繁栄の巫女(2)
「ミャン」
「来てくれるの? ありがとう! こっちよ」
女の人はホッとしたように言って走り出した。でも彼女は足が遅くって、私は歩いていても追いていかれることはない。
人間ってあんまり足が速くないんだな。それとも彼女はすでにたくさん森の中を歩き回って疲れているのかも。
「迷わないように木に印をつけていたの。これを辿れば殿下たちのところに戻れるわ」
彼女はポケットから小さなナイフを取り出して言う。そして指さした木の幹には、そのナイフでつけたと思われる傷がついていた。
「でも、あれ? こっちの木につけた傷はなくなってる? そこの木と向こうの木には傷が残ってるから、その間にあるこの木にも傷をつけたと思うけど、忘れたのかも……。いえ、だけど通ったところに生えている木には、一つ残らず全部傷をつけたはずなのに」
女の人は不思議がりながらも歩を進めた。
だけど私に言わせれば、この森には、彼女の力でつけた浅い傷なんかすぐに修復してしまう木も存在する。星を吸収していて、エネルギーに満ち溢れている木とかね。
悪戯好きのサルとかが石を使って同じような傷をつけて回る可能性もあるし、木に印をつけるだけでは、この森では遭難対策にはならない。
でも今回は悪戯好きのサルも集まってきてないし、まだ傷が残っている木が多い。それは傷をつけてからまだそれほど時間が経っていないってことであり、彼女の目的地はそう遠くないということでもある。
「あなたって普通の猫より頭がいいのかな? 私について来てくれたりして、ある程度言葉を理解しているように思えるけど」
女の人はハァハァと息を切らせながら尋ねてくる。早くも体力がなくなったのか、すでに走るのは諦めて、急ぎつつも歩いていた。
「ミャアウ」
まぁね、と私は鳴いた。
その返事を聞いた女の人は、やはり私は言葉を理解しているんだと思ったらしく、自分がこんな状況に置かれた説明を始める。
「私、最初は一人で森に入ったのよ。この森がこんなに危険だとは知らなくて……。奥深くに入るつもりもなかったから、ろくな準備もせずに、服だってこんなスカートで……使用人の制服のまま来ちゃったの。そうしたらそんな私を心配して、後から殿下が騎士たちを連れて追いかけてきてくれた。殿下って分かる? 王子様のことよ。国の偉い人。私たち、この森の東にあるトルトイっていう国から来たの」
この森を囲む五つの国の名前は知っている。確かに東にある国はトルトイだ。
でも、私が知っているのは名前くらいで、その国の様子とか、どれくらいたくさんの人間が住んでいるのかとか、どんな風習があるのかとかは知らない。
「そう言えば自己紹介をしてなかったね。私、理世っていうの。トルトイから来たけどトルトイ出身じゃなくて、異世界の日本っていう国から来たのよ。トルトイの王様――さっき言った王子様のお父さんね。その王様に魔法で勝手に召喚されたの」
「……?」
異世界って、こことは違う世界ってこと? そんなもの存在するの?
