小さな反逆
第一章 幹事
「──だから関口さんに言ってるんでしょ⁉︎」
田山さんの甲高い声が、オフィスの空気を切り裂いた。周囲の視線が、まるで針のように私の背中に突き刺さる。パソコンのモニターを見つめるふりをしている同僚たちの横顔が、私の視界の端でぼんやりと揺れている。
はぁ……。
私は心の中で、もう何度目かわからない溜息を吐いた。口から本当に漏れてしまったら、田山さんの機嫌をさらに損ねるだろう。
デスクの下で、私は自分の膝をぎゅっと握りしめた。手のひらに爪が食い込む痛みで、かろうじて平静を保つ。
急にそんなことを言われても困る。
心の中で呟く言葉は、当然、声には出せない。
「関口さんしかいないんだから」
「今年は関口さんがやるべきよ」
──関口さん関口さん、うるさい。
私の名前が、まるで呪文のように繰り返される。田山さんの口から発せられる度に、その言葉は重さを増して、私の肩に降り積もっていく。雪のように。いや、雪よりももっと冷たく、もっと重い何かが。
「……わかりました。……やります」
私の声は、自分でも驚くほど小さく、か細かった。まるで地面に落ちた木の葉のように。踏まれることを待っているだけの、抵抗する力も持たない、ただの枯れ葉。
「最初からそう言えばいいのよ」
相手──人事部の田山さんは、吐き捨てるように言って、ハイヒールの音を響かせながら私の席からようやく立ち去ってくれた。カツカツカツという音が遠ざかっていく。その音が完全に消えるまで、私は身動きひとつできなかった。
オフィスに、いつもの機械音が戻ってくる。キーボードを叩く音、プリンターの駆動音、誰かの電話の声。でも、私の耳には、それらすべてがどこか遠くから聞こえてくるようだった。
──当番。
毎年誰かに回ってくるもの。
今年はどうやら私にお鉢が回って来たらしい。
天井の蛍光灯を見上げる。白く無機質な光が、容赦なく降り注いでいる。この光の下で、私はまた一つ、望まない役割を引き受けた。三月の午後、春はもうすぐそこまで来ているはずなのに、オフィスの中は相変わらず無機質で、季節感のかけらもない。
だが私はやりたくなかった。
本当に、心の底からやりたくなかった。
職場のパーティーの幹事なんて、やりたい人間なんているのか? 胸の内で問いかけても、答えは返ってこない。この静かなオフィスの中に、その問いに「はい」と答える人間が、果たして何人いるだろうか。
そもそもパーティー自体、参加したい人間はいるのか? 皆が望んでいることなのか?
違う。答えは明白だ。
皆が嫌々ながら参加していることを、私は薄々知っていた。いや、知っていた、というより、肌で感じていた。パーティーの後、翌日の朝、オフィスに漂う疲労感と安堵の入り混じった空気を。「終わった」という、まるで試練を乗り越えたかのような、あの独特の雰囲気を。
パーティーにはドレスコードもある。
私のクローゼットには、年に二回しか袖を通さない、黒いワンピースが掛かっている。それを見る度に、胸が重くなる。あの服は、私にとって制服のようなものだ。いや、制服以上に窮屈で、息苦しい。あの服を着ると、私は私でなくなる気がする。
隅っこで細々と仕事をこなし、学生時代からひっそりと生きてきた私に、幹事なんて務まるとも思えない。
私はずっと、そうやって生きてきた。目立たないように。波風を立てないように。誰かの視線を集めないように。教室の一番後ろの席。廊下の端。人混みの中。常に私は、そこにいるようでいない、そんな存在だった。
そんな私が、何十人もの社員の前に立って、司会進行をする? 出欠を確認して、お金を集めて、パーティーを取り仕切る?
想像しただけで、手が震える。
私が幹事をやったところで、パーティーとやらはめちゃくちゃになる未来しか見えない。
頭の中に、惨劇のような光景が浮かぶ。段取りを間違える私。マイクの前で言葉に詰まる私。冷たい視線を向けられる私。そして後日、「今年の幹事は最悪だった」と陰で囁かれる私。
いっそめちゃくちゃにしてやろうか。
ふと、そんな破滅的な考えが頭をよぎった。パソコンのモニターに映る自分の顔を見る。疲れた、諦めたような顔。三十二歳の、どこにでもいる会社員の顔。
窓の外では、街路樹の枝先に、小さな新芽が芽吹き始めていた。春。新しい季節。でも私の心には、相変わらず冬の冷たさが居座っている。
*
我が社は年に二回、高級ホテルでパーティーが開かれる。
春と秋。桜の季節と紅葉の季節。本来なら華やかで心躍る時期のはずなのに、その時期が近づくと、社内には独特の重苦しい空気が漂い始める。
都心の一等地に建つ、創業百年を超える老舗ホテル。エントランスに一歩足を踏み入れれば、別世界が広がっている。シャンデリアの光、赤い絨毯、大理石の柱。そこは確かに美しい。でも、その美しさは、私たちを拒絶するような、冷たい美しさだった。
社長挨拶に始まり、その年に入社した新入社員の挨拶、勤続年数の長い者や功績をもたらした者への表彰、ビンゴゲーム大会など。
プログラムは毎回同じ。まるで儀式のように。いや、儀式そのものだった。誰も意味を問わない、ただ繰り返されるだけの儀式。
席はくじ引きで決められ、丸テーブルに男女交互に座らされる。
知らない部署の、話したこともない人の隣に座らされる。気まずい沈黙。無理やり絞り出す会話。「お仕事は何を?」「どちらの部署ですか?」型通りの質問と、型通りの答え。
そして、女性は男性にお酌をして回るのが慣例だ。
この二十一世紀に。令和の時代に。それでも、この会社では、当たり前のように、女性がグラスを持って立ち上がり、テーブルを回る。「お飲み物、いかがですか」と笑顔で尋ねる。男性社員たちは、それを当然のように受け入れる。
実に前時代的。
ため息が、また漏れそうになる。
……しかし幹事って、何をすればいいんだろう。
私は、デスクの引き出しから、小さなメモ帳を取り出した。学生時代から使っている、表紙の角が擦り切れたノート。ページをめくり、新しいページにペンを走らせる。
出欠確認?
お金の徴収?
パーティーのお知らせメールの送信?
当日の受付業務?
当日の司会進行?
くじ引きで使うくじ作り?
書き出してみると、やるべきことの多さに、くらくらする。これを、通常業務と並行してやるのか。しかも一人で。
──分からない。
私が思いついたのはそれくらいだ。きっと、他にもやるべきことは山のようにあるのだろう。でも、それが何なのか、私にはわからない。
窓の外を見る。隣のビルの窓ガラスが、夕日を反射してオレンジ色に輝いている。もう四時を過ぎている。時間だけが、容赦なく過ぎていく。
こうなったら、聞くしかない。
でも、誰に?
