>> 後編
「今度ティオレイド様がわたくしに会いにドーシュ伯爵家に来てくださるの!
サンルームはわたくしがティオレイド様と使うからお姉様はその日は邸に誰も呼ばないでね! お姉様も大人しくしててよね!」
そうマリリンがわざわざ教えてくれたのでカリンナはティオレイドに手紙を書いた。
──
当日、予定時間より早目にお越しくださいな
可愛いマリリンをお見せしますわ
──
そして当日、ティオレイドはマリリンとの予定時間より30分ほど早くドーシュ伯爵家に来た。
マリリンの悪い癖でどうにも彼女は『早めに準備して待つ』という事をしない。
案の定まだ準備の終わっていなかったマリリンは侍女たちを急かして準備をし、ティオレイドは先に伯爵家のサンルームへと通された。
そこには微笑んで既にお茶の席に座っているカリンナが居た。
「お待ちしておりましたわ、ティオレイド様」
立ち上がってカーテシーをするカリンナにティオレイドは微笑みながら近付いてその向かいの席へと座る。
「御機嫌よう、カリンナお義姉様。
今日はマリリンとの約束だった筈だけど、どうしたんだい?」
「妹は準備で少し遅れておりますの。
その間にわたくしがお相手いたしますわ」
そう言ってさり気なく座っている椅子を移動してカリンナはティオレイドの隣に座る。
不自然に椅子が多いと思ったが、この為か、とティオレイドは納得した。
「随分と積極的だけど、君の婚約者はこの事を知っているのかい?」
面白そうにティオレイドは聞く。
カリンナも勿論楽しそうに微笑み返した。
「当然ですわ。わたくしがこの目で選んだ婚約者様ですもの。事細かく説明しなくても理解して下さる素晴らしい男性ですわ」
「へ〜、優秀なんだね。
でもあまり優秀過ぎてもつまらなくないかい?」
「わたくしは優秀な人の方が好きですわ。あまり理解の仕方が違う方だと、大変じゃありません?」
カリンナの言葉にティオレイドは小さく肩を揺らして笑う。
「誰でも最初はすれ違うものだよ。そこを互いに寄せていくのが楽しいんじゃないか」
流し目の様に目を細めてカリンナを見るティオレイドにカリンナは口の前に手を置いてフフフと笑った。
「ティオレイド様はお優しいですものね。わたくしはどうも直ぐに結果を求めてしまっていけませんわ……」
唇に寄せていた手を頬に添えてカリンナは小首を傾げた。サラリと流れる髪が美しく揺れる。
「でもそこがカリンナの良いところだと思うけどね」
目を合わせてそんな事を言うティオレイドにカリンナは嬉しそうに笑って見せる。
「まぁ! フフフ、ありがとうございます」
和やかな雰囲気の二人はそんな話をしながら意識は二人とも別を向いていた。
遠くから小走りに走ってくる足音が聞こえてくる。そんな足音すら可愛らしく聞こえるから不思議だ。
二人が視線を合わせながら互いに目を細めた瞬間。
「ちょっ!?
なんでお姉様が居るのよ!!」
サンルームに入って来たマリリンが青くなって悲痛な声を上げた。
◇ ◇ ◇
「ティオレイド様はわたくしに会いに来て下さったのよ!? そこに座っていいのはお姉様じゃないわ!!」
両手を胸の前で握り、必死な顔で姉を非難するマリリンにカリンナは眉尻を下げて申し訳なさそうな顔をした。
「マリリン……
わたくし、貴女に謝らなければならない事があるの」
そう言って椅子から立ち上がったカリンナがマリリンに向き直る。
「えぇ、謝って下さい!」
マリリンは妹の婚約者に近付く無作法な姉に怒ってカリンナを睨んだ。
当然『妹の婚約者に妹より先に近付いた事』への謝罪だとマリリンは思った。
しかしカリンナから出た言葉は……
「貴方が前に言った言葉を否定した事、本当にごめんなさい……
今なら分かるわ……貴女の言っていた事が正しかったのね」
「え……?」
マリリンはカリンナが何を言い出したの分からなかった。そんなマリリンに本当に申し訳なさそうな顔をしてカリンナは続ける。
「『将来家族になるなら今から仲良くしたっていいじゃない』、マリリンのあの時の言葉、今なら理解出来ますわ……」
そう言ってウットリとした目でティオレイドを見る姉にマリリンはサッと体から血の気が引くのが分かった。
「っ……は?!?」
「『別にお姉様の婚約者をとろうなんてしてないわよ。ただ仲良くなろうとしただけ』、でしたわよね?
あの時のわたくしは頭ごなしに貴女を否定してしまって……あの時の事、今は本当に反省していますのよ?
