夜の拾得物 ~1~
第一夜 夜の拾得物
「おはようございますっ!」
十九世紀末のイギリス、ランソルト。
そこにある軽食屋の裏口が勢いよく開き、始業準備を始めていた従業員達が瞠目した。
オーナーの老婦人、アンナ=マーチが、厨房の点検を一旦やめて、駈け込んできた青年に優しく声をかけた。
「アル、あなたにしては遅かったじゃない」
アルと呼ばれた青年が、息を切らしながら謝罪する。
「すみません、寝坊してしまって」
「謝らなくていいのよ。遅刻じゃないんだから」
アンナは微笑みながら近付いてくると、声を落として、
「昨夜はクリスマスイブだったから、なにかいいことでもあったのかしら」
「……」
アルバート=ハックルベリーは曖昧に笑って返すと、自らも始業準備に取り掛かった。
「先輩も隅に置けませんねえ」
ダニエルが隣に擦り寄って囁いた。アルの五つ下で十七歳のダニエルは『アンナの家』で一番若く、みんなの後輩にあたる。
アルは苦々しい顔でダニエルに向くと、
「残念ながらお前が考えているようなお楽しみ的なことは一切ないからな」
「またまた~」
「……」
「……すみませんっした」
再び、テーブルクロスを掛けたり窓を開けたりして、始業準備に戻る。
「そう言えば先輩、今朝の新聞見ました?」
ダニエルが椅子を下ろしながら問う。
「すっごいこと書いてありましたよ」
「残念ながら急いでたからな。そんな余裕はなかったよ」
「怪盗ベルが犯行予告場所に現れなかったんですよ!」
アルの頬筋がピクリ、と反応する。しかしダニエルは、アルのそんな様子に気付くこともなく喋り続ける。
「今までこんなことなかったんですけどねー。怪盗ベルを目の敵にして追い回しているアーノルド警視が『奴は怖気付いたんだハッハー!』って自慢げに記者に語ったそうです」
「……ふーん」
アルは働く手を止めずに、気のない返事をした。
「まあ、怪盗も他にいろいろ用事でもあったんだろ。昨夜はイブだったわけだし。それこそお前の考えてるようなお楽しみでもあったんじゃねーか」
「そうですかねー? あ、でも怪盗ってモテそー!」
さすがに自分で自分を「怪盗」だとわざわざバラす怪盗もいないだろうが、というつっこみは封じ込めておく。
「まあ、でも、なにがあったんでしょうね?」
返答する人間もいない中、ダニエルの疑問が宙を舞う。
アルは厨房に引っ込むと、皿を取りやすい位置に並べながら、「あのおっさん……」と小さく悪態を吐いた。あのおっさん、とはもちろん、あの太った警視殿である。
別に怖気付いたわけではない。
確かに昨夜は、ローゼンストック家に向かう途中だったのだ。
ただ、あの晩は運が悪かったのだ。
「寒かったのに収穫はゼロとか、一番辛いってーの」
ローゼンストックは、悪徳政治家で、市民から金を巻き上げてばかりいる。自分はその夜、彼の家に飾ってある何とかという有名な画家の絵を盗み出すところだったのだ。
しかし……計画が実行に移されることはなかった。
ある『拾得物』のせいで――
*
アルは自分の家の屋根から、ランソルトの街並を見渡した。
どこの家にも温かな光が点り、子供たちは赤い服に白ひげの老人を待ち侘びている。
しかし、そんな子供たちばかりでないことを、アルはよく知っている。
「……」
黒い服に黒い外套。顔の下半分は黒い布で覆っている。アルは元来、髪も瞳も黒いので、こういう格好をしていると夜の闇に溶けていきそうなほど真っ黒になる。
怪盗ベル。ランソルトの夜を駈ける大泥棒。
悪党しか狙わず、獲物を貧しい民衆に分け与える、言わば義賊だ。
この聖なる夜に、怪盗ベルは――アルは、今年最後になるであろう仕事に取り掛かろうとしていた。
「ルートをどうするか悩むな……」
狙っている屋敷の周りは市警が見張っている。アルは屋根を渡り歩くか、裏路地を行くしかなかった。
裏路地はアルにとっては庭のようなもので、どこから入っても迷うことはない。
「っと」
表の道に顔を出したアルは、市警の多さに思わず引っ込んだ。警視殿はどうやら本気のようだ。
どう出るか。考え込むアルの耳に、それは届いた。
人間の息遣い。アルはバッと振り返り、背後を確認した。
