その2 海に捨てられた王女
◇◇◇
嵐の夜、一人の少女を乗せた一艘の小舟が波に翻弄されていた。叩き付ける水は冷たく、波をかぶった船は今にも転覆しそうに傾いている。少女は小舟に必死にしがみ付きながら叫んだ。
「助けて……誰か……助けて……」
それは喉の奥から絞り出すような、小さく掠れた声だったけれど。荒れ狂う激しい嵐の中、声は確かに竜王に届いた。
「これは……なんだ?聞こえる、私を呼ぶ声が……」
頭のなかに直接響いてくる声。聞き間違いなんかじゃない。だが今にも失われそうなほどの弱々しい声に心臓が跳ねる。
「私の花嫁の声だ……」
「え?おい、フィリクス?」
次の瞬間、フィリクスは城の窓から飛び出していた。瞬く間に竜体に変化すると、声のする方角目指して矢のように翔ぶ。
「間違いない!やっと見付けた!私の番」
まだ見ぬ番に胸が高鳴る。だが、何よりも切羽詰まった様子に心が乱れる。
「どこだっ!」
すでに波間に船はなく、フィリクスは迷うことなく海中に飛び込んだ。
◇◇◇
(ああ、私、ここで死んじゃうのね……)
小さな船から投げ出された体は、ゆっくりと海の底へと沈んでいく。口から出すあぶくが少しずつ減るとともに、意識も薄れていく。
(邪魔者が消えて、めでたしめでたし)
王から贈られた贅を尽くした花嫁衣裳。だが、水を吸ったドレスは鉛のように重たく、身に付けた数多の宝石も纏わりついて邪魔なだけ。どうせ海の泡と消えるのだ。宝石だけでも奪っておけばいいものを。
いや、それではまずいのだ。アイリスが自らの意思で小舟を出し、逃げようとして船が沈んだ。恐らくそういうシナリオなのだから。
(初夜の前に消してくれたのはせめてもの救いね……)
アイリスは、生まれたときから大国ドラードへの人質となる運命だった。アイリスの生まれたアスタリアは資源の少ないちっぽけな島国で、ドラードとの貿易によってなんとか成り立っている貧しい国だ。
六十も年上の老王にはすでに数多の側室や子達がいるが、十六歳になれば黙ってその列に加わり、側室として召し上げられる。弱小国の王女に生まれた運命。こんなのは良くあること。
けれどもドラード国のたったひとつの誤算は、アイリスが美しすぎたことだった。アイリスの絵姿を一目見るなり、老王が夢中になるほどに。取るに足りない小国の王女は、その瞬間、大国を揺るがす脅威へと変わってしまった。
ドラードでアイリスの存在を忌まわしく思う人達は、掃いて捨てるほどいるのだろう。十六歳の誕生日の今日。アイリスは見たこともない程豪華な花嫁衣装に身を包み、たった一人でドラードからの迎えの船に乗り込んだ。
大国の威信をかけて作られた、巨大で立派な船。だが、アイリスを迎えたドラード国の使者の目は冷たく、歓迎されていないのは一目で分かった。程なく何者かに薬を嗅がされ、気が付いたときは頼りない小舟に乗せられて、海の上を彷徨っていた。
(いっそのこと、殺してから捨ててくれれば良かったのに)
船を血で汚したくなかったのか。それなら最初から毒を盛ればいいものを。自分で命を絶つのは恐ろしかった。
(お父様、お母様、役立たずの娘をお許し下さい。神様、我が魂を身許に捧げます……)
息が途切れる最後の瞬間、アイリスは神の姿を見た。キラキラと光る水面を蹴散らし、美しい黄金色の竜が、真っ直ぐにアイリスめがけてやってくる。アイリスの国、アスタリアの神は竜だ。アスタリアを作り、恵みを与え守ってくれる、偉大で優しい竜神様。代々そう言い伝えられていた。
(神様……ああ、なんて、美しいの……)
竜と目があった瞬間、アイリスはにっこり微笑み、ゆっくり意識を手離した。
