だから、謝罪致しますわ、マリリン。
本当にごめんなさい」
そう言ってカリンナはマリリンに向かって頭を下げた。
姉からの初めてのちゃんとした謝罪にマリリンはジワジワと体に広がる恐怖に青い顔を小さく左右に振った。それは無意識の行動だった。
「あ……、あ、……何を………」
何を言っているの?!
そんな反論すらまともに言えない程に困惑したマリリンの唇が震える。そんなマリリンに、顔を上げたカリンナが優しく、ニッコリと笑った。
「マリリン。
貴女の発言が正しかったと認めますわ。
義姉弟になるのですもの、仲良くして当然ですわよね」
そう言ってカリンナは座っているティオレイドに寄り添う様に立ち、その肩に触れた。
◇ ◇ ◇
──止めて!!
わたくしのティオレイド様に触れないで!!──
そんな悲鳴がマリリンの頭の中に響く。
だが声に出す事が出来なかった。
姉が、あの姉が自分に頭を下げた! 自分が間違っていたと謝罪した!! わたくしの方が正しかったと認めた!!!
そんな喜びと同時に『違う!! 間違ってる!!』と心が叫ぶ。
あの時のマリリンは姉に嫌がらせがしたくて姉の婚約者に近付いた。自分の言い分がおかしい事など百も承知だったがカリンナの婚約者を奪えればカリンナより自分が上である事を証明出来ると思って行動した。
それをあの時、間違っていると言っておきながら今更『間違っていると言った事が間違っていた』なんて言い出すなんて……!
マリリンは混乱した。
これが他の事であれば『ほら見なさい! わたくしの方が正しかったのよ!』と愉悦に浸れたが、この話はそうはいかない。
だってこのままではティオレイド様をカリンナに取られる!?!
「お、お姉様?! 何を言い出すの?!」
それは違う!! とはっきり言えたらいいのにマリリンのプライドがそれを邪魔して言葉が出て来なかった。今のカリンナを否定すれば過去の自分の発言を自ら否定する事になる。カリンナの発言がやっぱり正しかったのだと認める事になる。
負けを認める事になるそんな事を、マリリンは口に出す事が出来なかった。
そんなマリリンを余所にティオレイドは不思議そうな表情をして自分の斜め後ろに立ったカリンナを振り返りながら、自分の肩に置かれたカリンナの手に自分の手を添えた。
「っ!?」
そのティオレイドの行動にカッとマリリンの頭に血が昇る。しかしティオレイドもカリンナもそんなマリリンに気づく事なく見つめ合うかの様に視線を合わせた。
「マリリンがそんな事を言ったのかい?」
ティオレイドの質問にカリンナが頷く。
「えぇ、わたくしの婚約者となったばかりのロッシュ様に『わたくしは貴方の妹になるのですよ? 優しくして欲しいですわ』と。
ですから、ティオレイド様。
“わたくしは貴方の義姉になるのですから、優しくして下さいませね”?」
カリンナはティオレイドに向けて妖艶に微笑んだ。
その微笑みを受けてティオレイドもカリンナを見つめながら目を細める。
「マリリンが言ったのなら……仕方ないのかな。
だって、婚約者の私がマリリンの発言を否定してしまっては……物分りの悪い婚約者と思われてしまうかもしれないからね。
……ね? マリリン?」
自分の肩に置かれたカリンナの手を優しく握りながら、カリンナの言葉に同意を示したティオレイドが優しい眼差しのままでマリリンを見た。
どこまでも優しいその眼差しにマリリンは動揺した。
カリンナが馬鹿な事を言ってもティオレイドが否定すると思った。『何を言っているんだ』と言ってくれると思ったのにティオレイドはマリリンを尊重すると言ってカリンナを拒否しなかった。
──マリリンがそう言ったから──
過去の自分の発言が今マリリンを苦しめる。
頭の中で『違う』『嫌よ』ともう何に対して否定しているのか分からない程に考えがごちゃごちゃになったマリリンは、ただ怒りで顔を真っ赤に歪めてカリンナを睨みつけた。
◇ ◇ ◇
「な、何よ!? あの時散々わたくしを馬鹿にしたのに今更なんなの!? ティオレイド様から離れて!!