田山さんには聞きづらかった。
あの人に聞いたところで、良い結果になるとは思えない。「あなた、そんなことも知らないの!?」と、あの甲高い声で責められるのが目に見えている。そして肝心の業務内容は教えてもらえず、「自分で考えなさい」と突き放されるのが関の山だ。
昨年の幹事、山本さんはすでに退職している。
山本さん。営業部の、いつも穏やかで優しかった山本さん。彼女なら、きっと丁寧に教えてくれただろう。でも、彼女は半年前に退職した。結婚のため、と聞いた。パーティーの幹事を経験した後で。
もしかして、あれが最後の引き金になったのだろうか。そんな想像が、頭をよぎる。
パソコンで社内の共通フォルダ内を探したが、マニュアルらしきものも特になさそうだ。
フォルダを一つ一つ開いていく。「総務」「人事」「経理」。どこを探しても、「パーティー」というフォルダはない。もしかしたら、誰かの個人フォルダにあるのかもしれない。でも、それを探し当てる手段が、私にはない。
画面を見つめながら、無力感が押し寄せてくる。
一昨年の幹事は誰だったっけ……?
記憶を辿る。一昨年の春。誰が受付にいたか。誰が司会をしていたか。でも、思い出せない。そもそも、私はパーティー中、ほとんど下を向いていた。早く時間が過ぎることだけを願って。だから、誰が幹事だったかなんて、覚えていない。
こうなったら他の人に聞くしかない。
オフィスを見渡す。夕方の、少し疲れが見え始める時間帯。皆、それぞれのデスクで、黙々と仕事をしている。その誰に声をかければいいのか。
私は、隣の席の宮田課長に聞いてみることにした。
宮田課長は、私の直属の上司ではない。でも、席が隣だから、という理由だけで、時々雑談をする仲だった。いや、雑談、というより、一方的に彼の愚痴を聞かされる、という方が正確かもしれない。
「あの、宮田課長。今よろしいでしょうか?」
私は、できるだけ丁寧に、でもできるだけ小さな声で尋ねた。
宮田課長はあからさまに嫌そうな顔をした。眉間に皺を寄せ、口角を下げる。面倒事はごめんだ、という顔。その表情を隠そうともしない。
「……なに?」
低く、面倒くさそうな声。
「パーティーの幹事の件なんですが」
「ああ、今年は君か。頑張れよ」
他人事だ、という響きが、その言葉には込められていた。頑張れよ、と言いながら、彼の目は既にパソコンの画面に戻っている。
「それでですね、幹事って具体的に何をすればよろしいんでしょうか?」
「……はあ?俺に聞かれても分かんねーよ」
宮田課長は、まるで面倒なものを押し付けられたかのように、露骨に嫌な顔をした。
「そうですか……。課長は幹事のご経験は……?」
「ねぇよ」
即答だった。
……ないんかい。
心の中で、私は思わず突っ込んでいた。じゃあ今回の幹事、私じゃなくても良かったじゃないか。経験者がやるべきじゃないのか。なぜ私なのか。
でも、そんなことは、もちろん声には出せない。
「では一昨年の幹事はどなたでしたか……?」
「さあ。俺に聞かれても知らねーよ」
──話にならない。
宮田課長は、もう完全に私に興味を失っていた。キーボードを叩き始め、私の存在を無視している。
「……そうですか。ありがとうございました」
私は、小さく頭を下げて、自分の席に戻った。
宮田課長以外に話せそうな人間を私は頭の中で思い浮かべた。
同じ課の倉本くんは今年入ってきたばかりだし、水本さんも一昨年はまだいなかった。
倉本くん。今年一月に中途採用で入ってきた、二十代後半の男性。落ち着いた雰囲気で、仕事も丁寧で、好印象だった。でも、まだ入社して二ヶ月。この会社のことを、彼はほとんど知らないはずだ。
水本さんは、私と同期入社。彼女も、パーティーの度に憂鬱そうな顔をしている。きっと、相談しても、ただ同情されるだけで、何の解決にもならないだろう。
坂本係長なら、あるいは──。
しかし彼は忙しくて出張が多い。今日も、朝から不在だ。デスクには、整理された書類と、誰も触れていないパソコンだけがある。
席にいらっしゃらないことが多い。
前田課長代理も、移動してきたばかりで、パーティー参加は初めてのはずだ。
やはり田山さんに聞くしかないのか──。
その考えが、胸を重くする。また、あの甲高い声を聞かなければならないのか。また、あの冷たい視線を浴びなければならないのか。
でも、他に選択肢がない。
私は渋々席から立ち上がり、深呼吸をして、田山さんのいる人事部へと向かった。
廊下を歩く足が、鉛のように重い。一歩、また一歩。人事部のエリアが、まるで断頭台のように思えてくる。
「──あの。田山さん」
人事部のデスクエリアに着くと、田山さんの姿が見えた。でも、彼女は電話中だった。
「はい、はい。いつもありがとうございます〜!お世話になっております。こちらこそ!はい、はい。いえいえ、いつもご迷惑をおかけしていますから!」
先ほどとは打って変わって、一オクターブ高い声で喋り続けている。まるで別人のように。笑顔さえ浮かべて、受話器に向かって何度も頷いている。
その様子を見て、私は少し呆然とした。さっき、私に吐き捨てるように話していたのと同じ人物だとは思えない。
「そうですね、来週にはお送りできると思います。はい、はい!すみません〜!ありがとうございます〜!はい、はい、そうですね、来週の水曜日あたりには!はい、はい」
田山さんの口癖は「はい、はい」らしい。
受話器の向こうの相手に、ひたすら同意している。その声は、明るく、愛想がよく、先ほどの冷たさのかけらもない。
このままずっと田山さんの隣で突っ立って待っているのも嫌なので、一度、自席に戻ることにした。
また、あの重い足取りで廊下を歩く。蛍光灯の光が、やけに眩しく感じる。
「はあ……」
席に着くと、自然と溜息が漏れた。今度は、声に出してしまった。周りに聞かれていないか、少し心配になって、周囲を見回す。でも、誰も私を見ていない。いつものことだ。私は、いつも、誰にも見られていない。
「どうしたんですか、関口さん?元気ないですけど……」
倉本くんが、私の様子に気づいて話しかけてくれた。彼の声は、穏やかで、優しかった。まるで、今日初めて、人間らしい温かさに触れた気がした。
「いや、今年のパーティーの幹事になっちゃって」
私は、力なく答えた。
「それは大変ですね」
倉本くんの声には、本当に同情の響きがあった。社交辞令ではない、心からの言葉だと感じられた。
「それで幹事って、具体的に何をすればいいのか分からなくて。聞ける人もいなくて……」
そこまで言って、私は自分の声が少し震えているのに気づいた。情けない。涙が出そうになる。こんなことで泣いてしまったら、本当に終わりだ。
それなら、と倉本くんが言った。
「僕、一緒に考えますよ。僕、前の職場でよく幹事やってたんですよ」
……というか、やらされてたんですけどね、と彼は困ったように笑った。その笑顔は、どこか自嘲的で、でも優しかった。
「──本当!?助かる……!」
私は、思わず声を大きくしてしまった。周りの視線を感じて、慌てて声を落とす。でも、心の中では、歓喜の叫びを上げていた。
私は神か仏にでも出会った気分だった。
暗闇の中に、一筋の光が差し込んだような。溺れかけていた時に、救命浮輪が投げ込まれたような。そんな感覚。
「この職場の慣例は分かりませんけど、聞ける人がいないのであれば仕方ありません。でも、それなりに形になればいいんでしょう?」
倉本くんは冷静かつ前向きだった。その落ち着いた口調に、私の焦りが、少しずつ和らいでいく。思わず尊敬の念を抱く。
この人は、きっと、どんな状況でも冷静に対処できる人なんだろう。
「まず、パーティーでどんなことをするのか、教えてもらえますか?」
倉本くんの言う通りに、私は昨年の記憶を頼りに、パーティーで行うことをリスト化していった。
思い出すのは、苦痛だった。あの窮屈なワンピース。高いヒール。照明を落とされた会場。丸テーブルに座らされて、隣の知らない男性社員と無理やり会話をした記憶。お酌をして回りながら、早く終わらないかと何度も時計を見た記憶。
それでも、倉本くんのために、私は一つ一つ思い出して、書き出していった。
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【場所】〇〇グランドホテル
【日時】〇〇年4月5日(金)18時〜20時
【注意点】ドレスコードあり
①受付
②席順のくじ引き
③社長挨拶
④新入社員挨拶
⑤表彰タイム
⑥食事タイム(という名の女性お酌タイム)
⑦ビンゴゲーム大会(景品あり)
⑧解散
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倉本くんは、リストを見て、少し目を細めた。
「なかなか大変そうですね……」
その言葉には、私の苦労を理解してくれているような、温かさがあった。
「これを元に、やるべきことと、必要なものを書き出していきましょう」
倉本くんは優秀だ。
さすがだ、と私は感心していた。こんな風に、物事を整理して、一つ一つクリアにしていく。それは、私には決してできないことだった。私はいつも、問題の全体に圧倒されて、動けなくなってしまう。
倉本くんは、私の作ったリストを見ながら、自分のメモ帳にサラサラと書き出していく。そのペンの動きは、迷いがなく、スムーズだった。
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【やるべきこと】
・司会?