が、誰もいない。しかしその呼吸音は、微かに、だが確実に傍から聞こえてくる。アルの視線はしばらく宙をさまよい、そして地表付近で止まった。
それは、小さな小さな子供だった。
「――」
壁に沿って、地面に寝転んでいるのは、五、六歳の(孤児は大概身体が小さいのでもっと上かもしれないが)黒髪の子供だった。
アルはその場を立ち去ろうとした。ランソルトにこういうストリートチルドレンはいくらでもいる。いちいち同情してもきりがないし、自分が辛い。だからアルは、かつて自分がそうされたように、なるべく関わらないでいる。
「は」
アルの背中に、息を吐く音が届く。足を止めた。止めさせられた。
「は……」
ゆっくりと、顔を向ける。
子供は、男の子だった。薄い麻袋のような(服ですらないと思える)服を着て、震えながら、声の代わりに息を吐き出す。
気付いて。
助けて。
寒い。寒い。さむい。
真冬の夜に、そんな薄着で外にいることがどれほど苦痛か、アルは知っている。
「は……は……」
吐き出される白い息が、アルの足をそちらに向かせた。
「……」
外套を脱ぐ。アルはしゃがみ込むと、子供の身体を抱き起こした。
その身体の冷たさに、アルは驚きこそしなかったが、胸部をぎりぎりと締め付けられるような痛みに襲われた。
寒すぎて、身体が冷えすぎて、熱すら出ない。
自分の体温の残った外套で包み込むと、子供は薄く目を開けた。暗くてよくわからないが、自分と同じ、黒い瞳のようだった。
「……黒、か」
「は」
「喋るな。喉がやられている」
「……」
「嫌でもいい。一緒に来い」
アルは子供を腕に抱くと、その裏路地を駆け足で去った。
*
「……」
「……」
「…………別れた女の家に子供を連れてくるなんていい度胸ね。あなたいつ結婚したのよ?」
「俺の子じゃない!」
コーディリア=リードは自らがひとり暮らしする家の玄関で仁王立ちになると、訝しげにアルと子供を見据えた。
「裏路地で拾ったガキだ。身体が冷えすぎて熱すらないし、今は呼びかけても反応がない」
「あなたの子供じゃないことくらいわかってたわよ、もう」
コーディは子供を奪うように抱きかかえると、自分の寝室に駈け込んだ。アルもその後を追う。
「桶がそこにふたつあるから、そこに水汲んで、片方は温めてお湯にして。手で触れて少し熱い程度」
「手拭いは?」
「それも」
コーディは、子供を包んでいたアルの外套を椅子に掛けると、ベッドの毛布をどかせて、そっと子供を寝かせた。アルは急いで台所に向かう。
「……ひどいのを連れてきたわね。肺炎とかだったら、お父さん呼ばなきゃ」
コーディは、まだ見習いでこそあるが、優秀な医師である。父が有名な町医者であるため、彼女はいつか、その跡を継ぐのだ。
服(麻袋)を脱がせ、裸になった子供を毛布で包む。
少し寒いと感じたコーディがストーブの火を大きくした時、台所からアルがやって来た。
「これでいいか」
「上出来」
コーディはお湯と手拭いを引ったくると、手拭いをお湯に浸し、子供の身体を頬から丹念に拭いていった。
改めて、子供の顔を横から覗き込む。ぼさぼさの髪は伸びっぱなしで枕に広がっており、身体から垢の匂いもしてくる。自分もこんなだったな、とアルは少々懐かしくなった。
肌は白く、髪色とコントラストになっていた。右の眉尻と目尻に、ひとつずつほくろがある。女の子に間違われても文句は言えない顔立ちだ。
「珍しいわね。あなたが見知らぬ子供を拾ってくるなんて」
コーディが手際よく子供の身体を拭きながら、一瞬だけアルを見やる。
「それに今日は予告日じゃなくって? すっぽかしてきたの?」
「いろいろ訳有りなんだよ」
「どんなわけよ。どうせこの子が自分と似ていたから、くらいの理由でしょ」
痛いところを突かれ、アルは黙り込んだ。
「助かるかどうかわからないわよ」
難しい顔で、コーディが正直なところを呟く。アルは桶を持ち直すと、「わからなくてもいい」とはっきり言う。
「俺も出来ることはする。なんとか助けてやってくれないか」
「誰も助けないとは言ってない」
コーディは一旦部屋を飛び出すと、様々な医療道具を抱えて戻ってきた。
「これでも医者の端くれよ」