繁栄の巫女(3)
「重い……」
「殿下! カイルさん!」
体が温まったらしいエミリオとカイルが目を開けると、リセは喜びの声を上げて二人の顔を覗き込む。
「よかった! お二人とも大丈夫ですか?」
「リセ……君も無事で――」
王子のエミリオはホッとしたように言った後、自分の上に乗っている私に気づいて驚愕する。
「なっ、なんだ……!?」
「巨大な猫!?」
騎士のカイルは思わず剣を抜こうとしたようだが、私の体の下でもごもご動くことしかできないでいる。落ち着きたまえよ。
エミリオもカイルもリセと同じくらいの若さで、二人とも今は憔悴しているけど、エミリオは優しげな雰囲気、カイルは明るそうな印象だ。
とにかく二人とも起きたならもう温める必要はないかと、私は太い四本の足で立ち上がった。
すると騎士もよろよろと立ち上がり、エミリオやリセを守るように剣を構える。
しかし私はお前の相手をしている暇はないのだよ。雪に濡れた二人を乗せた背中も、二人を温めたお腹も、汚れて乱れてしまっている。早急に毛づくろいしなければ。
地面に座って一生懸命首と舌を伸ばし、お腹の毛を梳かす。猫の舌はザラザラしていて、櫛のような役割もするのだ。
(背中は舌が届かないから、諦めるしかない)
ハロルドって櫛とか持ってないかなぁ? 私の広い背中をブラッシングしてくれないかな? と考えながら腹を舐める。
私が毛づくろいをしている間に、リセはエミリオやカイルに私のことを説明した。
「カイルさん、剣を仕舞ってください。この子は大丈夫です。大きいけど、ただの子猫なんです。しかもこちらに友好的で、殿下やカイルさんをここまで運んで温めてくれたんです」
「温めて……? ……なるほど」
カイルは数秒考えて納得した。意識のない自分の上に巨大な猫が乗っていたのは、体を温めるためだったのだと気づいたらしい。
カイルは剣を仕舞ったが、まだいぶかしげに私を見ている。まぁ、森で巨大な子猫に会ったらそんな顔になるよね。
「確かに異常な大きさを除けば、ただの無邪気な子猫に見えるね。今も毛づくろいに夢中だし」
王子様も力なく上半身を起こして言う。
「君が助けてくれたんだね。ありがとう」
「感謝する」
エミリオとカイルにお礼を言われたが、それより櫛を持ってない? 背中をブラッシングしてほしいんだけど。
しかし私の想いは届かず、カイルはハッとして王子様を振り返る。
「殿下、お怪我はありませんか? 寒くはないですか?」
「怪我はないよ。それにもう寒くもない」
エミリオはそう言って詰め襟の衣装の首元を緩めた。
騎士も上着を脱いで、今度はリセにも同じことを聞いている。
「リセさんも大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。疲れが残っているだけ」
「リセさんがこの大きな子猫を呼んできてくれたんですね」
「呼んできたというか、偶然出会ったの。少し撫でたら懐いてくれて……。私、元の世界にいる時は猫を飼っていたから、猫の扱いには慣れているのよ」
リセはそこで小さくほほ笑み、つられてエミリオも少し笑う。
「猫の扱いに慣れていたとしても、この大きさの猫に出会ったら騎士でも怖気づくよ」
「本当ですよ」
カイルは同意すると、こう続ける。
「しかし先ほどの急激な寒さは何だったのでしょう?」
「分からないが、解明しようとしても無駄だろうね。この森は普通の森とは違うから、あの場所だけ真冬の気候なのだと言われても驚かないよ」
「それですが、さっきこの猫ちゃんが何かを追い払っていたんです」
リセは座っている私の肩を撫でながら言う。
「突然走り出したから何かと思ったんですけど、遠くに白い鹿のような生き物が見えて……。もしかしたらあの生き物が寒さの原因だったのかもしれません」
「そうすると我々の命が助かったのは、本当にこの猫のおかげのようだね」
エミリオは穏やかに言ってほほ笑み、私を見て続ける。
「胸に白い三日月模様があるね。三日月とでも呼ぼうか」
「いいですね! 綺麗な名前です」
エミリオの提案にリセも頷く。誰がつけても私の名前って三日月になるな。
そこでエミリオは改めて森の中を見渡す。
「さて、凍死の危機は去ったけれど、まだ僕たちは遭難中だ。帰り道がさっぱり分からない」
「森の深いところに入ってしまったんでしょうか?」
カイルも深刻な顔をしている。生きてこの森から出ることを諦めてはいないけれど、それがとても難しいことであるとも分かっているような表情だ。
(だけど私がいるから大丈夫だよ)
一度ぐーっと伸びをして立ち上がると、私は三人を森の出口まで案内することにした。リセにはやっぱり死んでほしくないしね。
トルトイに面している東の端はここから近い――と言っても人間の足だと迅速に真っすぐ行っても六時間程度はかかるだろうけど、まぁ大丈夫でしょ。
ついて来な! と言うようにしっぽを立てると、私はずんずん歩き出した。人助けをするのは案外気持ちがいい。
しかししばらく歩いてから振り返ると、三人は私についてきていなかった。元の場所に留まったまま、ぽかんとこっちを見ているだけだ。
(おおーい、ちょっと!)