ティオレイド様もお姉様の言葉に惑わされてはいけませんわ!」
悔しげにそう叫ぶマリリンにカリンナもティオレイドも不思議そうな顔を向ける。
「でも、貴方がそう言ったのよ?」
「姉上はそう言っているよ? それともマリリンはそんな事を言っていないのかい?」
カリンナの言葉に続く様にそう聞いたティオレイドにマリリンは返事に詰まってグッと唇を噛んだ。その間にマリリンの代わりにカリンナが返事をする。
「その時の会話はロッシュ様や周りに居た使用人たちが聞いていますわ。だからその後マリリンは淑女教育をもう一度受ける事になりましたの。
……わたくしが貴女の言葉を認めなかったばかりに……本当にごめんなさいね……」
申し訳なさそうな表情をするカリンナにマリリンは悔しくて仕方がなかった。
ここでカリンナに同意して責め立てれば今後カリンナがティオレイドに近付く事を認める事になる。でもはっきり否定しては自分のあの時の発言が間違っていたと認める事になる。
自分が間違っていたなんて認めたくないマリリンはどう返事をすればいいのか分からなくて黙り込む事しか出来なかった。握った両手の爪が食い込んで痛みを発していたがそれが分からない程にマリリンは悔しくてカリンナを睨んだ。
「あらあら、そんな顔をしては駄目よ? ティオレイド様も見ているのに」
「っ!!」
カリンナに指摘されてマリリンは咄嗟に顔を顰めて頭をふり、そして両手で顔を覆って下を向いた。
「酷いわ、お姉様……
今更そんな事を言うなんて……」
マリリンは弱々しく訴える。
震えた声で、過去の事だから……、と話を流そうとするマリリンをカリンナは見逃さない。
「えぇ……今更よね?
優しいマリリンはわたくしを許してくれるのね。ありがとうマリリン。
ではティオレイド様。
今日からはわたくしとも仲良くして下さいませね」
マリリンの耳にそんな言葉が聞こえてくる。
瞬間、頭に血が昇ったマリリンは顔を上げて叫んだ。
「止めてよお姉様っ!!
ティオレイド様はわたくしの婚約者よ!!!」
◇◇◇
赤い顔でグッと睨んでくるマリリンをカリンナは不思議そうに小首を傾げて見つめ返す。
「? ……えぇ、そうよ?
ティオレイド様は貴女の婚約者よ?」
何を言っているの? と不思議がるカリンナのその反応にマリリンは怒りが増す。
「っ……! だからっ、人の婚約者に近付かないでよ! お姉様だって分かってるんでしょ!!」
「えぇ、淑女教育ではいけない事だとは教わるわよね」
「だったら……っ」
「でもマリリン。
貴女はそうは思っていないんでしょう?」
「っ?!」
「だったら、貴女の考えに賛同するわ、マリリン。
わたくしは貴女の姉なのですもの」
青ざめるマリリンに聖母の微笑みを向けるカリンナにティオレイドも楽しそうに笑いながら口を開いた。
「なら……私も“婚約者を尊重する”婚約者として、マリリンの考えを受け入れるとしよう」
「えぇ、マリリンの為に」
「マリリンの為なら仕方がないね」
二人で微笑み合いながら『マリリンの為』だと言うカリンナとティオレイドにマリリンは絶望を感じた。
──違うっ!! そんな事望んでない!!──
頭でそんな言葉を叫ぶが同時に
──わたくしがあんな事言ったからっ!?──
と後悔の念が押し寄せる。
仲睦まじく寄り添う姉と自分の婚約者を目の前で見せ付けられてマリリンは悔しさと後悔と不満と怒りと、もう訳の分からなくなった感情で頭の中がぐちゃぐちゃになった。
だけど一つだけはっきり分かっている事があった。
このままではカリンナの思い通りに、
ティオレイドを取られるっっ!!!
そう思った時、マリリンの目からは自分の意思とは関係なく、ポロポロと涙が零れていた。
「嫌よ嫌よ嫌よ!!
ティオレイド様に近付かないで!!」
◇ ◇ ◇
「ティオレイド様はわたくしの婚約者よ! お姉様の婚約者はロッシュじゃない!! ティオレイド様に近付かないで! 触らないで!! 何がわたくしの考えに賛同するよ! 嫌がらせじゃない!! 分かってる癖にっ!! お姉様は全部分かってる癖に!! わたくしの考えが間違ってるって思うならそう言えば良いじゃない!! こんな酷い事しないでよ!!
