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夜になって役者をしている彼女が舞台へ向かった。舞台と言っても小さな小さな舞台だ。しかも、話を聞くに満席にはなっていないらしい。空席だらけで虚無に見つめられるらしい。時間がある僕も本当はそこへ向かうべきなのだと思う。でも、小さな小さな舞台にいる君を見に行ったことは一度だけしかない。ステージの端っこの誰にも見えない場所で一人立っていた。本当に立っているだけの彼女がいた。立っているだけの役しかもらえない彼女がいた。それを見てからもう行かないと決めた。本当はもっとみんなに見える場所に居るべきなのに。どうしてそんな狭苦しいところに設置されているのだろうか。他の人たちが輝いているようには見えなかった。類型になろうとしている人たちがいるだけだった。どこかで見たことがあるだけのなにかになろうとしている人たち。文脈を知っている彼女に肩入れしていただけなのか。文脈によって感情が動かされていただけなのか。とにかく、光っていたのは夕陽のような君だけだった。
真っ暗な部屋は考え事をしてしまう。無機質な部屋は夜になると単なる空間になる。インテリアなんて見えなければ意味がない物だ。なにも見ていないような僕は昼にもそれを必要としない。自分の思考だけを見つめながら、量産品の椅子に座っていた。そうすると揣摩臆測のような考察が沸き上がってくる。存在する彼女の存在しているはずの価値について考察をしていた。人の考察をするだなんて悪趣味だと思う。それでも沸いてきてしまうのだから仕方がない。
ドラマの登場人物のような彼女の存在を頭の中に浮かべる度に判る。その度に自分という存在の矮小さを思い知る。どれほど遠く離れた場所にいるのだろう。本当は違う身分で生まれていたはずだった。この平等な世界において釣り合わない僕たちは平等な関係。ということになっている。しかも、平等であるというだけでない。これほどまでに近づくことができている。バランスが悪い足場で平衡感覚を失いそうになりながら触れていた。こんなことがあり得るのはどうしてだろうか。矮小であるはずの僕がなにか特別な存在だからなのだろうか。それとも、夢にいるような彼女が気まぐれに寄ってきてくれたからなのか。はたまた、運命と呼ばれる物のお陰なのだろうか。神様と呼ばれるなにかによって決められていたことなのだろうか。
塵界に迎合していることが善いことであるとは思えない。だから社会に馴染めない僕のことは恥じない。それに、役者として必要とされていない彼女を恥じないしかし、夢を見ている以上はそれに決着を付ける必要がある。それがどんな形なのかはわからない。できれば前向きに終わってほしい。夢を見た彼女が幸福の中で全てを終わらせられればそれでいい。幸福の中に居られるのであればそれだけで十分だ。成功よりも幸福の方が重要だ。それは間違いのないことなのだ。幸福の中に被害者はいないのだ。
暗闇の中でなにもせずに天井を眺めている僕。それはとても病的な行いであって無気力にまつわる病のようだった。それでもこの行いをすることが幸福なのだった。社会的にはなんにも見えない世界がそこにはある。つまり、天井に透明で、不可視的な世界がある。箱の外に居たいと思う僕は確かにそこに現実を見ていた。飛び立とうとしている彼女が堕ちるという現実を見ていた。いわゆる現実主義者が言うところの規定された現実があった。誰よりも信用しなければならないはずの僕は信用していなかった。それでも愛せるという確信があったから、問題ではなかった。墜落は飛ぼうとしている彼女の問題だ。飛び立てない僕の問題ではない。自分で解決しないといけない。自分で解決しないといけない、らしい。
自分という人間がとても重たい人間であるということがわかってきた。しかし、自分の感情からなにか一つを抜き出した自分がいた場合。それは本当に自分と言えるのだろうか。今は自分であると言えたとしても、将来的にはどうだろうか。 一つ欠けた十年後の僕は恐らく全くの別人になっているはずだ。であるならば、自分の感情の全てを、欠片でできた僕は愛するしかない。それをしなければ他人になってしまうからだ。他人になったとしてもいいような気持ちもあった。
液体のような僕の感情は欠けているところを見つけるとそこに流れ込む。つまり、この感情は欠けているところが存在するから発生する感情。欠けている一片を別のなにかで満たしたときに起こることは恐ろしい。今の自分の感情が失われ、また別の感情へと変化する。今の僕はそれを肯定することができない。自分が見つけた答えを追い求めるように生きていたいのだ。それ以外にはなんにもないように生きていたい。
『一念、天に通ずる』なんて綺麗事だ。どうせ、夢に届かない彼女がいる。そんな淡い夢を見せているのはこの世界だ。この現実で夢を叶えることがどれだけ大変かわかっていない。あらゆる人は現実に生きている。だから、いろんな人が夢を叶えている。しかし、それを叶えるために払った犠牲については語らない。それはあまりにも生々しすぎてグロテスクだからだ。語ることで放送コードに引っ掛かってしまうような現実があるのだ。