一人で歩いてたなんて恥ずかしいじゃない! ちゃんとついて来てくれないと!
私は「ミャオミャオ」鳴いて文句を言いながら、三人のところに戻る。
「すごい喋ってますね」
「何を言ってるのか分からないけどね」
「文句を言ってるみたいに聞こえます」
カイルとエミリオ、リセが順番に言う。
そんなにのんきにしてていいの? 私がいなくなったら全員助からないんだからね!
私は再び「ミャオミャオ」言いつつ、三人を振り返りながら再び歩き出した。今度はちゃんとついて来てよ!
「もしかして、ついて来いって言ってるのかもしれません」
「僕もそんな気がするよ」
そうそう、とリセとエミリオの会話に頷く私。
三人が後に続いて歩き出したので、私は鳴くのをやめて静かに歩く。人間の足に合わせてゆっくり歩いてあげる私って優しくて素晴らしい。
するとカイルが後ろで不安そうに言う。
「ですが、ついて行ってどうなるのでしょう? 子猫の案内で到着するところなんて、日向ぼっこできる草原かどこかなんじゃないでしょうか?」
「そうかもしれない。だけど僕らも道はさっぱり分からないから、自分たちで適当に歩くのと、この子について行くのとでは、結果はあまり変わらないと思うよ。むしろこの子のそばにいた方が、森の生き物に襲われる危険は少ないかもしれない。子猫だけど、熊なんかより大きいからね」
「それはそうですね」
エミリオとカイルは私の後ろを歩きながらそんな事を話していた。
「申し訳ありません、私のせいでこんなことになってしまって……」
そこでリセがうつむいて歩きながら、申し訳なさそうに言う。
するとエミリオはこう返した。
「リセのせいだとは思っていないよ。君を追いかけて森へ入ったのは僕の意思だし、僕らが遭難したのはあの黒い霧に飲み込まれたせい。そして寒さで死にかけたのは白い鹿のせいだ。どれも君のせいじゃない」
「でも、そもそも私が森へ来なければ……。ここは危険な森だとちゃんと理解していたら……」
私の後について歩き続けながら、エミリオはリセの隣に並んで尋ねる。
「リセはここに星を探しに来たんだよね? 聞くのが怖くて尋ねていなかったけど、どうして星が欲しいの?」
少し緊張しているようなこわばった声だ。
リセは申し訳なさそうな顔をしたまま答える。
「星をたくさん集めれば、日本に帰れるって聞いて……」
「やっぱり……」
エミリオは寂しそうにため息をついた。
「リセが帰りたいと言うなら僕は止めることはできないけど……全ての発端は僕の父が君たちを召喚したせいだしね。でも星をいくら集めても、今の魔法の技術ではリセを日本に帰すのは難しいと思う。一方的に召喚する魔法はあるけど、召喚した人間を元の場所に帰す魔法は開発されていないんだ」
ずっとうつむいていたリセは、そこで顔を上げてエミリオを見る。
「でも、静玖ちゃんに聞いたんです。星さえ集めれば魔法で日本に帰れるって……」
「シズクは適当なことを言ったんだね。あるいは全て計算済みで嘘をついたか」
エミリオの言葉に、リセは不安げに眉を下げる。
「嘘? そんな嘘をついて、静玖ちゃんに得はあるんですか?」
「あるさ。こうやってリセを危険な森に行かせて、あわよくば死なせることができる」
エミリオがはっきりと言うと、リセはショックを受けたような顔をして立ち止まった。私にはよく分からないけど、カイルと一緒に黙って二人の会話を聞く。
でもシズクってあれかな? リセと一緒に召喚されたとかいう『繁栄の巫女』のことかな。
「こんなことを言うとリセを傷つけてしまうけど、シズクは君のことを嫌っていると思う」
「そんな、ことは……」
リセは自信なさげに続ける。
「確かに私たちは特別仲がよかったわけじゃありません。他にも友達がいたから、静玖ちゃんといつも一緒にいたわけじゃないですし。でも静玖ちゃんは私に憧れてるんだと言ってくれていました。静玖ちゃんは大学の授業も私と同じものを選択していたり、髪型を同じにしたり、同じ服を買ってきたりして、『理世ちゃんみたいになりたい』って言ってくれて」
リセから聞くシズクの話に、私は眉をひそめた。私がもし他の猫に「あなたに憧れて同じ毛皮の色に染めてきました」とか言われたらちょっと怖いし、真似しないでよ! って思うけど。リセは心が広いなぁ。
エミリオは冷たく「ハッ」っと笑って――たぶんシズクのことを思い浮かべてだろう――言う。
「真似をすればリセのようになれると思っていたのかな。性根が腐っていては何も変わらないのに」
「殿下……!」
リセは思わず非難の声を上げる。