わたくしのティオレイド様に近付かないで!!!」
マリリンは泣き叫びながらカリンナからティオレイドを引き離した。
ティオレイドの腕を引いて立たせ、自分の方へ引っ張ってカリンナから距離を取る。
そして涙をいっぱいに流したままでカリンナを睨んだ。
そんなマリリンに驚いた顔を向けながらカリンナが口を開く。
「酷い事って……
マリリンが最初にした事じゃない……
貴女、自分が酷い事をしてるって分かっていてそんな事をしたの?」
「そうなのかい、マリリン?」
「っ! ……あ、わたくし…………っ」
この場に居るのがカリンナだけなら『そうよバカねお姉様!』とでも言えただろうに、自分の真横から困惑した顔で見下ろしてくるティオレイドにマリリンは顔を青くした。
カリンナの言葉に反論する事全部が自分に返ってくる。
今、マリリンが嫌だと思う事全てが、最初にマリリンが姉にした事だった。
「わたくし……そんな……
違うの……っ、ティおレィド様…………」
泣きじゃくりながら悲しい目をしてマリリンはティオレイドを見詰めた。
助けて欲しい。
守って欲しい。
ティオレイドの方から姉を窘めて欲しい。
ティオレイドの口からこんな話は今更だと姉に言って欲しい。
ティオレイドの言葉で姉を追い払って欲しい。
マリリンは色んな思いを乗せてティオレイドを見詰めた。
そんなマリリンにティオレイドは優しい眼差しを返してくれる。
「ティオレイド様……」
マリリンは涙が未だに止まらぬ顔を少しだけ赤く染めてティオレイドの瞳を見詰める。
ティオレイド様なら分かってくれる
カリンナの言葉よりわたくしを優先してくれる
マリリンはティオレイドの目を見てそう思った。
そんなマリリンにティオレイドは優しく微笑む。
釣られてマリリンが微笑もうとした時
「マリリンはどう考えているんだい?」
「え?」
ティオレイドが何を言い出したのかマリリンには分からなかった。
◇ ◇ ◇
「ティオレイド様?」
マリリンは困惑して聞き返す。
そんなマリリンにティオレイドは少しだけ困った様に眉尻を下げて微笑んだ。
「カリンナお義姉様が言っている事は、前のマリリンが言った言葉、なんだろう?
なら、今のマリリンがどう思っているのか教えて欲しい」
「え……?
今のわたくし……ですか……?」
「そうだ。
……淑女教育をやり直したマリリンは、前に自分が言った言葉をどう思う?」
微笑んではいるが、真剣なその眼差しに、ティオレイドが本気なんだとマリリンにも伝わる。
「あ……っ、……わたくし……」
ティオレイドにジッと見詰められてマリリンは言葉に詰まった。
言葉が出なくて自然と震える唇にマリリンは自分が心底困っているんだと自覚する。
昔の自分の言葉を認めれば、カリンナがティオレイドに近付く。
昔の自分の言葉を否定すれば、自分が間違っていてカリンナが正しいのだと認める事になる。
──どっちも嫌なのっ!!──
マリリンは目を瞑って心の中で叫んだ。
嫌よ嫌よ! と頭の中ではそれがいっぱいになるが、だからといってそのままティオレイドに訴えたところでどうにもならないだろう。最悪ティオレイドに嫌われるかもしれない。
そんな考えがマリリンの頭に過ぎった時、ティオレイドが小さく溜め息を吐いた。
「……っ!?」
マリリンの心臓が小さく跳ねる。嫌な気持ちが一気に溢れてきてマリリンの背中に冷や汗が流れた。
「……マリリン……
私は婚約者である貴女の考えを尊重したい……でも本心を言えば、……大切な時間をマリリンとだけ共有したいんだ……」
そう呟いたティオレイドの表情は悲しげだった。そんなティオレイドにマリリンは心臓が締め付けられる様に軋む。
「ティオレイド様……っ!」
悲しげな声で名を呼んだ目の前の婚約者の肩を優しく撫でてティオレイドは溜め息と共に気持ちを吐き出した。
「もしマリリンがまだ考えを変えていないと言うなら私はカリンナお義姉様との時間も作らなくてはいけなくなる……」
「そんなっ!? ダメです!!」
「私も嫌だよ……だからマリリン……」
──お願いだよ……──
そんなティオレイドの心の声が聴こえた気がしたマリリンが堪らず口を開く。
「っ!! ……はいっ! はいっ! わたくしが間違っていたのですっ! 前にお姉様に言った言葉はおかしな事でしたっ!
婚約者以外の男性には、例えそれが将来家族になる方だろうと適切な距離を保たなければいけません!! わたくしも今はそう思っています!!」
ティオレイドに聞かせる様に訴えたマリリンの目に、ティオレイドの表情が緩やかに微笑みを浮かべるのが映る。
その事にマリリンが心の底から湧き上がる安堵に体の力が抜けると、そんなマリリンにティオレイドが返事を返した。
「良かった。
じゃあマリリン。
お義姉様に謝ろう」
「え?」
◇ ◇ ◇
ティオレイドはにこやかに微笑んでいる。
マリリンが困惑して無意識に姉を見ると、カリンナも嬉しそうに微笑んでいた。
「……え?」
マリリンの背中を冷や汗が流れる。
そんなマリリンの背を押す様にマリリンの背中に手を添えたティオレイドが、優しくマリリンに囁く。
「マリリンが間違っていたのなら謝らないとね?
