ある女の懺悔1
恋をした。
一生に、一度。叶うはずのない恋をした。
身分違いの恋だった。
……国も世界も次元も違う、歪で不可解で何もかも正しくない恋で、誰も味方になってくれないような、孤独な恋だった。
だけどあたしはその恋をしたことに一切後悔はしていない……はずだった。
*
親によって生まれた時から人生が決まっているのは不幸だ。
あたしは他の選択肢が存在することを知らぬうちから、お前はこの花屋の後継なのだとまるで洗脳のように言い聞かされて育った。
出来が良かった弟は、勉学に励むことを許されたのに、クソジジイはなぜかあたしにはそれを許さずに、高校を卒業したら、真っ直ぐに花屋を継ぐことを強要していた。馬鹿なお前にはこれくらいのことしかできないんだからって言って。
勉強嫌いだったからする気もなかったけど、弟には許されていることがあたしには許されていないのが気に食わない。
かといって、特別なりたいものがあったわけじゃない。けれども、お客さんにはヘコヘコするくせに、家族には高圧的な態度をとる父親が心底嫌いで、あいつと同じ職業につきたくないという思いを強く感じていた。
でも、あたしが学生だった頃は今よりも親という生き物の立場が強くて、その支配から子供が抜け出すのは厳しい時代だった。子供が楯突けば、クソジジイは容赦無く拳を振るう。女だからって関係なく、顔をガツンと一発。
大きく腫れても、病院に連れて行ってもらえたりはしなかった。クソジジイは私の頬が腫れるたび、頬の上を優しく撫でるのだ。
「なんでお前の頬はいつも腫れているかわかるか? お前が悪い子供だからだ。その証拠にお前の弟はあんなに綺麗な顔で暮らしているだろう?」
そういうと弟はクソジジイが買い与えた問題集越しにチラリとあたしの顔を覗いた。クスクスと子供らしからぬ、見下すような嘲笑。自分はお前より立場が上なのだ、と目が雄弁に語っていた。
それが体罰でもなんでもなく、躾だと許されてしまう時代だった。昭和の終わりの話だ。ネット環境も整っておらず、情報のほとんどは人伝にしか伝わらなかったため、自力で勉強したかったら奨学金を使えばいいなんてことを知ったのは、もっと大人になってからのことだった。
あたしの周りには先のことなんて考えてない、今が楽しければいいような馬鹿ばっかりが溢れていたからかもしれないけれど、情報が全然、与えられていなかった。
今、二十歳になったあたしは東京の下町に父親と二人きりで住んでいる。一つ下の弟は地方の国立大学に入るために去年家を出た。母は昔、弟を産んでしばらくした後に死んでしまったらしい。あたしも弟も、母の顔も覚えていない。
あたしは青春の全てをクソジジイとの戦いに捧げた。
あたしは素直に花屋なんか継がない。何になれるかなんてまだわからないけど、あんたの思い通りになんてならないって。
でも、全部だめだった。結局、高校を卒業した年、他所に就職することもできずに、花屋を継ぐことになってしまったのだ。
たいして花なんか好きじゃない。家が花屋だから、余った花なんかを家に飾る文化が根付いていたけれど、あいつら手入れが大変だし、腐るし、そんなにいいもんじゃない。
好きでないものを売り続ける日々はだるくて、しんどい。あたしは真面目じゃなかったから、すぐに限界がやってきた。
——こんな家出ていってやる。
そう決めたらあたしの行動は早かった。二十歳になったその日の夜中。暗闇の中に星が瞬く時間に、あたしは荷物をまとめて、愛車のバイク——ヤマハTZR250に跨り、家を出た。
「おい! 千世子! どこにいくんだよ!」
「うるせえな! ジジイ! こんなちっぽけな花屋なんて、誰が継ぐかよ!」
クソジジイはあたしがいつもと違って本気の顔をしているのがわかったのか、見たことのないくらい必死な顔をしていた。裏切られた、孤独な悲しい男の末路みたいな、そんな顔。
あんたにそんな顔をする権利があるの? って思ったけど。あいつはあのやり方が正しいと疑っていなかったのだろう。
自分のやり方が一番正しいのだと思い込み長年その概念を更新してこなかった男。
あたしはクソジジイのそういうところが嫌いだった。
どこにいくかなんて決まっていない。
とりあえず、山。山に行きたい。
バイクに乗って、風を浴びて、頭を冷やしたかった。
何も考えず下道を進む。休憩も取らずにひたすらバイクを走らせる。風で冷やされた汗が冷たい。都心部の空気の中にこびりついた排ガスの匂いが、田舎街へと進み、夜景の光が少なくなっていくにつれ薄くなっていく。
できるだけ真夜中のうちに距離を稼いでしまいたかった。馬鹿なあたしは自分の体が連日の日勤で悲鳴をあげていることにも気づかずに、がむしゃらにバイクに乗り続けた。
あっという間にあたしは都心部から離れ、山々が立ち並ぶ埼玉の峠にたどり着いた時だった。
ふわり。
体が浮いた。
「え! あ、わっ!」
バイクが地面から浮き上がる。どうやらハンドルを切るのが遅れたらしい。まずい! 早く体勢を立て直さなくちゃ。
そう思った時にはもう、あたしの体はバイクごと崖下へと投げ出されていた。
空中に浮き上がったあたしの視界には全てのものがゆっくりと映る。
ああ、これは死んだわ。絶対に死んだ。
鼓膜に張り付くような、肉体が潰れる音。
あたしは薄れていく意識の中で、ジジイの——父親の顔を思い出していた。
死ぬくらいだったら、あんな喧嘩しなきゃよかった。
落ちていく意識の中、今更生まれたってしょうがない形を持った後悔が私の心を埋め尽くしていた。
*
「ここはどこ……?」
バイクで曲がりきれず、投げ飛ばされた私は白い霧の中にいた。霧? これは本当に霧なんだろうか?