「そんなふうに言わないでください。彼女はこの世界では、私のたった一人の同郷の友達なんです」
「その同郷の友達に、こっちの世界では召し使いのように扱われているのに?」
リセは一旦言葉に詰まったが、息を吐くとなるべく冷静に言う。
「巫女でも何でもない私が、城から放り出されないためです。巫女に仕える使用人という立場を与えてくれたんだと思っています」
「そうかな。リセを使用人にして楽しんでる様子だったけど。それに最近ではリセが城の人間に好かれてきていると察して、君のことを疎んでいた。だからこの森に来させたんだ。自分の手を汚さず、君を始末しようとしたんだよ」
エミリオは穏やかそうに見えたけど、結構率直な物言いをするな。優しいだけの王子様じゃないようだ。
でもたぶんリセを傷つけたいわけじゃなく、シズクって子の本性に気づいてほしいだけなんだろう。
リセは再び歩き出し、暗い声で言う。
「……確かにそうなのかもしれません。気づいていない振りをしてきたけど、この世界に来てから静玖ちゃんは、何の役にも立たない私のことを疎ましく思うようになったのかも。だから私は日本に帰りたくなったんです。自分でも、おまけで召喚されてしまった自分の存在価値が分からないから」
そして泣きそうな表情で続ける。
「静玖ちゃんは、この森の危険性については何も言っていませんでした。星も簡単に手に入るような口ぶりで……。だから私は軽い気持ちでここに来てしまったんです。もちろん、他の人からはろくに情報も集めず、静玖ちゃんの言葉だけを信じて森に来てしまった私が一番馬鹿ですが……」
「ミー」
詳しいことは分からないけど、リセが何だか可哀想になって、私は『元気出して』と小さく鳴いた。
しかしそこでカイルが私のそばにやって来て、人差し指を自分の口の前に立てて「シーッ!」と言う。
なんだよー。何で鳴いちゃダメなんだよー。
「リセ……」
しかしどうやらカイルは、エミリオがいるから大丈夫だと言いたかったらしい。エミリオはリセの背にそっと手を添えて話し出す。
「僕はリセのことを価値のない存在だとは思ってない。おまけとも思ってないよ。最初はただ可哀想な異世界人だと思っていただけだけど、優しくて少し鈍感で守ってあげたくなるような、そんな君のことを素敵な人だと思い始めた」
「殿下……」
リセは驚いて顔を上げる。
おや? 何だろう。空気が少し甘くなってきた。ペロッと舌を出しても甘さを感じるわけではないんだけど……何だ?
「君が一人で星降る森へ行ったと聞いた時には、心臓が止まるかと思ったよ。リセに何かあったらと思うと怖くなった。だから急いで駆けつけたんだ」
「殿下は、でも……静玖ちゃんとの婚約が決まったのでは? 私も、こんな私のことを気にかけてくださる殿下は素敵な方だと思っていました。繁栄の巫女である静玖ちゃんではなく、おまけの私の方を見てくれるなんてって。でも最近婚約されたと聞いて、日本に帰りたくなったのはそのことがショックだったのもあるんです。やっぱり殿下も静玖ちゃんを選ぶんだと思って……」
「ちょっと待って。婚約?」
エミリオは少し大きな声を出した。寝耳に水の話でびっくりしてるみたい。
「シズクと婚約なんてしてないよ。アプローチはずっとされていたけど、僕はその気持ちに応えるつもりはなかったし」
「でも静玖ちゃんが……」
リセはそう呟いたが、自分で気づいたらしい。
「それも嘘だったってことですか?」
「そうだね。婚約なんてしていないよ」
そう聞くと、もはやリセはシズクに対しての言葉がない様子で黙りこくった。
エミリオは続ける。
「僕はリセを必要としている。リセが良ければだけど……これからも僕のそばにいてほしいんだ。それにリセは城でも仲の良い使用人仲間ができただろう? 彼らもリセが城を出て森へ行ったと知って心配していたよ」
「はい……」
リセはそこで涙をこぼして頷く。
「みんなはきっと心配してくれると分かっていたから、誰にも言わずに星を取りに来たんです。良くしてくれた人もたくさんいたのに、私は静玖ちゃんの言葉を鵜吞みにして一人で行動して、殿下やカイルさんまで大変な目に遭わせてしまいました」
「それはもういいって言っただろう? 僕も僕の意思で行動しただけだって」
エミリオがリセの涙を指で優しく拭い、リセも少し明るい表情になってほほ笑みを返す。そんな二人を見ていたら、私は何故か体がかゆくなってカシカシと後ろ足で首元を掻いた。何か体がもぞもぞするし、謎に恥ずかしい気持ちになる。
一方、カイルは私の隣で「よかったよかった」と小さく呟き、満足げな笑顔を見せていた。