トムが粋な恋文を書けるようになるまで ~1~
第二夜 トムが粋な恋文を書けるようになるまで
「トムを学校に行かせたいんだけど」
コーディがそう切り出したのは、病院の子供たちと遊び疲れて眠りに落ちたトムを、彼女の家から連れて帰ろうとした、まさにその時だった。
「……学校?」
背中に負ぶさったトムに、ふたりの会話は聞こえていない。アルは怪訝な顔で聞き返した。
トムがやってきて数週間の二月。ようやくお互いふたり暮らしに馴れてきたところだ。
「飽くまで私的な希望なんだけどね」
「やっぱり、面倒見るの大変だったか?」
「そうじゃなくてよ」
コーディの話はこうだ。トム含む小児病棟の子供たちは、角部屋の住人、最年長のアンディーに絵本を読んでもらうのが常らしい。
しかし、今日読み聞かせをしてもらっている最中、アンディーの診察の時間が来てしまい、絵本はそこで中断。
十数分後、コーディとアンディーが一緒に病室に戻ると、
「しかし、に、二番目のお姉さんの足も、ガラスの、く、靴には入りませんでした。そこでシンデレラに、こ、声がかかりました……」
まだ文字の読めないはずのトムが、アンディーの代わりに、読み聞かせをしていたのだ。
驚いたコーディが、トムに識字能力の有無を尋ねると、彼は得意気に答えたそうだ。
「憶えたんだよ! このお話はアンディーにもコーディ先生にも、いっぱいいっぱい読んでもらったから!」
そこでコーディは確信した。
「トムはね、すごく頭がいい子なんだと思う」
「だから学をつけよう……ってか。別に俺は、どちらでもいいけどな」
今日の出来事を聞き終えたアルは、少し感心したように背中のトムを見やった。
「世の中成功するのは、学のある奴じゃなくて、頭のいい奴だって、聞いたことがあるぞ」
「学があるってことは、頭がいいってことじゃないの?」
「間違い。学があっても頭の悪い奴なんて腐るほどいる」
だからこんな世の中なんだろ。という一言は、彼女に向かって言うにはあまりにも厳しいし、違う気がしてやめた。
「……とにかく、ちょっとでいいから考えてみて。せっかく今の時代、学校タダなんだから」
「わかった。明日シフトないから、話し合ってみる」
アルはトムを負ぶり直すと、じゃ、と片手を挙げた。
「今日も一日ありがとな。……おやすみ」
「……おやすみなさい」
コーディも腕組みを解くと、小さく手を振った。
トムと過ごした後のコーディは、どこか優しい目をしている。とアルは思う。気のせいかもしれないが。
しかし、こうして彼女の穏やかな表情を見ることが出来るのだから、トムに感謝である。
「そっか……明日来ないの」
ただ、背中のトムに向けられた名残惜しさを、自分に向けられたもののように勘違いしそうになるから、その点はふたりとも勘弁してほしい。
*
もうすぐ家に着くというところで、トムが「アル……?」と目を覚ました。自分の左肩に置かれた頭がもぞもぞと動く。
「もう着くぞ」
「……」
夢うつつの中、トムは眠たげな顔で、じっとアルを見つめていた。
「どうした?」
気になって尋ねると、トムはアルの前髪を軽く掻き分けて、
「ここ、怪我したの?」
古傷に触れてきた。左眉の上にあり、普段は髪の下で見えない、切り傷のようなその痕。
「……ずっと昔にな。自業自得だよ」
アルは自嘲気味に言った。
「まだ裏路地にいた頃、屋台の肉をかっぱらおうとしたんだ。そこで怒った店主がブリキのバケツを投げつけてきたんだよ。そしたら見事に額を切ったってわけだ」
「痛かった?」
「痕になるくらいだからな」
実際、あの時自分を襲った感覚は、痛みというより恐怖だった。
次から次へと血が垂れてきて、止まらなくて、ものすごく焦った。自分はどうなってしまうのだろうと思った。
「――夏の、夜だったな」
イギリスの夏だから、陽は長いはずだが、暗かった憶えがある。つまり、相当遅い時間だったということだ。
額を押さえてうずくまるアルに、声をかける少女がひとり。
「あなた……」
「!」
傷付いて警戒心が強くなっていたアルは、即座に少女と距離を取った。その瞬間にも、ぽたぽたと血が落ちる。
「誰だ!」
「……」
まるで獣だな、と今のアルは過去を振り返る。すべてを敵に回し、牙を剥く、孤独で幼い獣。
声をかけてきた少女は驚いて一歩後ろに下がった。
茶色が混ざった金髪と、暗がりでよくわからないが恐らくは青い瞳。それと小綺麗な服。
みんなみんな、自分にはないものばかりだった。
「怪我、してるの?」
恐れ慄きながら、少女は尚も声をかけてきた。
「……」
お前に答える義理はないだろう、という冷たい台詞がアルの頭に浮かぶ。
しかし、それを彼女に言ってやる気は起こらなかった。別に彼女はアルに害を加えたわけではないし、自分が怪我をしているのは一目瞭然だったのだから。
その代わり、疑問が生じた。
大方の富裕層は、アルのような子供を見ると「汚らしい」というように顔をしかめてくる。
しかし、この少女はそんな様子を見せない。
なにか裏があるのか。アルはさらに警戒心を強めた。人売りに連れ去られた仲間を何人か知っている。
少女は手を差し伸べて、
「名前はなんていうの?」
と尋ねてきた。
……今となっては、どうしてだかわからない。
しかし、この時のアルは、なぜか、
「……アルバート=ハックルベリー」
正直に答える気になれた。
その判断は正しかったらしい。少女はアルの名を聞くと、ふ、と微笑み、
「素敵な名前」
と小さく言った。