カリンナお義姉様も、“自分は間違ってはいないけれどマリリンの考えを尊重して”マリリンを否定してしまった事を謝罪してくれたのだから、それを違うと言うのなら、“間違っていたマリリンが謝罪して”、ちゃんと“あの時の自分の方が間違っていた”のだとお義姉様に理解して貰わないと。
大丈夫。私が側に居るから。
さぁ、カリンナお義姉様に謝罪して? マリリン」
優しい微笑みで自分を見るティオレイドにマリリンは絶句して一瞬息をするのを忘れた。
マリリンは人生で一度だってカリンナに謝った事は無い。だって謝りたくないんだからしょうがない。謝ったらその時点で負けな気がする。カリンナがマリリンに頭を下げる事はあっても、マリリンがカリンナに頭を下げるなんて事があってはならないと思っていた。そんな場面は起こり得ないと思っていた。それなのに……
マリリンは自然と震えてしまう口唇をグッと閉じて唾を飲み込んだ。握った両手に力が入り、困惑した頭が縋る場所を探してティオレイドの顔を見上げてしまうが、目に入るティオレイドの表情は慈愛に満ちた優しい微笑みをたたえてマリリンに謝罪を促している。
「……?!?」
完全にマリリンが謝罪すると思っているティオレイドにどうしたらいいのか分からなくなってしまったマリリンが無意識にカリンナを見た。
カリンナは苦笑してマリリンを見ていた。
「マリリン、いいのよ?」
「え?」
困惑した表情で固まるマリリンにカリンナは優しく話しかける。
「無理しなくていいのよ、マリリン。
出来ない事を無理にする必要はないわ」
その言葉にマリリンの血は一瞬で頭に昇った。
「……っ!? む、無理じゃないわよ!! 何が無理よ?! お姉様に出来てわたくしが出来ない事なんかないわっ!!!」
カッとなってマリリンは反論した。それはもう条件反射の様なものだった。
そして言った瞬間にマリリンは墓穴を掘ったのだと気付く。
ハッとして慌ててティオレイドとカリンナの顔を見ると二人はそれはもう優しいにこやかな笑みを浮かべていた。
「あ……」
「マリリンならそう言ってくれると思ったよ」
「あぁマリリン……成長したのね」
──さぁ謝罪を──
ニコニコキラキラとした二人からの笑顔に促されてマリリンはもう『そんな事はしない!』とは言えない状態になった。
何よりティオレイドに失望されたくなかった。ここで嫌がれば一体どう思われてしまうだろうか……
「…………っ、
……お、……おネぇさま……」
「なぁに、マリリン?」
絞り出した様な声でマリリンが呼ぶとカリンナは嬉しそうに返事をする。マリリンが無意識に助けを求めて視線を向けた先にはティオレイドの期待に満ちた笑顔があった。その目を見られなくてマリリンは直ぐに視線を逸らしてカリンナの方を向く。
「っ! っ……、………お姉様、
……わたくしが前に言った発言は間違いです……っ、姉妹でも、お互いの婚約者に馴れ馴れしくしちゃダメですっ! わたくしが前に言った言葉は忘れてちょうだい!
あの時はっ、ごめんなさいっ!!」
そう言ってマリリンはカリンナに向かって頭を下げた。
◇ ◇ ◇
強く瞑った目からポタポタと涙が溢れた。その涙が何故流れているのかもマリリンは分からなかった。
そんなマリリンの背中をティオレイドが優しく撫でる。
その感触にマリリンは頭を上げた。涙に滲んだ視界にティオレイドとカリンナの優しい笑みが映る。
カリンナが近付いてきてマリリンの濡れた頬をメイドから受け取ったハンカチで優しく拭う。
「マリリンからの謝罪を受け取りました。
マリリンが考えを改めていてくれて姉として嬉しいです。
……ありがとう、マリリン」
「……もう誤解は解けたんでしょ。
だったらもうお姉様は席を外して」
目を合わせずに不貞腐れたように言ったマリリンにカリンナは苦笑する。
「えぇ、そうね。
マリリンの考え方が変わっていたのなら、わたくしがここに居てはいけないわね。
名残惜しいけれど……」
ボソリ、と最後にとても小さな声で呟いたカリンナの言葉を聞き逃さなかったマリリンが驚いて目を開く。
「お姉様っ!」
咎める声で名を呼んだマリリンには目を向けずにカリンナはティオレイドに対してカーテシーをすると
「お騒がせしてしまって申し訳ありませんでした。わたくしは下がらせていただきますわね。
……マリリンを、どうぞ宜しくお願い致します」
そう言って最後にティオレイドの目を見て微笑んで、カリンナは去って行った。
そんな姉の後ろ姿を目で追いながらマリリンは唇を噛む。
──悔しい悔しい悔しいっ!!──
姉から受け取っていたハンカチで目元を拭う事もせずにマリリンはハンカチを握り締めた。
姉の澄ました顔をどうにか歪めさせてやりたいと強く願っていたのにっ……!