・参加者の出欠確認
・金銭の徴収(金額確認)
・参加者へお知らせメールの送信
(※当日の流れや、新入社員に登壇して挨拶してもらうことなどを盛り込む)
・席順くじ作り
・ゲームの景品の用意
・司会の原稿作り
・参加者のリスト作り
・新入社員のリスト作り
・表彰者のリスト作り
・表彰者への表彰状の用意
【必要なもの】
・席順くじ
・参加者リスト
・新入社員リスト
・表彰者リスト
・表彰状
・ゲームの景品
【当日やるべきこと】
・受付の設置
・会場セッティング
【疑問点】
・司会は誰か?
・マイクなどの用意はホテル側に頼めるのか?
・景品の用意は誰が何を用意するのか?
・参加費用は?いくら徴収するのか?
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「ざっと思いつく限り書き出してみましたけど、他に何かありますか?」
倉本くんが、顔を上げて私を見た。その目は、真剣で、でも優しかった。
「すごい……ものの数分で……。私、他に思いつかない……」
私は、ただ呆然とそのリストを見つめていた。こんなにたくさんのことを、私一人でやらなければならなかったのか。考えただけで、目眩がしそうだった。
こういうのは慣れですよ、と倉本くんは謙遜するように言った。
「とりあえず疑問点から解決していきましょう」
倉本くんは本当に優秀だ。そして、優しい。
私は、倉本くんと一緒に、再び田山さんの席へ向かった。今度は一人じゃない。それだけで、心が少し軽くなった。
でも、人事部に着くと、田山さんの席は空っぽだった。デスクには、書類が山積みになっていて、パソコンの画面は消えている。
「ああ、なんか急にお子さんの発熱とかで、さっき帰られましたよ」
人事部の草尾さんが、コピー機の前から声をかけてくれた。
草尾さん。人事部の中では、一番話しやすい人だ。
そうだ、草尾さんに聞こう。
「あの、草尾さん」
私は、希望を込めて声をかけた。
「はい?」
草尾さんが、コピーの手を止めて、こちらを向いた。柔らかい笑顔だった。
「今よろしいですか?」
念のために確認する。田山さんのように、急に不機嫌になられたら困る。
「大丈夫ですよ」
草尾さんは優しい。本当に、心から優しい人だと思う。
「今年のパーティーの幹事の件で……」
私はかいつまんで説明した。田山さんに頼まれたこと。何をすればいいかわからないこと。聞ける人がいないこと。
「そうですか。今年は関口さんが……。お疲れ様です」
草尾さんは、一瞬、哀れみの表情を浮かべた。その表情が、逆に、私の置かれた状況の大変さを物語っていた。
「いえ……」
私は、何と答えればいいかわからなかった。
「実は僕も、今年入って来たばかりで、分からないんですよね……」
草尾さんも新入社員だったのか。
知らなかった。草尾さんは、もっとずっと長くこの会社にいる人だと思っていた。それくらい、この会社に馴染んでいる。
「他にご存知の方は人事部にはいらっしゃいませんか……?」
私の声は、懇願するようになっていた。
「そうですね……」
草尾さんはしばらく考え込んだ。その数秒が、とても長く感じられた。
そして、「丸田本部長なら、ご存知かも知れません」と教えてくれた。
「ありがとうございます」
私は、心から感謝を込めて頭を下げた。
「いえ。お力になれずすみません」
草尾さんが、申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。その謙虚さに、胸が温かくなった。
でも、希望はすぐに打ち砕かれた。
丸田本部長は出張中だった。
この会社は出張が多すぎる。誰もかれも、いつも席にいない。
「どうでした?」
席に戻ると倉本くんが待っていた。心配そうな顔で。
「今日のところは、誰も答えられる人がいないみたい……」
私の声は、疲れ切っていた。
「そうですか」
倉本くんも、少し残念そうだった。
「パーティーまであと一ヶ月ですから、急がないといけませんね。業務をこなしながら、準備しないといけないんでしょう?」
「そうなんだよね……」
現実が、重くのしかかってくる。一ヶ月。三十日。その間に、これだけのことをやらなければならない。
「僕もできる限り手伝いますから」
倉本くんの言葉が、暗闇の中の灯火のように感じられた。
「──本当にありがとう」
私は、心から感謝を込めて言った。
私は頼もしい助っ人を得て、今日のところは帰宅した。
電車の窓に映る自分の顔を見る。疲れている。でも、少しだけ、希望が見える気がした。
第二章 合理的
次の日。
私は重たい気持ちを抱えたまま、いつもと同じ通勤路を歩いていた。
朝の駅は、いつものように混雑していた。階段を降りる人、登る人。皆、同じような疲れた顔をして、同じような足取りで歩いている。私も、その中の一人。特別な存在ではない。ただの通勤者。
改札を抜けて、ホームへ。電車を待つ間、スマートフォンを見るふりをして、実際には何も見ていない。頭の中は、パーティーのことでいっぱいだった。
やること、やること、やること。
山積みのやること。
電車に揺られながら、窓の外を見る。流れていく景色。ビル、ビル、ビル。灰色の空。春なのに、世界は色を失っているように見えた。
会社の最寄り駅に着き、改札を出る。
駅の階段を登り降りして、会社への道のりを歩いていた。
この道を、私は何度歩いただろう。毎日、毎日、同じ道。同じビル。同じコンビニ。同じ信号。変わらない日常。
でも、今日は何かが違った。
心が重い。昨日よりも、もっと重い。
「おはようございます!」
背後から、明るい声が聞こえた。
振り返ると、倉本くんだった。
朝日を浴びて、彼は爽やかに笑っていた。その笑顔が、この灰色の世界に、少しだけ色を与えてくれる気がした。
「──おはよう」
私は、力なく返事をした。
「元気ありませんね。やっぱり幹事の件で……?」
倉本くんは、私の顔を見て、すぐに察したようだった。
「うん……」
私は、それだけしか言えなかった。昨夜、ベッドの中で、何度も何度もリストを見返した。やることの多さに、眠れなかった。
「──関口さんは、偉いですね」
倉本くんが、唐突に言った。
「え?」
私は、驚いて顔を上げた。偉い? 私が?
