始まりの消失
大陸暦5万と205年。
「さぁ……始めようか」
その声を合図に二人の男と一人の女は詠唱を始めた。
女の詠唱が終わったとき、二人の男の体は白い霧で包まれた。
《増幅》だ。
詠唱を終えた男は、一人は天高く腕を突き上げ、一人は目を瞑った。
今まで晴れていた空は見る見るうちに暗くなり、雨風が吹き荒れ、雷が地上へ降り注いだ。
あまりに無差別なその魔法を敵軍だけに向けるため、目を瞑った男は精神を研ぎ澄ませた。
《天災》と《集中》の魔術師だ。
詠唱を始めてから5分と経たず、北大陸の境界付近にある町、パロマは火の海となった。
平和の象徴であったその町の消失は、平和の時代の消失であった。
――北大陸
「国王! 南大陸の攻撃によりパロマが落ちました!」
「……」
「国王! 同じくコロンベが!」
「……」
「国王! 今しがたドーベが!」
「……」
「ポムバが落ちました!」
その最後の報告を聞くまで、国王は無言であった。
こうなることが分かっていたからだ。
平和の象徴として大陸間の国境付近に立てられていたその町々が初めに狙われるのは、分かりきったことだった。
町人は避難をさせてあったし、それらの町を代償に、相手の出方を窺う作戦でもあった。
「残るはタウブか……」
パロマ、コロンベ、ドーベ、ポムバ、タウブの五つは「5大平和都市」の名で知られていた。
その中で最も小さいタウブが落ちていないことに、国王は少しばかりの疑問を感じた。
時間の問題だとは思ったが、真っ先に狙われてもよさそうなものだ。
「何事もなければいいが……」
――タウブ
「第3魔術小隊、反応消失!」
「第2魔術中隊、音信途絶!」
「敵魔術師、距離3000切りました!」
さっきから耳に届くのは、どれもこれも絶望的なものばかりだった。
相手はまるで、こちらの不安や絶望が膨らむのを楽しむように、少しずつ、しかし確実に町へと近づいていた。
「全隊に通達! 一時後退! 態勢を建て直し、総攻撃をかける!」
マルク=ラザーンは伝令魔術師に大声で言った。
本来ラザーンは北大陸王族親衛隊総隊長であるから、このような最前線に配備されるわけはなかった。
今、ラザーンが指揮するこの部隊も、彼直属の部隊ではなく、タウブ防衛部隊+彼の側近数名であった。
「敵、距離1500切りました!」
「味方部隊、後退完了!」
「敵、詠唱開始!」
「ジックたちに止めさせろ! 召喚系魔術を使えるものはバンダを召喚! 残りはジックらの援護!」
勝っても負けても、ラザーンに得することは何もなかった。
負ければもちろん死だ。
しかし、勝ったとしても国の作戦を無視したわけで、追放は免れないだろう。
こんなこと、神の命令であろうとするわけはなかった。
しかし、ラザーンにこの任務を与えたのは12歳の少年たちであった。
その少年たちはラザーンに涙ながらに言った。
「助けてあげて……」
情が深すぎるのが自分の悪いところだと思った。
しかし、たった12歳の少年たちが全く知らない他人の身を案じているその目は、彼を動かすのに十分すぎる説得力を持っていた。
確かに町人は全員避難していた。
しかし、たとえ命が助かったとしても、自分たちの生まれた地、育った地がなくなるというのは、あまりに残酷なことだ。
一度消えてしまった故郷を復活させることはできないのである。
おそらく二人の少年はそのことが分かっていたのであろう。
たとえそれが、自分の父親を中心とした者たちが考えたことであっても、村を犠牲にする作戦などというものに心を痛ませずにはいられなかったのであろう。
そうして思わず引き受けてしまった。
後悔しているつもりはないが、それに巻き込んでしまった自分の部下数名には申し訳なく思った。
「せめて……生きて帰ろう」
「ジック隊長! 総隊長から伝令! 詠唱を阻止せよとのことです!」
「分かった。魔術部隊《風の衣》いくぞ!」
ジックに続いて5人の魔術師が動いた。
「おそらく一番後方にいるやつは補助系だ。手前二人の詠唱を止めることを最優先とする。」
走りながらジックは部下たちに言った。
遠くに詠唱時に発生する光が見えた。
ジックは懐から小刀を取り出し、両手に構えた。
と、急に光が消えた。
詠唱が終わったのだ。
「早い!」
本来魔術は、その大きさによって詠唱時間が変わる。
長ければより強力な、短ければ小さな魔法だ。
てっきり自分たちを全滅させるための魔法を使うものだと思っていたが、詠唱を阻止するために出てきた者だけを倒す魔法だったのだ。
ジックたちの目の前で、バンッと何かが爆ぜる音がした。
次の瞬間、大きな目に見えない衝撃波が6人を襲った。
魔術部隊《風の衣》。
ラザーンの側近6人で構成されるその部隊は接近戦に長けていた。
その風のごとく速さで瞬く間に相手を切り裂くのだ。
そしてもう一つ。
彼らは《無風》の魔術師でもあった。
一切の風の動きを彼らは無視することができた。
もし衝撃波が炎や電気を帯びていたら終わりだったが、幸いにもただの衝撃波だったらしい。
彼らは一気に相手との距離を詰めると前方の二人に切りかかった。
前方の一人が衝撃波の魔法を使ったらしく、他の二人は詠唱の途中だった。
前方にいる詠唱中の魔術師は詠唱を解いて、懐からなにやら武器を取り出そうとしたが、ジックは構わず懐に飛び込み、心臓を一突きにした。
素早く小刀を抜くと、鮮血が噴出すのと同時に反転し二人目に切りかかろうとしたが、すでに部下の手により、胸から血を流して倒れていた。
残りは一人。
後方、少し離れたところでいまだに詠唱を続けている。
部下二人が今まさに切りかかるのが見えたが、一瞬敵の姿が陽炎のようにゆらいだ。
待て! と声が出掛かったときにはすでに遅かった。
相手の体に剣先が触れた瞬間、ものすごい音を伴った爆発が起こった。
耳を劈くような音に遅れることコンマ何秒後、炎の波がジックたちを襲った。
ジックは自分の後ろにいる部下3人を自分のマントの下に押し込んだ。
その波はジックたちの後方にいる本隊にまで及んだが、威力は幾分小さくなっていたし、防火仕様のマントを着用していたためそれほどの被害は出なかった
炎の波が去った後の地面には、燃えた草がプスプスと音を立て、さっきまで緑掛かっていた大地は、深い茶色一色になっていた。
《誘発》の魔術師バグ=クローサーはその光景を少し離れた丘の上から眺めていた。
「防火仕様のマントか……。まったく見事に魔力の差を技術力で埋められているな。うちのお上は何をしているんだか」
口元に苦笑いを浮かべたあと、顔の前で小さく手を合わせ静かに目を瞑り、そして戦場を後にした。
ジックは目を覚ますと、自分がベッドに寝かされていることに気づいた。
「お、起きたか」
ラザーンがベッドのそばにある椅子に座っていた。
「総隊長……」
「痛み止めが効いてはいるが、絶対安静だぞ」
背中に微かに感じる鈍い痛みが、ジックたちの身に起こったことを思い出させた。
「……みんなは?」
「ライ、ルージュ、アイザックは無事だ」
「……」
それ以上聞きたくはなかった。
「……寝ろ。」
そう言ってラザーンは医務室を出て行った。
言われるまま目を閉じた。
枕にはっきりと濡れた跡ができた頃、ゆっくりと眠りに落ちていった。