六
家から出て約十五分ほどで、目的地へ着いた。十五分間歩いただけで、汗が滲む。
話す場所は僕に任せるとの事だったので、家からそう遠くない喫茶店を選んだ。
〔珈琲 紅茶〕
店名はなく、たったそれだけの看板しかない、個人経営の喫茶店だ。地元民からは愛されていて、大繁盛とまではいかないものの、それなりに客も入っている。
ここのアイスコーヒーはオリジナルブレンドをウォータードリップで淹れていて、少なくとも僕の知る限りではここらの喫茶店で一番おいしい。それから店主が暑がりで、冷房を強めに設定している、というのがこの店を選んだ理由だ。大きな店ではないが、カウンター席の他に、四人がけのテーブル席も壁に沿って六つある。わいわいと騒ぐ人など来ないし、二人で話をするにもちょうどいいだろう。
僕が店に入ったとき、カウンターに数人の客と、テーブル席の一つに華奢な女の子が座っていた。まだ約束の十分ほど前だが、緊張した面持ちで飲み物を啜っている。
夏にそぐわしいショートパンツにレギンス、上は少し大きめの、英字が印刷されたTシャツ。外側へ向かって跳ねた髪がまた、小花の活発さを印象づける。
初めて私服姿を見るせいか、不覚にも僕はどきりとした。
動揺を抑えて、片手を挙げ、声をかける。
「ごめん、待たせたかな」
小花は驚いた様子で、一瞬周りを見回してから自分への呼びかけだと気づいたようだ。
「え? あ、泰都君! ううん、私も来たとこだから」
そう言う割には、飲み物……紅茶はもうほとんど飲んでしまっていたようだが、まぁ気遣いを無碍にすることはない。
僕はお気に入りのオリジナルブレンドのアイスコーヒーを注文し、小花は紅茶のおかわりと、チーズタルトを注文した。
「小腹が、空いちゃって……」
と、小花は頬を赤く染めて言う。
その照れた笑顔は、例えば女の子がアクセサリーを見て可愛い、と言うように、自然に僕にそう思わせた。
注文の品が来るまでの間、なんとなく無言のままでいた。小花は膝の上で組んだ手をじっと見ている。
新たな来客を知らせるドアベルが鳴った頃、アイスコーヒーと温かい紅茶、花のような形をした小振りのチーズタルトが運ばれてきた。
小花はタルトを一口と、紅茶を口に運んだ後、小さくため息をついて、話し始める。
「ごめんね、こんな暑い日に、わざわざ呼び出して」
「いや、いいさ。僕も話しておかなくちゃいけないと思っていたし」
ほっとした様子で、小花は、そっか、と呟いた。
「この店、雰囲気いいね、ちょっと冷房がきついけど」
「そうか? 僕はこれくらいがちょうどいいよ」
「暑がりの泰都君らしいね」
小花は笑って応えてくれる。
雑談もそこそこに、小花が切り出す。
「ねぇ、泰都君。ここ三日間で、変わったことは、あった?」
とぎれとぎれに僕に問う。
変わったこと。もちろん、脅迫状が送られてきたことが一番大きい変わったことだ。
僕の方も覚悟を決めて、少し声をひそめて小花に言う。
「なぁ小花。遠まわしな話は止めにしよう。つけられているんだろう?」
「……え?」
小花は僕からのこの言葉を予想していなかったようだ。構わずに続けた。
「昨日、この便箋が靴箱に入れられていたんだ。多分、小花をつけている人が、一緒に帰った僕を妬んだんだと思う」
僕は覚えていた帰り道の彼らの話をし、自分で考えられた範囲の事柄を説明した。
小花は応えないまま便箋を見つめている。 しばらく経ってからこう言った。
「……なるほどね、そういうこと、か」
さっきまでの赤みがかった表情ではなく、むしろ色で言うなら青いくらいに落ち着き払った表情だ。けれど僅かばかり口角が上がっているような……。
小花の態度が不思議で、僕は違和感を感じた。これは、自分がつけられているという事実に怯えた、という顔ではない。それだけは僕にも想像がつく。
暑がりの僕にとって、ちょうどいいはずの冷房なのに、額には汗が滲む。
正体のわからない焦燥に駆られ、落ち着きを取り戻す為にも一度席を立つことにする。
「あ、ごめん、ちょっと手洗いに行ってくる」
「……あ、うん」
小花は何か考えている様子だったが、構わずに立ち上がる。
「なんとかしておくね」
背中に聞こえた小花の言葉は、更に僕を惑わせた。考えがぐるぐる回ってまとまらない。けれど、足を止めずに、手洗いへと向かう。
冷や汗の浮かんだ額が気になって、一度顔を洗った。ハンカチで水を拭いながら、整理する。
小花が僕を呼んだ用件はストーカーの話ではなかった。それどころか、自分がつけられていることも知らなかったようだった。
これでは辻褄が合わない……僕の考えは何処かで間違っているのか。
四、五分経っただろうか。手洗いで長く待たせるのは、何か気まずい。未だ考えがまとまらないまま僕は手洗いを出る。
だが、戻ってみると、小花がいない。
アイスコーヒーの氷が、からん、と音を立て、溶けていく。
「マスター、ここにいた女の子は?」
冷房が直接当たる位置で涼んでいた店主に訊いた。
「君と一緒にいた女の子かい? 君の後で入ってきた、帽子を目深にかぶった人と出て行ったよ。あ、君の分の会計も済ませて行った」
嫌な予感が走った。そう言えば注文の品が運ばれてきたとき、ドアベルが鳴っていた。あのとき入ってきたのがストーカーだったのか。
小花がつけられていることを知らなかったとしても、僕に便箋を送りつけた人間はいる。つまり、少なくともストーカー自体は存在するのだ。
僕は慌てて店を飛び出そうとする。
が、そのとき、店主が付け加えた。
「あぁ君、ここを動かず待っていてくれと、彼女から伝言があったよ」