「嫌でも、きちんと向き合って、責任を果たそうとしている。だから憂鬱な気持ちにもなる。それって、とても誠実で、偉いことですよ」
倉本くんがにっこり微笑む。
その言葉が、胸に染み入った。誰も、そんな風に言ってくれたことはなかった。いつも、「頑張れ」「やるしかない」「仕方ない」。そんな言葉ばかりだった。
「適当な人は、適当にやればいいと思うから、憂鬱な気持ちにもなりません」
「そうなのかな……」
私の声は、まだ弱々しかった。
「そうです。現に僕がそうでしたから」
「倉本くんが……?」
意外だった。倉本くんは、いつも真面目で、誠実そうに見える。
「僕は適当な人間なので、結果的に上手くいくなら、手段は適当でもいい。そういう人間なんです」
「……どういうこと?」
私は、倉本くんの顔を見上げた。彼は、前を見ながら、穏やかに話し続けた。
「たとえば今回のパーティー。パーティーさえ上手くいけば問題ないわけですよね。だから手段は適当でもいい。僕は、その職場の慣例が存在していても、放棄しちゃっても構わない過程は放棄します」
そう、きっぱり言い切る横顔は真剣だった。
朝の光を浴びて、彼の輪郭がくっきりと浮かび上がっている。その姿は、どこか、英雄のように見えた。いや、大げさかもしれない。でも、私にとっては、確かに救世主のように思えた。
「今回のパーティー、放棄しても問題ない部分は放棄しませんか?」
「え……?」
私は、その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「だって要らないでしょ?くじ引きとか景品とか」
倉本くんは、あっさりと言った。
その言葉は、まるで禁句を口にしたかのように、私には衝撃的だった。
要らない?
慣例を、放棄する?
「でも……」
私は、反論しようとした。でも、言葉が出てこない。なぜなら、心の奥底では、私も同じことを思っていたから。
「経費の無駄遣いです」
倉本くんは、はっきりと言い切った。
「……」
私は、何も言えなかった。その通りだと思った。でも、それを言葉にする勇気が、私にはなかった。
「そして、それを今回からの『慣例』にしてしまえばいいんですよ」
倉本くんの合理的思考に、私はまだついていけなかった。
頭では理解できる。でも、心が追いつかない。何十年も続いてきた慣例を、私が変える? そんなこと、できるのか?
「表彰状も、要るかな……?僕だったら、貰っても嬉しくないけどな。資格の資格証明書とかなら必要ですけど。会社の勤続年数の表彰状なんて、はっきり言ってゴミです」
「……」
ゴミ。
そこまで言い切る倉本くんに、私は言葉を失った。
でも、同時に、心のどこかがスッキリした。誰かが、はっきりと言葉にしてくれた。私が心の中で思っていたけれど、決して口に出せなかったことを。
「関口さんは言ってましたよね。「パーティーを本当に望んでいる人はいるのか?」って。僕もいないと思いますよ」
「そう、だよね……」
私は、小さく頷いた。
「新入社員で挨拶したい人もいないです」
「うん……」
倉本くんの言葉が、一つ一つ、私の心に響いていく。
「皆が望んでいない、皆がやりたくないことを今後も続けていくのは、嫌じゃないですか?」
「うん……」
私は、また頷いた。
「……変えちゃいましょう」
その言葉が、春の風のように、私の心を吹き抜けた。
変える。
慣例を、伝統を、当たり前を。
「え!?でも急に私が幹事になってから変えたら……」
現実に引き戻されて、私は慌てて言った。
「怖いですか?」
倉本くんが、立ち止まって、私を見た。
「う、うん……」
正直に答えた。怖い。本当に怖い。
「何が怖いですか?社長や上司や人事部からの叱責?」
「そうかも……」
いや、それだけじゃない。皆からの視線。陰口。「関口さんが幹事になってから、おかしくなった」と言われること。それが怖い。
いつもはもう会社に着いている気がするのに、会社までの道のりがやけに長く感じた。
それもそのはず、私と話をするために倉本くんがわざと遠回りしていた。
普段は十五分で着く道を、今日は二十分以上歩いている。でも、不思議と苦痛ではなかった。倉本くんとの会話が、心地よかったから。
「関口さんは真面目だなあ」
倉本くんが、優しく笑った。
「……それって嫌味?」
私は、少し警戒した。真面目、という言葉は、時に批判の言葉になる。融通が利かない、という意味で使われることもある。
「違いますよ、褒め言葉です」
倉本くんは、真剣な目で言った。
「……」
私は、何と答えればいいかわからなかった。
「とにかく、僕も協力しますから。一緒に削れるところは削りませんか?」
「うん、ありがとう……」
私は、小さく頷いた。
倉本くんが照れたように笑う。
「本当はパーティーそのものを消し去りたいですけどね」
「──完全に、同意」
私は、思わず声に出して言った。
私たちは笑い合った。
その時、初めて、この一週間で初めて、心から笑った気がした。
いつの間にか、私の心は軽くなっていた。
会社のビルが見えてくる。いつもなら、憂鬱な気持ちになる瞬間だ。でも今日は、少しだけ、違った。
倉本くんがいる。
一緒に戦ってくれる人がいる。
それだけで、世界が少し明るく見えた。
第三章 消去
午後、倉本くんが私の席にやって来た。
彼は、何か紙を持っていた。その目は、いたずらっぽく輝いていた。
「関口さん、今よろしいですか?」
「──うん」
私は、作業中の書類から目を上げた。
「こんなものを作ってみました」
倉本くんは、そう言って、一枚の紙を私の前に置いた。
それを見た瞬間、私は息を飲んだ。
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【削除リスト】
・司会の廃止
(浮いた経費でホテル側に頼むor人事部でやってもらう)
・会場セッティングの廃止
(ホテル側にやってもらう)
・席順くじの廃止
→席は自由席にする
・表彰状の廃止
→表彰者は部署と名前の読み上げのみにする
・新入社員挨拶の廃止
→新入社員は部署と名前の読み上げのみにする
・女性のお酌禁止
→皆が平等に食事ができる環境づくり
・ビンゴゲーム大会、景品の廃止
→食事と雑談に集中してもらう
【やるべきこと】
・参加者の出欠確認メール
・金銭の徴収
(金額要確認、人事がやる?)