謝罪させられた! 泣かされた!!
どちらもマリリンがカリンナにさせてやりたい事なのにっ!! だから殊更悔しくて腹立たしかった。そしてまだティオレイドを諦めた訳ではなさそうなところがマリリンの不安を誘う。
そんな色んな感情に支配されていたマリリンはその瞬間ティオレイドを忘れてカリンナの背中を睨みつけていた。
頭の中は姉の事でいっぱいだ。
そんなマリリンの肩にティオレイドが手を置いて自分の方へ向かせる。マリリンは見上げたティオレイドの目を見てその時やっとカリンナへと向けていた意識をティオレイドへと向けた。
そんなマリリンの意識をその瞳の動きで読み取ったティオレイドが少しだけ寂しそうな表情でマリリンに優しく笑いかける。
「……妬けちゃうな。
マリリンの気持ちはいつもカリンナお義姉様の物だ」
そう苦笑混じりに言われてマリリンは目を見開いて驚いた。
「なっ?! 何を言っておられますのティオレイド様?!
わたくしの気持ちがお姉様の物だなんて、ありえませんわ?!」
ティオレイドが言い出した言葉の意味が理解出来ずにマリリンは焦る。こんなにかきむしりたくなる程に腹が立つ相手の物だなんて意味が分からない。
そんな言葉を好意を寄せている相手から言われてマリリンは慌てた。
「でも実際、マリリンの頭の中はカリンナお義姉様の事ばかりだろう?
私の事を……一瞬忘れていたんじゃないかい?」
「っ?!」
指摘された事に反論出来なくてマリリンは絶句する。
その反応にティオレイドは苦笑する。
「フフ……、嫉妬……しちゃうな……
私はマリリンの願いを叶えてあげたいけれど……そうするといつもそこにはカリンナお義姉様がいるんだ……悔しくなっちゃうよ」
そう言ってマリリンの頬に手を添えたティオレイドが、マリリンの瞳を見つめながらただただ優しくマリリンに微笑みかけた。
◇ ◇ ◇
「そんな……っ、そんな、違いますわっ。
わたくしが想っているのはティオレイド様の事だけです!
あんな姉の事なんかっ!!」
自分の頬に添えられたティオレイドの手に自分の手を添えてマリリンは必死な表情で伝えた。
「姉はわたくしをからかって楽しんでいるのですっ! だからわたくし……っっ!
わたくしが一番に考えているのはティオレイド様だけですわっ! ティオレイド様を一番に思っておりますものっ!!」
「でもカリンナお義姉様が何かしてきたらマリリンは無視出来ないだろう? お義姉様もそれが分かっていて私に構うんだよ……マリリンが自分の方へ意識を向けるって知ってるから……」
少し寂しそうに顔を曇らせたティオレイドにマリリンは焦る。
「そんなっ?! それは違いますわ?! お姉様はティオレイド様の事を……っ!!」
言いたくない言葉にマリリンは言葉を詰まらせた。
そんなマリリンにティオレイドは苦笑する。
「私の婚約者はマリリンだ。そこにカリンナお義姉様の気持ちは関係が無いよ。
マリリンが私だけを見ていてくれたら、カリンナお義姉様が何を言ってきたとしても取り合う必要は無いんじゃないかな」
「でも……姉ですし……」
これが赤の他人なら完全無視も出来るかもしれないが、一緒の家に住んでいる姉を無視するなんてマリリンには考えられなかった。
そもそもカリンナに構っているのは妹のマリリンの方なのだ。手頃な場所で優越感を感じられる相手が姉なのだ。返り討ちに遭う事も多いが──むしろ返り討ちにしか遭っていないのだが──最近ではティオレイドの事でカリンナに勝てる事が多い──とマリリンは思っている──のに、それを自分から遠ざけるのはどうにも……マリリンにはどうにも受け入れ難い様な気がした……。
そんなマリリンにティオレイドは優しく声を掛ける。
「マリリン。
侯爵家に入れば、嫌いな人とも笑って会話をしなければいけなくなるんだ。カリンナお義姉様の事は、その予行演習だと思えばいいんじゃないかな」
「予行……演習……ですか?」
「そうだよ。相手を嫌いだからと顔に出して無視していたらそこから足を掬われるかもしれないからね。好きでもない相手でも笑って挨拶出来なくちゃ。嫌味を言われても笑って受け流さないといけない。
……泣いては……いけないんだよ……」
そう言ってティオレイドはマリリンの濡れた頬を指で撫でた。
「ティオレイド様……」
「勿論。私の前ではいくらでも泣いて良いよ。
でもこれからマリリンは私の伴侶として色んな人に会わなくちゃいけなくなる。お義姉様にはまだマリリンへの愛情がある。けど、これからマリリンが会う人にはこちらに憎しみを抱いている人もいるかもしれない。そんな人に侯爵家として弱みを見せてはいけないんだ。誰がいつマリリンに刃を向けるか分からないからね……。
だからね、マリリン。
マリリンの純粋で無邪気な可愛さは、これからは私にだけ、見せてはくれないかい?
