屋で、アルは横になっていた。
身体がひどくだるくて、すぐに声が出ない。視線を左右に動かすことさえも億劫だった。窓の外は暗く、夕方を過ぎていることを知らせてくれる。
自分はどのくらい眠っていたのか、皆目見当が付かない。しかし腹は減っていた。眠っていても腹は減る。生きていれば、腹は減る。
「……」
生きているのだ。あんな絶望的な状況から、自分は生還したのだ。信じられない。
でも、どうやって?
カチャ、と部屋の扉が開かれる。アルはすぐに身構えようとしたが、生憎そんな体力はどこにもなく、顔を向けることで精一杯だった。
そこには、あの時の少女が桶を抱えて立っていた。
「あ」
お前、とアルは言おうとしたが、喉がかすれてほとんど声が出なかった。
少女は大きく目を見開くと、水の入っていない桶を床に取り落とした。木の床の上にカランと落ちたそれを少女は飛び越して、
「――!」
ベッドのアルに思いきり抱きつく。身体が辛いアルには少々厳しい仕打ちだが、そんなことは気にしていられなかった。
「は……?」
なぜか。
少女が泣いていたのだ。
アルは最初、どうして少女が泣いているのかまったくわからなかった。
だがしかし、すぐ自分なりに解釈する。
約束を守らなかったから、怒って泣いているのだと。
「悪い」
かすれる声を振り絞って、アルは少女に言った。少女はアルから一旦身体を離すと、手の甲で目元を拭った。
「え?」
「約束。死ぬなって……」
「……」
少女は答えなかった。ただ、黙って鼻を啜っている。謝ったのに、泣き止む気配はない。これは相当怒らせたか。アルは焦った。
「悪い。悪かった。どうすればいい?」
「……」
「どうすれば許す?」
少女は相変わらず答えない。そして、
「……ひぐっ……うぇっ」
「え」
「わーん!」
大声を挙げて、ベッド脇の椅子で顔を覆った。