・参加者へお知らせメールの送信
(当日の流れやドレスコードのお知らせ)
・参加者のリスト作り
・新入社員のリスト作り
・表彰者のリスト作り
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「すごい……だいぶシンプルになった」
私は、そのリストを見つめながら、呟いた。
やるべきことが、こんなにも少なくなっている。昨日、あんなにも圧倒されていた仕事量が、半分以下になっていた。
「……でしょう?」
倉本くんは得意げだった。その表情が、少年のように無邪気で、私は思わず微笑んでしまった。
「これなら、私にもできるかも……」
心から、そう思った。これなら、何とかなるかもしれない。
「──良かった」
倉本くんが、安堵したように言った。
「え?」
「関口さんに明るさが戻って」
「私、そんなに暗かった?」
私は、少し恥ずかしくなった。
「ええ。この世の終わり、って顔してましたよ」
倉本くんは、冗談めかして言った。
思わず恥入って俯いた。確かに、昨日の私は、絶望していた。
「大丈夫ですよ。この案で通しましょう」
倉本くんの声は、力強かった。
「通るかなあ……」
私は、まだ不安だった。
「誰も望んでいない、それが鍵です」
「……?」
私は、倉本くんの顔を見上げた。
「署名を募りましょう」
「へ?」
署名?それは、思いもよらない言葉だった。
「むしろパーティー自体を取りやめる署名を募りますか?」
倉本くんが、いたずらっぽく笑う。
その笑顔を見て、私は一瞬、彼が本気なのか冗談なのかわからなくなった。
「──それ、いいかも」
でも、心の奥底では、私もそう思っていた。パーティーそのものを、なくしてしまえたら。
私も笑う。不思議と、恐怖よりも、ワクワクする気持ちが勝っていた。
「僕、早速フォーマット作りますね」
「本気だったの?」
私は、驚いて聞いた。
「僕はいつだって本気ですよ」
倉本くんは、真剣な目で答えた。
その目を見て、私は悟った。この人は、本当にやる気だ。
倉本くんは有能で、面白い人だ。
そして、何より、勇気がある。
──数分後。
倉本くんは、本当に署名用紙を作ってきた。プリンターから出てきたばかりの、まだ温かい紙。
「……できました」
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『〇〇年度パーティー廃止にご同意いただける方はご署名をお願いします。』
・
・
・
・
・
・
---------------------------------
「おおお……!」
私は、素直に感動した。
こんなにシンプルで、でも力強い文章。これを見た人は、きっと、自分の本音に向き合わざるを得ないだろう。
「まずは外堀から埋めましょう。いきなり上の人間に持っていくと厄介です。話を分かってくれそうな人、話しかけやすい人から埋めていくんです」
倉本くんの言葉は、まるで戦略家のようだった。
「……そうだね」
私は、頷いた。確かに、いきなり上司に見せたら、問答無用で却下されるだろう。
「じゃあまず僕から書きます」
倉本くんは、迷いなくペンを走らせた。
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『〇〇年度パーティー廃止にご同意いただける方は署名をお願いします』
・倉本 聡
・
・
・
・
・
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「じゃあ、私も」
私は、倉本くんの名前の下に「関口 智香」と書いた。
ペンを走らせる手が、少し震えていた。これは、本当に大丈夫なのか。でも、もう引き返せない。
そして水本さんに声をかけた。
水本さんは、私と同期入社の女性だ。いつも控えめで、でも芯の強い人。
「水本さん、ちょっといい?」
「どうしたの、関口さん?」
水本さんは、書類から顔を上げた。
「これ、見てもらえる?」
私は、署名用紙を差し出した。
水本さんは、それを読んで、目を丸くした。そして、ゆっくりと笑顔になった。
「……本気?」
「うん」
「すごいね、関口さん。そんな勇気あったんだ」
「倉本くんが、一緒にやってくれるの」
「そっか」
水本さんは、迷わずペンを取った。そして、自分の名前を書いた。
次は、草尾さん。
人事部の草尾さんは、署名用紙を見て、一瞬驚いた顔をした。でも、すぐに、穏やかな笑顔になった。
「──思い切りましたね」
草尾さんは笑っていた。その笑顔には、応援の気持ちが込められていた。
「大丈夫でしょうか……」
「大丈夫ですよ。僕も、正直、パーティーは負担でした」
そう言って、草尾さんも署名してくれた。
前田課長代理も署名してくれた。
前田さんは、他の支社から移動してきたばかりの人だ。まだ四十代前半で、若々しく、柔軟な思考の持ち主だった。
「いいと思いますよ、これ。他の支社では、もうこういうパーティーはやってないところも多いですから」
その言葉に、私は勇気づけられた。
坂本係長も、出張から戻ってきて、署名用紙を見ると、即座にサインしてくれた。
「やっと誰かが声を上げてくれた」
その一言が、印象的だった。
丸田本部長も、署名してくれた。
本部長は、署名する前に、じっくりと用紙を読んでいた。そして、私の目を見て言った。
「君たち、勇気があるね」
「……はい」
「いいよ。僕も、実は、このパーティーは時代に合わないと思っていたんだ」
そう言って、力強くサインしてくれた。
そして意外なことに、宮田課長も署名してくれた。
昨日、あんなに冷たくあしらった宮田課長が。
「俺も内心、面倒くせぇなって思ってたからさ」
宮田課長は、照れくさそうに言った。
「ありがとうございます」
私は、心から感謝した。
「──それにしても関口さん。大人しそうに見えて、やるじゃん」
「いえ、これは私の力じゃ……」
私は、謙遜した。本当に、倉本くんがいなければ、こんなこと、できなかった。
「頑張ってパーティー、無くしてくれよな」
「は、はい!」
私は嬉しくなって頷いた。
署名用紙を見る。名前が、どんどん増えていく。
---------------------------------
『〇〇年度からのパーティー廃止にご同意いただける方は署名をお願いします』
・倉本 聡
・関口 智香
・水本 香織
・草尾 武
・前田 健人
・坂本 賢司
・丸田 司
・宮田 将史
---------------------------------
「おお、だいぶ集まりましたね」
嬉しそうに倉本くんが言う。
私も、嬉しかった。こんなにも、同じ気持ちの人がいた。皆、声を上げられなかっただけで、本当は、同じことを思っていた。
「倉本くんのおかげだよ」
私は、素直に感謝を伝えた。
「いえ、関口さんが勇気を出してくれたからですよ」
倉本くんは、謙遜した。
私たちは、顔を見合わせて笑った。
オフィスの窓の外では、桜の蕾が膨らみ始めていた。春は、確実に、近づいている。
……あとは、田山さん。
その名前を思い出した瞬間、少し、緊張が走った。
田山さんなら、きっと反対するだろう。でも、これだけの署名が集まっていれば、無視はできないはずだ。