私の伴侶として、表向きは侯爵家の立派な夫人として、……私といる時だけは本来の可愛らしいマリリンとして……一生側にいてくれないだろうか……」
唇が触れてしまうんじゃないかと思う程に近付いたティオレイドの美しい顔にマリリンは見惚れ、耳の鼓膜を震わせるティオレイドの甘い声はマリリンをウットリと溶かす。
頬に感じるティオレイドの手の温かさがジワリジワリとマリリンの体に染み込んで、マリリンの世界はティオレイド一色に染められた気がした。
「ティ……ティオレイドさま……わたくし…………」
「……ダメ……だろうか……?」
ジッと見つめられていた瞳が一転、悲しげに揺れてマリリンの心を刺激する。
カリンナの事とか色々考えていたマリリンはその瞬間何も考えられずに口を開いた。
「ダメだなんてっ……そんなっ、わたくしっ!
ティオレイド様のお側に居られるならわたくし、なんだっていたしますわ!!」
マリリンの言葉を聞いて
ティオレイドは心の底から幸せそうに笑った。
◇ ◇ ◇
なんだってする、と宣言してしまったマリリンにティオレイドが願った事は『カリンナの事を考える時間をティオレイドを考える時間に使う』というものだった。
言われた時は『そんな簡単でいつもしている事でいいの?』と思ったマリリンだったが、意識して考えてみると自分が如何に姉の事を意識しているかを思い知らされる事になった。
ティオレイドとの事を自慢したい。何を貰ったのか見せびらかしたい。自分が何を体験して姉が何を体験してないのかを悔しがらせたい。小さい事でも「お姉様ったら」って上から目線で笑っていたい。
ティオレイドに言わせれば、ティオレイドの事を姉に話している時の時間はマリリンがカリンナの為に使っている時間で、ティオレイドからすると、それはマリリンがティオレイドを使って姉との時間を作っている様なもの、らしい。
マリリンにとってはそんな風に思われていた事が青天の霹靂でありえない事だったが、ティオレイドにそう思われていると知った今、そんな勘違いをされる様な行動をしない様にしようとマリリンに思わせた。
──わたくしはお姉様の事なんてなんとも思っていないわ!!──
ティオレイドから言われた言葉はマリリンにとってゾッとするものだった。
──お姉様の事は嫌いなんだからっ!!──
マリリンはカリンナを無視する事を決めた。
……しかし同じ家に住んでる家族。無視しつづける訳にもいかない。それに貴族として『嫌いな相手に対しても笑顔で対応しなければいけない』ので、マリリンは頬を引きつらせながらもカリンナに対して笑顔で接する様に頑張った。
「おはようございます、お姉様」
前は言わなかった挨拶もする様になったマリリンは、カリンナの前を澄ました顔で通り過ぎる。
そんなマリリンの後ろ姿を見送ったカリンナがある事に気付いた。
「あら? その髪飾り素敵ね。もしかしてティオレイド様から?」
そんなカリンナの言葉にマリリンは咄嗟に嬉しくなって振り返った。
「フフフ、気づかれました? ティオレイド様がわたくしをイメージして作らせたんですって! 綺麗でしょ? 使われてる石が……っ!」
つい我慢出来ずに自慢してしまった事に気付いたマリリンがハッと我に返る。自慢する為に近付いていたマリリンをカリンナが微笑ましそうに見ていてマリリンはウッと言葉を詰まらせた。
──ダメダメ! ティオレイド様の事を考えないとっ! ティオレイド様ティオレイド様っ!──
「? マリリン?」
突然黙って目を閉じて眉間にシワを寄せたマリリンをカリンナは不思議そうに見る。マリリンはその声に反応して目を開けるとフンッと鼻を鳴らしてカリンナから顔を背けた。
「こ、この前頂きましたのよ。ではっ……!」
慌てた様に話を切り上げて背を向けて歩き出したマリリンにカリンナは苦笑する。
自慢したら悔しがってあげようと思っていたのになんだか変な寂しさを感じてしまう。
あの日以降マリリンとのやりとりはこんな感じだ。その内マリリンが慌てたりする事もなくなるだろう。
「……この気持ちは……喪失感……っていうのかしらね……