私が首を傾げると、リセは少し寂しそうに笑った。
「さすがに異世界とかは理解できないかな」
そして暗い表情のまま続ける。
「私は友達と二人で『繁栄の巫女』として召喚されたんだけど、どうやら巫女としての力があるのは友達だけで、私は用なしなの。召喚された時、私はたまたまその友達といたから一緒に召喚されちゃっただけみたいで……」
勝手にトルトイに召喚されたのに用なしだったとはひどい話だ。リセは自分を召喚した王様にヤギのミルクを請求するべきだね。たくさん貰うといいよ。
「友達はトルトイで巫女をやっていくみたいだけど、私は元の世界に帰りたいの。でも帰るには難しい魔法を使わないといけないらしくて、それには魔力星が山ほど必要なんだって。だから私、星を取りに来たの。さっきも言ったけど、この森は危険な森だって知らなかったから……」
リセは汗で湿った前髪を手で横に流しながら説明を続ける。
「だけどまさか殿下が心配して追いかけてきてくれるとは思わなかった。用なしの私にも親切にしてくれて、本当に優しい人。……でもそんな素敵な人を私のせいで危険に晒してしまった」
「ミャーン?」
何があったのー? と気になって尋ねる。リセは私の方を見て少しほほ笑み、言う。
「返事をしてくれてるみたい。ありがとう。この森で一人じゃないって心強いわ」
リセの寂しげだった目に力がこもり、足取りもしっかりしたものになる。
「昨日、私はこの森に着いて、遭難しないよう端の方で星を探していたの。そんな私を、追いかけてきた殿下たちはすぐに見つけてくださった。だけど私たちが合流したところで、急に辺りを黒い霧に包まれて……。気づけば私と殿下、そして私たちを守ろうとしてくれた近衛騎士の一人が霧に飲み込まれて、全く別の場所へ飛ばされてしまった」
他にも騎士と呼ばれる人間たちはいたけど、三人だけが森の端から違う場所に移動してしまったってことみたい。
三人を移動させた黒い霧の正体は、私にはすぐに分かった。きっと黒霧のことだ。
黒霧は星降る森の中を静かに移動している、私より一回りくらい大きな漆黒の霧だ。そして黒霧に飲み込まれると、森の中に存在する別の黒霧から吐き出される。黒霧はいくつか――たぶん五つくらい――存在しているのだ。
だから黒霧に飲み込まれた者は、一瞬で森の別の場所へと飛んでしまう。
私は森で迷うことがないから黒霧に飲み込まれて飛ばされるのも遊びの一つであり、楽しいことだと思ってるけど、リセみたいな人間は簡単に遭難して死んじゃうだろうな。
黒霧は音もなく近づいてくるから、後ろから来られると飲み込まれるまで気づけないんだよね。
ただ、黒霧には意思はない。人間を飲み込もうとして近づいてきたわけではなく、生き物の発する引力のようなものに引き付けられているんだと思う。
だから人間は、黒霧を見たらまず逃げないといけない。黒霧はゆっくりと進むから走れば逃げられるし、距離さえ取れば、執着して追いかけてくるようなこともないのだ。
でも今、私たちがいるのは森の東だから、東の端にいたというリセたちはそれほど遠くに飛ばされたわけではない。
けど、飛ばされた人間は自分の現在地なんて分からないだろうし、とんでもなく遠くへ移動してしまったと思ってるかもなぁ。
「それで三人で迷ってしまって、数時間は森の中をさまよったわ。その後、夜が来たから動けなくなって休息を取って、でも森の中じゃまともに眠れなくて……。疲れが溜まったまま翌朝また歩き出した。方位磁石は森の中では狂ってしまって、地図もないし、当てもなくさまようしかなかった。だけど不運はそれだけじゃ終わらず、今度は急に辺りが冷え込んできて雪が降り、真冬の寒さになってしまったの」
えー? 常に春のような温かさのこの森で、そんなこと起こる?
「殿下も騎士も薄着の私に上着を貸してくれたんだけど、そのせいで二人は見る見るうちに体温を奪われ、動けなくなってしまったの」
リセの声はそこで震えた。
「だからまだ動けた私は、上着を返して二人と別れた。このままじゃ私も寒さで動けなくなって三人とも死ぬと思ったし、そうなる前に助けを呼びに行くか、あるいは暖かい場所を探さなくちゃって思って。そうして少し歩いたらすぐに寒さから抜け出せて、ここみたいに暖かい場所に出られたんだけど、そこで森の中を歩く巨大な黒い猫を見つけて腰が抜けちゃって……」
元気はなかったが、リセは少し笑顔を見せてこっちを見た。
驚かせてごめんね、とはちっとも思っていないけど、私はしおらしく「ミャーン」と鳴いておいた。
「あの寒い場所から少し歩けば元の暖かい場所に出られるって分かったし、早く二人をこっちに連れてこなきゃ」
リセは疲れた足を必死に動かし、再び走り出す。頑張れー。
私も歩きながらのんきにリセを応援していると、段々と辺りの気温が下がってきたのが分かった。
(寒……)
緑豊かな森の中なのに、まるで雪が降り出しそうなほど寒い。と言うか、向こうの方はがっつり雪が降って真っ白になっている。
この森は不思議な森とはいえ、ここだけ季節が違うってことはないと思うんだけど。
私は寒いのが苦手な猫だから、一気に機嫌が悪くなる。鼻も肉球も冷たいし、あっちに行くのやだー。
「二人とも、どうか無事でいて……! すぐに暖かいところに連れていくから……!」
しかし自分も満身創痍だろうに王子たちを助けに行こうとするリセを置いて一人だけ引き返すのは、さすがの私も気が引ける。
嫌いな人間なら置いてくけどさ、リセは私にまばたきしてくれるような人間だし。撫で方とかも上手いしさ。また私が撫でてほしくなった時に撫でてほしいし。
そんなこと考えて進んでいくうちに、私もリセも吐く息は真っ白になっていた。地面も木も雪に覆われ、一面銀世界に変わり、気温もさらに下がっていく。
(さ、寒い……!)