私は、深呼吸をして、署名用紙を持って、再び人事部へと向かった。
第四章 最後の砦
人事部のエリアに足を踏み入れると、田山さんの姿が目に入った。
彼女は、パソコンの画面を睨みつけるように見ていた。その表情は、いつものように厳しく、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
でも、私は引き下がれない。
これだけの署名が集まっている。私一人の意見じゃない。多くの社員の、声なき声だ。
「あの、田山さん」
私は、できるだけ落ち着いた声で呼びかけた。
田山さんは、ゆっくりと顔を上げた。その目が、私を見る。
「何?忙しいんだけど」
冷たい声。
「パーティーの件で、お話が……」
「だから、幹事の準備、進めてるの?」
田山さんは、イライラした様子で言った。
「いえ、その前に、これを見ていただきたくて」
私は、署名用紙を差し出した。
田山さんは署名を見るなり渋い顔をした。
眉間に深い皺が刻まれる。その表情だけで、彼女の不快感が伝わってきた。
「──なに、これ」
声が、一オクターブ低くなった。
「ですから、署名です」
私は、できるだけ冷静に答えた。心臓が、早鐘のように打っている。
「私が頼んだのは幹事であって、署名活動じゃないんだけど」
「分かっています」
「じゃあなんでこんな馬鹿なこと……!」
田山さんの声が大きくなった。周囲の視線が、こちらに集まるのを感じる。
でも、私は引かなかった。
「無駄だと思ったからです」
「……無駄?」
田山さんは、信じられない、という顔をした。
「ほとんど誰も望んでいないパーティーを、経費を使って年二回もやる。それって無駄なことだと思いませんか?」
私の声は、震えていた。でも、はっきりと言葉にした。
「……」
田山さんは、一瞬、言葉を失ったようだった。
「それでも、これがうちの慣例なの!」
しかし、すぐに声を荒げた。
田山さんは譲らなかった。その頑なな態度に、私は少し怯んだ。
「田山さんは嫌じゃないんですか?」
でも、私は続けた。
「嫌とか嫌じゃないとかじゃないの。やるべきものって決まっているものなの」
「誰がお決めになったんですか?」
私は、思い切って聞いた。
「……」
田山さんは、答えられなかった。
きっと、誰が決めたのかなんて、誰も知らないのだ。ただ、昔からそうだった。だから、続けている。それだけ。
「やめましょうよ、田山さん。誰も望んでいません。田山さんだって、パーティーなんかより、ご家庭のことを優先されたいんじゃないんですか?」
私は、思い切って踏み込んだ。
昨日、田山さんがお子さんの発熱で早退したことを思い出して。
「黙りなさい」
田山さんの声が、冷たく響いた。
「……」
私は、言葉を失った。
「決まりっていうのはね。ちゃんと訳があるの。こういうのはちゃんとやっておかないといけないものなの」
田山さんの声には、どこか、諦めのような響きがあった。
「どうしてですか?」
私は、もう一度聞いた。
田山さんは深く溜息を吐いた。その溜息には、疲れが滲んでいた。
「──分かったわ。幹事は別の人に頼みます」
「……待ってください」
私は、慌てて言った。
「倉本くんに頼むわ」
「──へ?」
予想外の言葉に、私は声を上げた。
彼に頼んでも同じ結果になることを知らない田山さんは、もう私の言葉に耳を貸さなかった。
彼女は、背を向けて、自分のデスクに戻っていった。
私は、その場に立ち尽くしていた。
手に持った署名用紙が、重く感じられた。
これで、終わりなのか。
結局、何も変えられないのか。
オフィスの蛍光灯の光が、やけに眩しく感じられた。目が、少し潤んでいた。
第五章 変更
翌朝。
いつものように、私は会社への道を歩いていた。
でも、心は重かった。昨日の田山さんとのやりとりが、頭の中でリピートされる。
やっぱり、無理だったのか。
変えることなんて、できないのか。
「おはようございます、関口さん」
倉本くんの声が聞こえた。
振り返ると、彼は、いつもと変わらぬ笑顔で立っていた。
「おはよう……」
私は、力なく答えた。
「昨日、田山さんから連絡がありました」
「……ごめんね」
私は、謝った。
「え?関口さんが謝ることじゃないですよ」
倉本くんは、不思議そうな顔をした。
「結局、僕に幹事を変えられちゃいましたけど、僕がやっても同じなんですからね。だって署名活動は僕の案なんですから」
そう言って、倉本くんは、笑いを堪えたような表情をした。
「本当にごめんね。倉本くん。私、幹事外されちゃって……」
私は、もう一度謝った。
「なんで関口さんが謝るんですか。悪いのは人事部の人──田山さん?ですし。そもそもこの案を考えたのも僕ですし」
倉本くんの声は、優しかった。
「それでも……」
「任せてくださいよ。パーティー、なくしてみせますから。こういうのは、男がやった方が上手くいったりするんです。なぜだか分かります?」
倉本くんが、自信に満ちた表情で言った。
その顔を見て、私は、少し希望が見えてきた。
「女は舐められやすい……」
私は、悔しさを込めて言った。
「ま、そういうことですね」
倉本くんは、苦笑した。
「そういうの、嫌いなんですよね」と、倉本くんは続けた。
「いまだに、男女で態度を変えてくる人間はいますから。女性より僕の方が都合がいい時もあるんです。逆に僕より女性の方が都合がいい時もあります。いまだに、そういうのって、なくしたくてもなくならないですからね。どうしても」
倉本くんの言葉は、現実的で、でもどこか悲しげだった。
「そうだよね……」
「でも僕はそういうの、変えていきたいです」
その目は、真剣だった。
倉本くんなら変えられる気がした。
いや、私たちなら、変えられるかもしれない。
会社が見えてくる。いつもなら憂鬱な気持ちになる瞬間。
でも今日は、少しだけ、期待があった。
第六章 変化
それから二週間が過ぎた。
倉本くんは、幹事として、着々と準備を進めていた。いや、正確には、パーティーを廃止するための準備を。
彼は、署名をさらに集め、データにまとめ、丸田本部長に提出した。
そして、ある日の午後。
会社全体に、一通のメールが届いた。
送信者は、社長だった。
私は、そのメールを開いて、目を疑った。
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件名:社内パーティーについて
社員各位
この度、社内パーティーのあり方について、社員の皆様から多くのご意見をいただきました。
経営陣で協議した結果、今年度より、従来の形式でのパーティーは廃止することといたしました。
今後は、より自由で有意義な形での交流の場を検討してまいります。
長年の慣例を変えることに不安もありましたが、時代に合わせて変化していくことも大切だと考えます。
ご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。
代表取締役社長
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私は、画面を見つめたまま、動けなかった。
本当に?
本当に、廃止になったの?