昔はあの子の言動に、あんなにも辟易していたのに……」
自分の感情が可笑しくて一人苦笑してカリンナは小さく呟いた。
◇ ◇ ◇
「私にとって、好きの反対は“無関心”だからね」
ティオレイドが今は自分の隣に居ないマリリンを見つめながら呟いた。
「わたくしも同じですわ。
“嫌い”という感情すら使いたくないですもの」
ティオレイドの隣には居ないがすぐ近くに居るカリンナもマリリンを見つめながら答えた。
今はアーゼン侯爵邸にて開かれている親族だけのパーティー。
ティオレイドの母親に呼ばれたマリリンは2人の視線の先で姑となる女性と話をしている。
その隙にカリンナはスススッとティオレイドの近くに来ていた。
ティオレイドはマリリンから目を離さずにカリンナと会話する。
「マリリンの好きの反対は“嫌い”だから、時々堪らなく嫌われてみたくなるよ」
柔らかく微笑みながらそんな事を言うティオレイドにカリンナは笑う。
「二度と好意が戻らなくても良いのなら実行されてみては?」
「しないよ。
君を喜ばせるだけになりそうだしね」
「フフフ」
「お姉様ったら! またわたくしが居ない間にティオレイド様に近付いて!」
未来の姑から解放されたマリリンがティオレイドの元に戻って来て直ぐ様カリンナとティオレイドの間に入った。
サッとティオレイドの腕に手を絡めて寄り添い、カリンナを一睨みする。
その様子にティオレイドは微笑み、カリンナは困った様な顔を作った。
「嫌だわ、マリリン。そんな言い方。
誤解をされてしまうわ」
「お姉様がいけないのよ。わたくしの居ない時に限ってティオレイド様に近づくんだから!
さ、ティオレイド様、行きましょ。お義母様がお呼びですわ」
「あぁ、分かったよ」
「フフフ♪」
ティオレイドの腕に寄り添いながら歩き出したマリリンがティオレイドに見えない様にカリンナを振り返ると勝ち誇った様な笑みを浮かべた。そんなマリリンに、少し寂しそうな……少し困った様な笑みを浮べてカリンナは二人を見送る。
そんなカリンナに婚約者のロッシュが近付いて飲み物を差し出しながらその横に立った。
「今の表情良いね」
ロッシュの言葉にカリンナは口元を手で隠しながら可笑しそうに笑った。
「フフ、“秘めた想いに心を痛めながら笑う”感じをイメージしましたのよ?」
「他の人に見られたらほんとに勘違いされちゃうよ? 大丈夫?」
苦笑してそんな事を言うロッシュにカリンナは微笑む。
「わたくしがティオレイド様に想いを寄せているなんてマリリンくらいしか信じませんわ。当のティオレイド様自身がわたくしに興味がありませんもの。ティオレイド様の事を少なからず知っている方なら分かりますわ」
そう言って笑ったカリンナはロッシュから貰った果実水に口付けた。喉に流れる冷たさが気持ちが良い。
「マリリンが少しの優越感を感じていればいいのですわ。今あの子は色々忙しいですから、それくらいの飴は与えて上げないと。わたくしがあの子に飴を上げられるのは今の内ですから……」
少しだけカリンナの瞳が寂しそうに揺れる。そんな変化をカリンナ自身は気づいてはいないのだろうなとロッシュは微笑ましく思った。
「他家に嫁いで行っても、姉妹の絆は変わらないさ」
ロッシュの言葉にカリンナはティオレイドに目を向けて肩を竦める。
「絆は変わらなくても“時間”は変わってしまいますわ。
わたくし、あの子に会わせてもらえるかしら?」
はぁっと溜め息を吐きながら頬に手を添えて首を傾げたカリンナにロッシュは笑った。
「ハハハ、なら親族会とか多めに開いて無理やり顔合わせの機会を作らないといけないね」
独占欲強そうな妹君の旦那様を思い浮かべてロッシュは言った。冗談だが、冗談ではないかもしれないから笑ってしまう。
マリリン嬢も大変だな
そんな事を思われている事に当のマリリンだけが未だに気付いていなかった。
「あの子……いつ気づくのかしら?」
カリンナは妹の幸せそうな横顔を見つめながら楽しそうに呟いた。
[完]
※オマケの“更に後日談”、あります。