目に映るものは白、白、白。白以外の色なんていっぺんたりとも存在しない、不思議な空間だ。
ここはもしかして、死後の世界なのか?
そう思ったあたしの上から、たおやかな女性の声が降ってきた。
「大丈夫? 目が覚めた?」
「え……」
目の前に現れた女性は黒髪とアメジストみたいな綺麗な瞳をもった神々しい美しさを持った人だった。
顔の造作が極めて美しいってわけじゃないんだけど、この人はあたしたちが敵わないくらいの力を持つ上位者なんだってわかるオーラを持っていた。
ほら、教職の人間ってどこにいても教職の人間だってパッと見てわかるでしょ?
そんなふうに、自分の役割を全身から滲ませている人だった。多分、あの人を小馬鹿にしたような態度を取り続けるクソジジイがこの人にあったら速攻平伏して頭を地面に擦り付けるような。そんなオーラを持っていた。
女神様(仮)は淡々と今の状況を説明してくれた。
あたしの体はバイク事故で損傷してしまっていること。今の医療技術では体を治すことができないため、女神様(仮)がそのままこちらの世界にあたしの体を持ってきてしまったこと。
体の傷は女神様(仮)が直してしまったこと……。
「本当はルール上、この空間で私が体の損傷を治すのはNGなんですが……。私もこの仕事についたばかりで焦ってしまったみたいです。うっかりあなたをこちらで治療してしまいました……」
そういった女神様(仮)の手には『初めてでも簡単! 神様マニュアル初心者研修版』という、不安な内容の冊子が握られていた。あたしが学生の時に使っていた教科書のようなチャチな冊子に見えるけど、まさか神様もあんなものを使ってあたしたちを管理しているんじゃ……。うわっ、考えたくない。
「このままあなたをあちらの世界に帰したら、私、上長に怒られる……」
「上長……」
どうやら神様達にも上下関係があるらしい。神様になってさえこの世界は世知辛いのかよ、とあたしは苦々しく思う。
「あ、隣の世界を管轄している私の先輩に当たる神なんだけれど……ご自身が仕事ができる分、細かいミスをおこしがちな私にすっごく厳しいのよね……。はあ……。こんな時にあの子がいればなあ……」
「あの子?」
あたしが言うと、女神様(仮)はハッと焦った表情を見せた。
「いえ、これは私の独り言ですから気にしないでね。それよりも、あなたの処遇をどうするかが、問題ね。……もしあなたさえ良ければ、私の隠蔽工作に協力してくれません?」
「は?」
「このままあなたを戻すと上長に怒られちゃうのよ。だから一年くらい、よその国に行って行方をくらまして欲しいなあって……」
だめかしら、と上目遣いであたしをみる女神様(仮)。
「よその国ってどこよそれ……?」
戦々恐々としながら尋ねると、女神様(仮)はそれを承諾だと勘違いしたのか、ぱあっと顔を明るくして弾けるような口調で言った。
「ラザンダルクという国よ!」
「ラザンダルク……」
脳内にうっすらとある世界地図を引っ張り出してきたが、勉強が嫌いだったあたしにはその国がどこにあるのかわからない。
名前的に中東っぽい響きだけど……。危ないところじゃないよね?
「ちなみに、その一年間はあたしの生活は保証してくれんの?」
「ええ! もちろん。私の不備でここまで違う国に行ってもらうんだもの。もちろん生活に必要なものは揃うようにしておくわ。なんなら、国の有力者を御用聞きにつけましょう」
御用聞き? とあたしは首を傾げたが、もう女神様(仮)はあたしを別の国に連れていく準備で頭の中が忙しいらしい。「術式見直しておかなくちゃ」とか「あれ? 今の政権って誰が握ってるんだっけ? 弟? 姫の方?」とか訳のわからないことを心ここに在らずって感じで、ブツブツつぶやいている。
彼女がやっと落ち着いた頃には女神様(仮)の中で準備が完全に整っていた。
「さあ、そろそろあちらの人たちも呼ぶ準備ができたみたい! あなたも心の準備はいいかしら?」
こっちの意見は丸無視かい……。とツッコミたくなるところだけど、相手は神様なのだから、多少我が儘なのは仕方がないのかも。
でも、よくよく考えると一年間くらいあのクソジジイと距離を置きたいとは思っていたから、この提案はあたしにとっても都合がいいのかもしれない。
「なあ……。最後に一つ聞いていいか?」
「なあに?」
「あんたって……もしかして女神様?」
憮然とした表情で聞くと、女神様(仮)は緩んだ表情をして笑った。
「そうよ。みんな最初に聞くのに、最後にそれを聞くなんて変わった人ね!」
白い部屋の中で最後に見た女神様の頬を赤く染めた花ひらくような表情は、きっと一生忘れないと思う。