「関口さん、見ましたか?」
倉本くんが、嬉しそうに声をかけてきた。
「……見た」
私は、まだ信じられない気持ちで答えた。
「やりましたね」
「……本当に」
「結果的に今年からパーティーはなくなりました。最終的に丸田本部長のサインで、決まったようなものですが」
倉本くんが説明してくれた。
皆が喜んでいた。
オフィスのあちこちで、安堵の声が聞こえてくる。
少なくとも私の周りは。
「良かった……」
水本さんが、私のところにやってきた。
「本当に、ありがとう。関口さんがいなかったら、これからも、ずっと我慢し続けてたと思う」
「私は、何も……」
「そんなことない。関口さんが、最初に声を上げてくれたんだよ」
水本さんの目には、涙が浮かんでいた。
私も、目頭が熱くなった。
「倉本くん、本当にありがとう」
私は、倉本くんに心から感謝を伝えた。
「僕は何もしていませんよ」
倉本くんは、いつものように謙遜した。
「そんなことない。現に、パーティーなくしてくれたじゃない」
「それは関口さんから引き継いだからですよ。最初の署名を集めたのは、関口さんです」
「でもその案は倉本くんが……」
私たちは、お互いを称え合った。
「関口さんがやってもきっと結果は同じでしたよ。それに面倒くさいことがなくなって良かったじゃないですか。これで来年から嫌な目に遭う人もいなくなる」
倉本くんの言葉に、私はハッとした。
そうだ。これは、今年だけの話じゃない。来年も、再来年も、その先も。
これから入ってくる新入社員も、もうあの緊張の挨拶をしなくていい。
女性社員も、お酌をして回らなくていい。
皆が、もう、我慢しなくていい。
「今年で終わらせることができて良かった」
倉本くんが微笑んだ。
「登壇して新入社員挨拶なんて、真っ平ごめんでしたしね」
その言葉に、私は少し驚いた。
「そっか。倉本くん、今年入社だもんね」
「ええ。本当に、助かりました」
倉本くんが、安堵の表情を浮かべた。
「私、きっと自分の役目を果たしたら、もう関係ないって思っちゃってたと思う。その先のことまで考えてなかった……」
私は、自分の視野の狭さに気づいた。
「それが普通ですよ」
倉本くんは、優しく言った。
「人間、他人のことは所詮、他人事ですから」
「僕は今回、私利私欲のために動いたに過ぎません」
「登壇が嫌だったから……?」
「もちろん、決まってるじゃないですか」
倉本くんが笑う。
どこまで本気か分からない笑み。でも、その笑顔は、温かかった。
窓の外を見ると、桜が満開だった。
ピンク色の花びらが、春風に揺れている。
美しい光景。
でも、今年の春は、去年までの春とは、何か違って見えた。
より明るく、より希望に満ちて見えた。
私たちは、何かを変えた。
小さなことかもしれない。でも、確かに、何かを変えた。
そして、これは、きっと、始まりに過ぎない。
オフィスの中に、新しい風が吹き始めていた。
第七章 波紋
パーティー廃止から二週間が経った。
社内では賛否両論あった。
若手社員や中堅社員からは歓迎の声が多かったが、一部の古株社員からは不満の声も聞こえてきた。
「昔からの伝統を、新米の分際で……」
給湯室で、そんな声を聞いた。
誰が言っているのかは分からない。
私は静かにコーヒーを淹れて、足早にその場を離れた。
心臓がバクバクと鳴っている。
やっぱり、私には荷が重すぎたのかもしれない。
「関口さん」
背後から声をかけられた。
振り返ると、田山さんだった。
「……はい」
身構える私に、田山さんは複雑な表情を向けた。
「……あの件、お疲れ様でした」
「え……?」
「実は私も、ずっと負担に感じていたの。でも、誰も言い出せなくて……」
田山さんの声は小さく、いつもの高圧的な態度とは全く違っていた。
「子供の熱で早退しなきゃいけない時も、パーティーの準備が終わってないからって、罪悪感があって……。本当は子供のそばにいたいのに」
「田山さん……」
「関口さんと倉本くんが、勇気を出してくれて……ありがとう」
そう言って、田山さんは頭を下げた。
私は驚いて、何も言えなかった。
「でもね、気をつけて」
「え?」
「会社には、変化を嫌う人もいるから。特に、営業本部の連中は……」
田山さんはそこまで言って、口を閉ざした。
「……分かりました。ありがとうございます」
私が頭を下げると、田山さんは小さく微笑んで去っていった。
*
「営業本部の連中、ですか」
倉本くんに報告すると、彼は顎に手を当てて考え込んだ。
「確かに、署名を集めた時、営業本部の人はほとんど協力してくれませんでしたね」
「そうだったね……」
「まあ、全員が賛成するなんて、最初から無理な話ですよ。ある程度の反発は覚悟の上でした」
倉本くんは涼しい顔をしている。
「でも、気になるのは……」
「何?」
「営業本部の柴田部長、覚えてます?」
「ああ……あの、いつも怒鳴っている……」
「そうです。彼、社長の親戚らしいんですよ」
「え……」
嫌な予感がした。
「まあ、大丈夫でしょう。決定したのは丸田本部長ですし、社長も了承済みのはずです」
倉本くんはそう言ったが、その表情は少し曇っていた。
第八章 対峙
嫌な予感は的中した。
翌日、私は人事部に呼び出された。
そこには、柴田部長がいた。
「──君が、関口か」
低く、威圧的な声。
私は震える声で答えた。
「は、はい……」
「今回のパーティー廃止の件、聞いているぞ」
「……」
「何を考えているんだ。あのパーティーは、社員同士の親睦を深めるための大切な場だったんだぞ」
「でも、参加者の多くが負担に感じていて……」
「負担?仕事なんて、負担の連続だろう。それを乗り越えてこそ、成長があるんだ」
柴田部長は机を叩いた。
ドン、という鈍い音が部屋に響く。
「第一、新入社員が挨拶する機会を奪って、どうするんだ。あれは彼らの成長の場でもあったんだぞ」
「でも、本人たちは……」
「本人たちが望む望まないじゃない。会社の一員として、やるべきことをやる。それが社会人だろう」
私は言葉を失った。
柴田部長の言っていることも、一理ある。
でも、それでも……。
「あの……」
私は勇気を振り絞って口を開いた。
「社員が望まないことを強制して、それで本当に親睦が深まるんでしょうか」
「……何?」
「嫌々参加させられるパーティーで、本当の絆は生まれないと思います。それよりも、日々の業務の中で、お互いを尊重し合う関係を築く方が……」
「屁理屈を言うな!」
柴田部長の怒声が響いた。
「君のような若造に、何が分かる。会社の伝統というものを、軽々しく変えていいと思っているのか」
私は唇を噛んだ。
もう、何を言っても無駄だと悟った。
「……今回の決定は、丸田本部長の判断です。私は……」
「丸田本部長も、君たちに丸め込まれたんだろう。署名なんて、集団心理を利用した卑怯な手段だ」
卑怯……?
私の中で、何かが切れた。
「卑怯なのは、どっちですか」
「……何だと?」
「嫌がっている女性社員に、お酌を強要するのは卑怯じゃないんですか。新入社員を、大勢の前で緊張させて、それを楽しむのは卑怯じゃないんですか」
私は震える声で、でもはっきりと言った。
「パーティーという名目で、パワハラやセクハラまがいのことが行われていた。それを見て見ぬふりをして、伝統だからと続けてきた。そっちの方が、よっぽど卑怯だと思います」
室内が静まり返った。
柴田部長は、顔を真っ赤にしていた。
「──関口。お前のことは、覚えておくぞ」
柴田部長はそう言い捨てて、部屋を出ていった。
私は、その場に立ち尽くしていた。
言ってしまった。
本当に、言ってしまった。
足が震えている。
どうしよう。
私、クビになるかもしれない……。
第九章 味方
「──関口さん!」
倉本くんが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?柴田部長に呼び出されたって聞いて……」
「倉本くん……」
私は、堰を切ったように泣き出してしまった。
「あ、あの、ちょっと……」
倉本くんは慌てて周りを見渡し、私を会議室に連れて行った。
「落ち着いて。何があったんですか」
私は、柴田部長とのやりとりを話した。
「……そうですか」
倉本くんは、しばらく黙っていた。
「関口さん、よく言ってくれました」
「え……」
「関口さんの言ったこと、全部正しいですよ」
「でも、私……あんなこと言って……」
