繁栄の巫女(1)
【猫豆知識】
・愛撫誘発性攻撃行動
撫でられている猫が急に怒り出したりする行動のこと
ユニコーンとの戦いの日々も終わり、暇な毎日が戻ってきた。
時間を持て余した私は、とりあえずハロルドのところにミルクを貰いに行く。
「ミャーン」
「また来たのか」
召喚してないのにミルクだけもらいにやってくる私に、畑仕事をしていたハロルドはもはや笑うだけだ。前は「ミルクは召喚に応じてくれた時の対価だから」的なことを言っていたが、もう全てを諦めて素直にミルクを取りに行っている。
「こんなにヤギのミルクを気に入るとはな」
「ミャー」
ミルクを口に入れてもらったらもう用なしとばかりに帰ろうとすると、ハロルドはそんな私を「待て待て」と呼び止める。
「そんなにさっさと帰らなくてもいいじゃないか。私にも対価をくれ」
そう言うと、ハロルドは私のもふもふの毛並みを堪能するように体を撫でてきた。こんなのでミルクの対価になるの?
「ミー?」
「可愛らしい動物を撫でていると、こちらまで癒されるのは何故だろうな」
何故撫でている方が癒されるのかは私にも分からないが、ハロルドは嬉しそうにもふもふしていたので、しばらくされるがままに大人しくしておく。あまり他人に長いこと触られるのは好きじゃないんだけど、ハロルドにはミルクを貰ったわけだし。
「森の中を歩き回っているのに、どうしてそんなに綺麗な毛並みなんだ?」
「……」
撫でられるのは気持ちいいし好きなんだけど、本当、少しでいいんだよね。まだ一分も経ってないけど私としてはもう十分で、その後も撫で続けられると何だかイライラしてくる。
なので私は怒ってハロルドから離れた。
「ミャーッ!」
「どうした、急に? 最初は気持ち良さそうな顔をしていたのに、猫は女性よりも扱いが難しいな」
自分でも自分の気持ちがよく分からないよ。でも今は撫でられるの嫌だからもう近づかないで。
プイッと顔を背けると、私は木々が密集する森の中へと戻っていったのだった。
「ミャア」
「またおいで。気まぐれな子猫よ」
ハロルドと別れ、適当に森を散歩する。今日はちょっと走りたい気分だったので、駆けては歩き、駆けては休みながら進む。
途中で可憐なピンクの花が群生していた場所があったので、そこをワァーッ! っと走り回ったら、花の蜜を吸っていた蝶や、休んでいた少女の妖精たちが「キャー!」って叫びながら一斉に飛び立って逃げていった。楽しい。
その後も散歩を続け、午後には森の東側に来ていた。中心部と東の端のちょうど真ん中くらいかな。
そろそろお昼寝でもしたいなと思い、日向ぼっこができる場所を探してうろうろしていると――、
「きゃあっ!?」
突然背後から女性の悲鳴が響いたので、私はびっくりしてちょっと飛び上がった。
毛を逆立たせながら振り返るが、そこには誰もいない。悲鳴は私から少し離れた場所から聞こえたので、声の出どころを探って歩き回る。
(どこだ? 誰だ?)
嗅覚も頼りに声の主を探すと、木の陰に人間の女の人が座っているのを発見した。彼女は目を見開いて私を見ていて、その顔は恐怖で固まっている。どうやら座っているんじゃなくて、私を見て腰を抜かして動けなくなったみたいだ。
のしのしと森の中を闊歩している私みたいな巨大生物と出くわしたら、非力な人間は怖いかもしれないね。
この女の人は軍人でもなければ魔法使いにも見えない。
黒くて長い綺麗な髪は後ろで一つに縛ってあって、ハロルドが着ているズボンとは違ったひらひらしたやつを履いている。だけど派手だったり豪華な印象はなく、服は地味だ。森を歩いたせいで汚れてもいる。
歳は大人だけど若い。そして顔立ちはハロルドとは違ってちょっと薄い感じだが、美人だ。
弱そうな普通の人間だけど、どうやってここまで来たんだろう? まだ森の中心部までは遠いとはいえ、森の端からここまで来るだけでも人間にとっては大変なはずなのに。
「あ、あ……」
女の人は完全に怯えてしまっている。彼女が怖がっている様子を見ると、自分はすごく強い生き物なんだと改めて自覚して自尊心が満たされる。フフン。
(怖いでしょー。人間なんて私の子猫パンチで一発だよ)
私は女の人の前に座って片方の前足を持ち上げ、その大きな手のひらを見せびらかした。
(どう? 強そうな手でしょ?)
しばらくそうやって女の人を脅かしていたら、最初は怯え切っていた相手は逆に段々と落ち着きを取り戻していった。ビビらせようとしてるのに何故……。
「に、肉球……ちゃんとあるんだ……」
女の人は震える声で呟く。恐怖心はまだ持っているようだったが、私が前足を上げるだけで何もしないからか喋れるくらいにはなったらしい。
そして私という未知の生き物を目の当たりにして混乱しながら、独り言のように小声で話し出す。
「よく見たら可愛い顔してるし、大丈夫よ。落ち着いて。体は大きいけど……子猫みたいだし……。こっちから刺激しなければ……あ、そうだ」
女の人はそこで私を見て、ゆっくりとまばたきをした。
「……!」
と同時に私は衝撃を受けてハッと息をのむ。
(こ、この人……ただ者じゃない! 猫の作法を知っている!)