私はお日様を愛しているから、ほんとに寒いの嫌いだ。ふさふさの毛皮があっても辛くて、何だか腹が立ってくる。なんでここはこんなに寒いんだ!
草花も凍りつき、私が足を踏み出すたびにサクサクと小さな音が鳴る。雪は肉球についてじわっと溶け、刺すような冷たさを残していく。そしてそれが嫌だから、長く地面に接しないようにひょこひょこと変な歩き方になってしまう。
薄着のリセは私より寒いだろうな。あっという間に凍えて死んでしまいそうだ。
「エミリオ殿下! カイルさん! 確かこの辺りだったはず……」
リセが二人の名前を呼ぶ。木の幹にも雪が薄く張り付いていて、つけた傷が確認しにくいようだ。
王子がエミリオで騎士がカイルという名前らしいので、
「ミャオーン!」
と一応私も呼んでみる。しかし返事はなかった。
「殿下! カイルさん!」
リセはもう一度彼らの名を呼び、そして次の瞬間、息をのんで体を硬直させた。
しかしすぐに動き出すと、涙をこぼしながらとある木の根元に駆け寄る。
「そんな……っ!」
そこにはエミリオとカイルらしき人間二人が地面に倒れていたのだが、彼らの体には雪が薄っすら積もって白くなっていた。顔に積もった雪を拭う力もない、というか意識がないみたい。もう死んじゃったのかな。
「殿下! カイルさん!」
リセは二人のそばに膝を突き、急いで雪を払っている。王子であるエミリオの方は金髪で、整った顔立ちをしていた。一方、騎士のカイルの方は薄茶色の髪で、エミリオより短く刈り込んでいる。顔立ちは普通で、背はエミリオより高い。
服装は二人とも深い青を基調とした豪華な衣装だったけど、騎士の方は軍人っぽい制服だ。近衛騎士って言ってたから、普通の騎士よりは派手な制服なのかな。
(しかし本当に寒い)
私のもふもふの体ならこの寒さでも死ぬことはないだろうけど、気持ち的に耐えられない。ほんとにヤダ、もう。
イライラしながら周囲を見回す。空には青空が広がっており、雪雲が出ているわけでもない。だけどここだけ極寒で雪が積もっている。
(幻獣の仕業かな)
妖精はここまでの力を持っていない場合が多いし、魔物は時間をかけて凍死させるなんてまどろっこしいことをせずに直接リセたちを攻撃したと思うので、犯人がいるとすれば幻獣だろうと予想する。
(どこにいる?)
私は引き続ききょろきょろと周囲に視線を走らせた。
するとここから数十メートル離れたところに、白い鹿がいるのを発見した。鹿は普通の雄鹿と比べて少し小さく、氷のように透明な角を持っている。瞳の色はよく分からないが、顔はこちらに向けてじっと見たまま動かない。
(あ、あいつ!)
その姿を見た瞬間に、情報がパッと頭に浮かんだ。あれは氷鹿という幻獣で、雪を降らせたり気温を下げたりして敵を凍えさせるのだ。
臆病な性格だから、ああやって離れたところから誰かに攻撃を仕掛けて、相手をじわじわ追い詰めていく。
しかし氷鹿は気が強くない生き物なので、それを知っていれば何も怖くない。こっちから攻撃してもまず反撃されることはなく、逃げていくだけだろうから。
そこで私は氷鹿の方に向かって、オラー! と走っていく。
「猫ちゃん……?」
氷鹿の存在に気づいていないリセは、急にどうしたのかと困惑しているようだ。
そんなリセを置いて、わざとドタドタと足音を立てながら猪のように突進して行くと、鹿は私の大きさと勢いにビクッと体を硬直させた。
近づいてきたら予想以上に大きいじゃん! とでも思ったのかは知らないけど、氷の角を持つ白い鹿はその場から逃げ出した。
(待て、オラー!)