「言うべきことを言っただけです」
倉本くんは、真剣な目で私を見た。
「僕も、一緒に謝りに行きますよ」
「え、でも……」
「関口さん一人に責任を負わせるわけにはいきません。そもそも、署名活動を提案したのは僕です」
「そんな……倉本くんまで巻き込めない……」
「巻き込むも何も、僕は最初から当事者ですよ」
倉本くんが優しく笑った。
「それに、関口さんは一人じゃありません」
*
その日の夕方、思いがけないことが起きた。
丸田本部長が、全社員にメールを送信したのだ。
---------------------------------
件名:パーティー廃止の決定について
社員各位
先日決定いたしました社内パーティーの廃止について、一部の社員から異論が出ているとの報告を受けました。
この決定は、多数の社員からの要望と、会社の経費削減、そして働き方改革の一環として、経営陣で協議の上、決定したものです。
今後、社員同士の親睦を深める機会として、より自由で有意義な形での交流会を検討しております。
また、今回の決定に至るまで尽力してくれた関口さん、倉本さんをはじめとする社員の皆様に感謝いたします。
会社は、社員一人一人の声に耳を傾け、より良い職場環境を作っていく所存です。
今後とも、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。
丸田
---------------------------------
「……すごい」
私は、メールを読んで呆然とした。
「丸田本部長、味方してくれたんだ……」
「当然ですよ。あの人は、ちゃんと話の分かる人ですから」
倉本くんが嬉しそうに言った。
「それに、社長の了承も得ているはずです。柴田部長がどんなに騒いでも、もう覆りませんよ」
「良かった……」
私は、安堵のあまり、また涙が出そうになった。
「関口さん」
「……うん」
「今日、ちょっと時間ありますか?」
「え?」
「お祝いしましょう。パーティー廃止、成功したんですから」
倉本くんが、いたずらっぽく笑った。
「い、いいの?」
「もちろん。関口さんが良ければ、ですけど」
「……行く」
私は、頷いた。
「じゃあ、駅前の居酒屋でいいですか?」
「うん」
私たちは、会社を出た。
夕暮れの空が、いつもより美しく見えた。
第十章 本音
「──乾杯!」
倉本くんが、グラスを掲げた。
「乾杯……」
私も、グラスを合わせる。
ビールが喉を通って、体に染み渡る。
美味しい。
「お疲れ様でした、関口さん」
「こちらこそ……倉本くんがいなかったら、私、何もできなかった」
「そんなことないですよ。関口さんは、最初から勇気があった」
「そんなこと……」
「本当ですよ。田山さんに押し切られそうになっても、最後まで諦めなかった。それって、すごいことです」
倉本くんは、真剣な目で言った。
「僕、関口さんみたいな人、好きですよ」
「え……」
心臓が、ドキリと跳ねた。
「あ、いや、その……仕事のパートナーとして、という意味です!」
倉本くんが、慌てて付け加えた。
「……そっか」
少し、がっかりした。
この感情は、何だろう。
「関口さんは、どうしてこの会社に入ったんですか?」
倉本くんが話題を変えた。
「え……特に、深い理由はないかな。就活で受かったから……」
「そうなんですか」
「倉本くんは?」
「僕も、同じようなものです。でも……」
倉本くんは、ビールを一口飲んで続けた。
「前の会社で、理不尽なことがたくさんあって。それで、転職したんです」
「理不尽なこと……」
「パワハラ、サービス残業、意味のない慣習……。でも、誰も声を上げなかった。僕も、声を上げられなかった」
倉本くんの表情が、少し暗くなった。
「だから、今回のこと、他人事じゃなかったんです」
「そうだったんだ……」
「関口さんが、勇気を出して声を上げてくれた。それが、すごく嬉しかったんです」
倉本くんが、私を見た。
「僕、関口さんと一緒に働けて、良かったです」
「私も……」
私たちは、しばらく無言で飲んだ。
でも、その沈黙は、心地よかった。
「──ねえ、倉本くん」
「はい?」
「次は、何を変える?」
私が聞くと、倉本くんは目を丸くした。
「え……もっと変えたいんですか?」
「うん。せっかく勇気が出たから」
私は、自分でも驚くほど、前向きになっていた。
「……じゃあ、まずは残業削減ですかね」
「いいね!」
「それから、無駄な会議の削減」
「あ、それも賛成!」
私たちは、笑い合った。
「関口さん、変わりましたね」
「そうかな」
「最初に会った時は、すごく暗い顔してたのに」
「それ、何回も言うね……」
「でも、今は、すごくいい顔してます」
倉本くんが、優しく笑った。
私は、また胸がドキドキした。
この感情の正体が、少しずつ分かってきた。
でも、まだ認めたくなかった。
第十一章 新しい風
パーティー廃止から一ヶ月が経った。
社内の雰囲気は、確実に変わっていた。
若手社員たちは、以前より活発に意見を言うようになった。
無駄な会議も、少しずつ減っていった。
「関口さんのおかげだよ」
水本さんが、休憩室で言った。
「私も、何か意見を言ってもいいんだって、思えるようになった」
「そんな、私は何も……」
「いや、きっかけを作ってくれたのは、関口さんだよ」
水本さんが、にっこり笑った。
「ありがとう」
その言葉が、私の心に温かく染み渡った。
*
「関口さん、ちょっといいですか」
ある日、丸田本部長に呼ばれた。
「は、はい……」
また叱られるのかと思って、緊張しながら応接室に入った。
「座って」
丸田本部長は、穏やかな表情で言った。
「今回の件、本当にお疲れ様でした」
「いえ……」
「君のおかげで、会社が良い方向に変わり始めている」
「そんな、私一人の力では……」
「謙遜しなくていい。君には、リーダーシップがある」
リーダーシップ……?
私に?
「実は、人事異動の話なんだが」
「え……」
「新しく立ち上げる、働き方改革推進チームのリーダーに、君を推薦したいと思っている」
「えええっ!?」
思わず、大きな声が出てしまった。
「もちろん、現在の業務と兼任になるが……どうだろうか」
「わ、私に、務まるでしょうか……」
「務まる。君なら大丈夫だ」
丸田本部長は、力強く頷いた。
「それに、倉本くんにも、メンバーとして参加してもらう予定だ」
「倉本くんも……」
「二人なら、きっと素晴らしいチームになる」
私は、考えた。
怖い。
でも……。
「……やらせてください」
私は、はっきりと答えた。
「ありがとう。期待しているよ」
丸田本部長が、笑顔で握手を求めてきた。私は、その手を、しっかりと握り返した。
エピローグ 新しい私
働き方改革推進チームの初会議。
メンバーは、私と倉本くん、そして他部署から選ばれた三人の社員。
「それでは、リーダーの関口さん、お願いします」
丸田本部長が言った。
私は、深呼吸をして、立ち上がった。
「皆さん、よろしくお願いします」
緊張で声が震えている。
でも、大丈夫。
「このチームの目的は、社員一人一人が、より働きやすい環境を作ることです」
倉本くんが、励ますように頷いてくれた。
「皆さんの意見を、どんどん聞かせてください。小さなことでも構いません。一緒に、この会社を、もっと良くしていきましょう」
拍手が起きた。
私は、少し照れくさくなって、座った。
「関口さん、良かったですよ」
倉本くんが、小声で言った。
「ありがとう……」
「これから、また忙しくなりますね」
「うん」
「でも、一緒に頑張りましょう」
「……うん」
私は、窓の外を見た。
青い空が、広がっていた。
数ヶ月前の私なら、こんな未来、想像もできなかった。
幹事を押し付けられて、泣きそうになっていた私。
でも、その経験が、私を変えてくれた。
いや、正確には──。
私の中にあった何かを、引き出してくれた。
勇気を。
声を上げる力を。
変える力を。
「関口さん」
「ん?」
「今日、また飲みに行きませんか?」
倉本くんが、笑顔で言った。
「いいよ」
私も、笑顔で答えた。
きっと、これからも、いろんなことがある。
理不尽なことも、辛いことも。
でも、もう大丈夫。
私には、仲間がいる。
声を上げる勇気がある。
そして──。
私の中には、新しい私がいる。
変化を恐れない、強い私が。
──完──