信じられない気持ちで相手を見つめた。
ゆっくりとしたまばたきっていうのは猫にとっての挨拶で、友好の証であり、愛情表現でもある。
それを何故、人間のこの人が知っている……!?
私は誰かにこんなふうにまばたきされたの初めてだけど、何だか安心すると同時に心が高鳴った。
「もう一度……」
女の人は囁くように言って、またまばたきをする。
あーッ! そんなッ! 二回も!?
私は動揺して立ち上がった。目の前の女の人に頬をスリスリ擦りつけたい衝動に駆られる。
(いや、でも、初対面だし!)
私もまばたきを返そうかと思ったが、やっぱり会ったばかりの相手だし恥ずかしいからやめておく。
まるで「大好きだよ」って告白された気分。と言うか実際、されたに近い。
(この人、私のこと好きなんだ……)
少なくとも絶対に私に敵対心は持っていない。目を合わせ、ゆっくりまばたきをするってことはそういうことだ。
生まれて初めて受けた他人からの愛情表現に動揺を隠せない。
その場でウロウロ歩き回った後、ふと立ち止まって女の人をそっと見る。すると彼女はまたもやゆっくり目を閉じた。
(えー!? 三回もッ!?)
何回するの? そんなに私のことが好きなの?
なんか恥ずかしいよ。どうしたらいいか分からないよ。
私は高揚してしまって、地面にごろんと転がった。そして仰向けになってうねうねと体をくねらせる。
「……うちの子もよくその動きしてたな」
女の人は懐かしそうに言って、少しだけほほ笑む。
「うちの子の場合は私にかまってほしい時にやってたけど、あなたは今どういう気持ちなの?」
私は動きを止め、女の人を見つめ返す。この人、猫に慣れてるのかな?
私はあまり人間に会ったことないけど、猫に慣れてる人と対面すると、相手が自然体だからこっちも安心するんだと知った。
彼女はもう私に対する恐怖心はなくなったみたい。ただ体が大きいだけで性格は普通の猫だと気づいたんだろう。
「撫でても怒らない?」
女の人は自分から私の方に近づいてくると、片手を差し出し、そっと私の顎の下を撫でてきた。
話し声は静かで優しいし、動きも急じゃないから次に何をするつもりなのか予測がしやすくて、そういうところも安心する。意識せずにそうしている人もいるだろうけど、たぶん彼女はちゃんと意識してやってるんだと思う。私を刺激しないようにしているのだ。
撫でる場所も、例えばよく知らない人にいきなり背中を撫でられたら、視界に入らない部分だからびっくりしてしまう。顔の前に手をかざされると叩かれるかもと警戒するし、敏感なお尻やしっぽを撫でられるとイラッとしちゃう。
だから彼女はまず顎の下を撫でたのだろう。
私が思わず顎を突き出して目をつぶり、気持ちよくなっていたら、女の人はその顔を見て小さく笑っていた。
そして今度は、仰向きに寝転んだままの私の顎から頬、頭を順番に撫でていく。耳の後ろも自分では手入れできない場所だから撫でられると最高に気持ちよかった。
「もふもふだね。大きいけど可愛いなぁ」
女の人はクスクス笑っている。そうしてしばらく撫でられていた私だが、満足すると段々触られるのが嫌になってくる。
仰向きで寝ころんだまま眉間にしわを寄せる私。しっぽをブン、ブンと大きく揺らし、耳をぺたんと畳む。
するとその様子を見た女の人は、すぐに手を引っ込めた。
「そろそろ嫌になってきたかな?」
なんと! 彼女は猫である私の気まぐれな性質まで理解しているのか。本当に何者なんだ? 賢者であるハロルドより猫のこと知ってるじゃん。
私が起き上がって毛づくろいを始めたところで、女の人はハッとして言う。
「思わず和んじゃったけど、こんなことしてる場合じゃないんだった……! ここなら暖かいし、早く戻って二人を連れてこないと!」
彼女は急いで立ち去ろうとしたが、ふと足を止めて私の方を振り返る。
「猫ちゃん……。一緒に来てくれないかな……? 大きいあなたがいると危険な生き物に出会っても心強いし、あわよくば背中に二人を乗せて運んでもらえたら嬉しいんだけど……」
「?」
二人って誰だ? と思いながらも、暇だから女の人についていくことにした。背中に誰かを乗せて運ぶなんて、絶対に嫌だからやらないけどね。
・ゆっくりとしたまばたき
完全な野良猫は無理だけど、人にある程度慣れている地域猫、よその家の外猫とかなら、ゆっくりまばたきで一気に心を許して撫でさせてくれることもあるので機会があったらお試しあれ。
もちろん自分の家の猫様にもぜひ。まばたきを返してくれたら幸せになれます。試した結果をレポートでくださいおねがいします。