逃げる者には強い私は、オラオラと脅しているつもりで「ミャオミャオ」鳴きながら、相手を追い払う。氷鹿は迫ってくるでかい子猫――しかもガラが悪い――に怯えて、跳ねるように全力疾走し、あっという間にどこかに消えてしまった。ユニコーンも速かったけど、あいつも足速いなぁ。
氷鹿の立っていたところには雪が降っていなかったが、代わりに霜が降りて、地面が一部白くなっていた。
(リセ~! 氷鹿追い払ったよ~)
私はまた走ってリセたちのところに戻ったが、氷鹿がいなくなったからと言って積もった雪はすぐには融けないし、冷えた空気が一瞬で温まることもない。
「とりあえず殿下たちを暖かい場所に移動させないと。猫ちゃん、手伝ってくれる……?」
リセは涙目でこちらを見上げて言った。私は面倒くさがりの猫だけど、好印象を持っている相手にこんな顔でお願いされたんじゃ断れない。
正直、エミリオとカイルが死んでも私には関係ないと思っているのだが、リセが泣いたら私もちょっと嫌な気分になる気がしないでもないから、協力する。
(頑張るの嫌だけど、頑張ろ)
知らない人間を背中に乗せるのもすっごく嫌だけど、仕方ない。リセは非力だし、それしか彼らを運ぶ方法がないんだから。
「ミャ……」
私はその場で伏せの体勢になり、エミリオとカイルを背に乗せるよう、リセに目配せした。嫌々やっているのが顔に出ていると自分でも分かる。
リセもそれを感じて謝ってきた。
「ありがとう、ごめんね」
そしてリセは、意識のないエミリオとカイルの体を引っ張って、何とか私の背の上まで運んだ。伏せをしているとはいえ、私は胴体だけでも高さがあるし、意識のない大人の男の人の体は重いだろうし、リセはかなり苦労していた。
「はぁ、これで大丈夫かな」
エミリオとカイルを背に乗せるだけでリセは息切れしている。これまで森をさまよったり、寒さで体力を奪われたりしているから、彼女も限界が近いんじゃないだろうか。
私は二人を落とさないよう、そっと立ち上がる。一方、リセはエミリオたちのそばに置いてあった三人分の荷物を抱えて運ぶ。
私たちは歩き出したが、やっぱり背中に誰かが乗っているのって嫌な気分だ。知らない人の匂いが毛皮につくのも、毛皮が汚れるのもヤダ。
それに背中って私の手も牙も届かないから、守りようがないんだよね。その無防備な場所に他人を乗せていると本能的に振り落としたくなる。
だけど、ぐっとこらえて前に進む。
五分も歩かないうちに雪の積もっていない暖かい場所に出られたので、リセに手伝ってもらってそこでエミリオとカイルを地面に下ろす。
「ありがとう。ひとまず脱出できたけど、二人の体は冷え切っちゃってるわ。服も雪で濡れてしまったし……」
リセはリュックからタオルを取り出して、二人の顔や髪を拭きながら言う。
「あ、待って! 私、マッチを持ってきているんだった。あとは燃やすものさえあれば火を起こせる。枝を拾ってくるから待ってて!」
リセはマッチを取り出して地面に置くと、立ち上がる。
でもこの二人を温めるためには、山盛りの枝を拾ってこないといけないんじゃない? 枝を集めている間にこの二人は死んでしまいそうだし、リセの体力も尽きそうだ。
(仕方ない。私が温めてやるか)
私は「ミャウ」と鳴いてリセを呼び止める。君はそこで休んでいるがいい。
そしてのっそりと動いて、並んで倒れている二人をまたぐように立った。前足の間に二人の顔が、後ろ足の方には二人の足が来るようにする。
そしてそのまま、私はそっと体を下ろした。
私のもふ毛と子猫らしい高い体温で、彼らを温めてあげようと思ったのだ。
私の胸の下からエミリオとカイルの顔は出ているので、窒息することはない。体重もかけないように注意してるから、胴体の下にいる二人は意外と重さを感じていないと思う。
しかしそうやってしばらく暖めていると、
「うぅ……」
「重い……」
体の下から、意識を取り戻した二人のうめき声が聞こえたのだった。
あれ? やっぱり重かった?