有太の章 ボーイズ、心に火を放つ(3)
帰宅すると、父ちゃんは着替えてバーに行く支度をしていた。
顔色はいくらかましに見える。酒は飲んでいない。
おれはほっとした。バーでは間違いなく飲むんだが、とりあえず今は素面のようだ。
ジャケットを着て、楽器ケースを手に持つと父ちゃんはまだしゃんとして見える。
「よう、今日は早いな」
扉を開けると、グラスを拭いていたマスターがこちらに髭面を向けた。「調子はどうだい」
「まあまあだ」
父ちゃんはカウンターに座って、ポケットから小銭を取り出した。マスターは眉根にしわを寄せる。
「せめて一曲演ってからにしろよ」
「そんなこと言うなよ」
父ちゃんは顔をしかめた。「一杯だけだ」
マスターは渋っていたが、結局ジンライムを父ちゃんの前に置く。いつもと同じくだり。マスターはジンを少な目にして、酒代が浮いた分でおれに一杯おごってくれる。
「ほらよ」
出されたライムエードを受け取って、おれは一口飲んだ。
「お前も苦労するな」
マスターの言葉におれは肩をすくめた。「まあね。でも別に珍しい話でもないだろ」
「そりゃそうだ」
マスターは拭いたグラスを棚に戻しながら、店の奥で仲間たちと談笑している父ちゃんに一瞬目をやった。「お前は男だし、ラッパもあるからな」
おれは黙ってもう一口、ライムエードを飲んだ。マスターはグラスを棚に戻し終わると、カウンターを拭き始めた。
まだ早い時間だから、客は少ない。
父ちゃんと仲間たちはセッションを始め、おれはカウンターの中に入ってマスターを手伝う。
と言っても、せいぜい言われた酒瓶を持ってきたり、皿洗い程度のことだが、出してもらう食事分くらいは労働力を提供しなければと思っている。
「お前も大きくなったもんだな」
マスターは大男だから、おれはようやく背がマスターの胸のあたりに届いたところだ。それでも赤ん坊の頃から面倒を見てもらっているせいか、いつもこれを言われる。「こないだまで、オレの膝くらいまでしかなかったのに」
「膝ってことはないだろ」
言い返した時、店の奥からおかみさんがやって来て空のジョッキが乗った盆をカウンターにどんと置いた。
「あんたね、おんなじことを毎日言うんじゃないよ。有太だってうんざりさ」
よく代弁してくれたと思ったが、世話になっている手前、一方的にマスターをやり込める側にも立てない。
おかみさんは手早くシンクにジョッキを入れた。「有太、それ片したら夕飯食べな。鍋にシチューが残ってるから」
顔を上げたおれに、おかみさんは目尻を和ませた。「塊肉、残してあるからね」
おかみさんの作るビーフシチューはおれの好物だ。おれが礼を言うと、おかみさんはいっそう笑みを深くして、またビールの入ったジョッキを盆に載せて店の奥へ去って行った。