有太の章 ボーイズ、夕闇を歩く(3)
脇腹の痛みは弱くなっていた。
昔ほど恐怖や痛みを感じないのは、麻痺したのか自分の体が大きく強くなったからなのか、せめて後者だといいなとおれは思った。ただ、昔ほど父ちゃんの存在が絶対的でなくなったことに、よくわからない悲しみもある。
父ちゃんがコップの中に独白を始めたので、おれはそのまま後ずさって寝室へ行った。寝るには早すぎるし、後でまた父ちゃんの様子を見ないといけないが、しばらく休もうと思った。
母ちゃんのことを除けば、父ちゃんは一体なにが不満なんだろうかとおれはしばらく考えた。
自分が選んだ楽器で、好きな音楽だけをやり、大好物の酒を飲んで、理解ある仲間たちに囲まれていて。将来性はないが、そんなものはこの界隈の住人のほとんどが持っていない。
今、酒をやめれば母ちゃんが戻ってくると言われたら、父ちゃんはすっぱりやめることができるんだろうか。愛する人というのはなにを置いても失いがたいものなんだと聞かされているが、アルコールの魔力は相当なものだ。
まあ、少なくとも、おれと酒の二択なら父ちゃんは間違いなく酒を取るだろう。おれと母ちゃんならもちろん、母ちゃんだ。聞かなくてもわかる。そうなっても恨む気も起きない。
おれもいつか、そういう感情を持つようになるんだろうか。
それはおれが瀬戸や晧を失いたくないと思っている気持ちとは、全然違うものなんだろうか。
おれはさっきたどってきた夕暮れの帰路や、工場でのやり取りを思い出した。ほんの数時間前のことなのに、遠いできごとのような気がした。
今日の晧は普段より表情の移り変わりが目まぐるしかった。
ガトーショコラの時にえらく不安げにしていたが、晧は晧で日常に抑圧があるんだろう。おれや瀬戸の前で失敗したくないという思いが、晧はすごく強い。
瀬戸はいつも変わらない様子だが、最近、付き合いのある同業者が増えてきたようだ。仕事が順調ということかも知れない。同じ手に職とは言っても、やっぱり瀬戸の方に強みがあるなとおれは思った。
そうやって二人のことを考えていると、いつまでも終わらないといいな、という思いがするっと浮き上がってきて、おれは思わず息を止めそうになった。
こんなに三人で力を合わせてことに当たっているのに、それを台無しにするような思いを抱いてしまったことにひどく気がとがめた。
でも、その思いはずっと前から、心の薄暗いところにあったように思う。
晧の目が見るおれと瀬戸は実像よりも強くて、まるで自分の手で全てを切り拓いていく英雄のようだ。
現実には、おれたちは自ら選んだ場所にいない。置いていかれたここで、降りかかるあれこれをその場しのぎでなんとかしているに過ぎないというのに。
おれがまず持ち得ない、あの明るい晧の目。瀬戸はそっけない態度ながらもそれを注意深く見守っていて、おれはさらにその後ろから二人を見ている。おれはこの場にいられることを嬉しく思う。二人の真剣なまなざし。笑い合う瞬間。
そんな昼間の記憶が物理的なまぶしさを伴ってくるようで、おれはぎゅっと目をつぶった。闇の中からにじみ出てくるように、ある思いが小さくうずく。
ずっとこのままでいられないのはわかってる。特に晧とは、今一緒にいることが不思議なくらい住む世界が違う。でも。でもどうか、少しでも長く、と。
居間の父ちゃんのうなり声を背にベッドで手足を丸めて、おれはなんてみじめなんだろう、とどこか他人事のように思った。目の奥が熱くなると、ますますその思いは強まる。
涙は余計に哀れさを浮き彫りにするので、おれは毛布にきつくくるまってこらえる。泣くなよ、薄荷ボーイズ。おれは心の中で言った。自分が滑稽だった。




