有太の章 ボーイズ、心に火を放つ(4)
「全く、オレにもちょっとは優しい顔をしろってんだ」
マスターがため息まじりに言う。おれはその太い腕にそっとふれた。
「おかみさんは優しいよ。働き者だしさ」
「ん…まあな」
マスターは苦笑いして、おれの頭を軽く叩いた。「さ、ここはいいから飯食え」
鍋の中身を皿に移し、おれはカウンターに座った。柔らかく崩れたじゃがいもをスプーンですくっていると、向かいでサラミを切っていたマスターが小さな声で言った。
「お前の母ちゃんもな、優しい女だったよ」
おれは手を止めた。これまで、マスターから母ちゃんの話を聞いたことはなかった。
「とびっきりの美人だった。歌も上手かったな。…でも、オレは反対したんだ。いい家のお嬢さんだったからなあ」
マスターはサラミの切れ端をおれの皿に入れた。「こういう暮らしは無理だと思ったんだ」
「…で、実際、無理だったんだな」
「まあ、な…」
マスターも手を止めて、宙を見上げた。「お前のことは可愛がっていたよ。…お前が悪いわけじゃねえんだ。でも、なあ…難しいもんだな」
マスターは髭だらけの顔面で見つめてくる。その目が顔に似合わずつぶらなのを、おれは知っている。
「いいんだ。覚えてもない頃のことだから」
おれは言って、スプーンを口に運んだ。「苦労する人の数は少ない方がいい」
「お前はジムより大人だよ」
マスターはいつの間にか止んだセッションに目をやった。父ちゃんと仲間たちが互いに小突きあっている。時折、低い大きな笑い声が起こる。
「あいつは、アリアと出会った頃から時が止まってるんだな」
おれは薄暗い店の中、そこだけ暖色のライトがぼうっと当たっているちっぽけなステージを見た。その上にいる、ひときわ小さな父ちゃんの姿を。
「それじゃそのうち、おれ、父ちゃんの年を抜かしちまう」
そう言っておれが皿を下げにカウンター内に入ると、ステージから「おーい」と声がかかった。父ちゃんの友達の一人、テナーのクラークからだ。
「チビ、こっち来いよ。こないだの曲練習してきたか?」
返事しようとすると、マスターがおれの手から皿を取り上げ、ステージの方へあごをしゃくった。
「行ってこい」
礼を言いかけるおれを遮るように、マスターは悪いな、と独りごとのように言う。戸惑ったおれの視線を奇妙に静かな目で受け止めて、マスターはおれを見下ろした。
「もっと長く、子どもでいさせてやりたいんだがな」