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夜の都  作者: 水澤しょう
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トムが粋な恋文を書けるようになるまで ~4~

 少女に手を引かれた十歳のアルは、痛む額を押さえながら夜の大通りに出た。

 明らかに社会的格差の大きい少年少女の組み合わせに道行く人は不思議そうに眉根を寄せたが、少女は一向に気にすることなく、ひとつの目標に向かって走り続けた。


「私のお父さんは、医者なの」

「いしゃ?」

「その怪我も、きっとよくしてくれるわよ」


 そんな神様みたいな奴がいたら是非とも会ってみたいものだ、と後ろでアルは皮肉げに思っていた。もっともアルは、神の存在など始めから信じてはいないが。


「お父さん!」


 その神様たる人物は、娘に呼ばれるまで夜の街をきょろきょろ見回していた。


「コーディ! 随分探したん……」


 振り返ったのは、それなりに恰幅のいい男性だった。着ている物は上等で品があり、立居振舞いだって英国紳士のそれである。


 アルは反射的にその男性を睨んだ。こういう金持ち風情の輩は、大抵自分たちを汚らしいものでも見るような目で冷たく見下ろして終わりだ。自然と敵意も芽生えてくる。


「……お友達かい?」


 男性はアルの姿を認めると一瞬驚いたようだったが、すぐに横の少女に尋ねた。


「ううん、そこの裏路地で見つけた子なんだけど……」

「ああ、ひどい怪我をしているね。ちょっと診せてごらん」


 腰を屈めて顔を覗きこんできた男性に、アルは慄いて一歩後ろに下がった。


「眉の上を深く切ってる。出血も多い」


 言いながら男性は、手に持っていた鞄から布らしき物と水筒を取り出した。

 そして布に水を含ませ、傷口にあてがう。


「生憎、消毒液の持ち合わせがなくてね。洗い流すだけで、今は勘弁してほしい」

「……」


 されるがままのアルは、まず額の血を拭かれ、それから掌に付いていたのも丹念に拭い取られた。その後、額に何か白い紙のような物を貼られ、そこで応急処置は終了した。


「今はとりあえずこれでいいけど、傷口から悪い菌が入っているかもしれないし、放っておくと化膿する恐れがある」


 衛生という観念がないアルにとっては意味不明な説明だったが、大変なことになるかもしれない、ということだけは何となくわかった。


「ねえ、お父さん、お家に連れて帰ってもいいでしょう?」

「そんな人を野良犬や野良猫のように言うんじゃないよ。……君、名前を何ていうんだい?」


 先ほど少女に訊かれたことと同じことを問われ、アルの頭の中に底意地の悪い台詞が浮かぶ。自分の娘に訊いてみたらどうだ、と。


「……アルバート=ハックルベリー、だ」


 ただ、手当をしてもらってそれはないなとアルのなけなしの良心が疼いた。だからさっき少女に対してもそうだったように、素直に答えてしまう。


「そうか。立派な名前だ。名前は自分が生まれて初めて持つ財産なのだから大事にしなさい」

「え」


 名前が財産であると言われ、アルは少なからず衝撃を受けた。

 なら、自分は今までひとつだけ財産を抱えて生きてこられたということか?


「では、アルバート」男性が姿勢を正し、手を差し出した。「行こうか?」


 その手を前にして、アルはかなり迷った。人を信じることは稀な人生を(たった十年だが)送ってきた。出会ったばかりのこの手を信じるのは、正しいことだろうか。


 その時、先ほど少々心を許した少女が、アルの左手を握ってきた。驚いて見ると、少女は微笑んで「大丈夫」と囁いた。

 アルはもう一度男性を見上げた。上層市民であることは既に明らかだが、きっとこの男性は、そんじょそこらの奴と違う。


「――」


 アルは唇を引き結ぶと、右手を伸ばして、男性の手を取った。


 *


 両手を誰かと繋ぐのは初めての経験で、アルは戸惑い、ふたりに後れを取ることもあった。

 それに両手が塞がっているから鼻の頭がかゆい時に掻けないし、ちっとも自分のペースで歩けない。少女より自分の方が背が低いということが顕著にわかるのも嫌だった。


 ただ、右手と左手に感じる温もりは断ち難く――


「……?」


 夏なのに、温もり? それはまた、おかしな話だ。孤児にとって温かいのは、春だけだ。夏は暑いだけだし、冬は寒くて温もりなどというものには滅多にありつけない。

 まあ、気にしないでおこう。温いものは温い。それでいい。


 アルは知っている。

 この世には天使も神様もいない。

 でも、自分にはコーディがいて、リード医師がいる。

 今でもアルは、そのことに心の奥深くから感謝しているのだ。


 *


 ノックの音がして、アルは目を覚ました。額がなぜか痛い気がする。見回すとそこは自分の家で、アルは長椅子で横になっていた。

 ベッドではトムとジョゼが寄り添って眠っており、規則的な呼吸音が聞こえる。


「……いけね」


 外はすっかり暗くなっていた。眉の上を押さえながら玄関に向かうと、


「誘拐事件として受け取れということかしら?」


 一も二もなく睨まれた。ごめん、とアルは素直に謝る。


「昼間に行った時は、奥方もマークもローズもいなくて。ここでしばらく時間潰そうと思ったんだけど……」


 後ろの子供たちを見やる。コーディはその様子と、アルの寝起き顔を見比べて、大体の事情は察してくれたようだった。


「……ところで、おでこどうかしたの?」

「え?」


 傷口を押さえる手に気付いたコーディが、ふと問う。アルは慌てて手を下ろすと「なんでもない」と誤魔化して彼女を家に上げた。


「奥方が心配してるだろ。すぐに連れていく」

「その前に話があるわ」


 誰に? と訊くより早く、コーディがベッドに歩み寄った。縁に腰かけ、「ジョゼ」と静かに呼びかける。

 真っ先に目を覚ましたのはトムだった。道端育ちゆえか音に敏感なトムはパチッと目を開けると、


「コーディ先生!」


 と身体を起こした。どちらかというとトムの声で夢から覚めたジョゼも、「コーディお姉様……?」とまどろみながら起き上がった。

 ジョゼを見つめるコーディの表情は、どこか厳しい。子供にはめっぽう甘い彼女がこんな顔をするということは、


「……ジョゼ」


 ジョゼが、


「あなた……お家の人に何も言わずに出てきたでしょう」


 なにかいけないことをしたということだ。


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